その一声は慎重に その1
私のお母さんは、驚くほど若く見える。たぶん、二十歳と言ってもほとんどの人が信じるだろう。お母さんと二人でいるところに友達と遭遇したりすると、「あれ? 一人っ子って言ってなかったっけ? なんだ、お姉さんいたんだ」と本気で私に言ってくるぐらい。ついでに言うと、お母さんは娘の私から見ても可愛い。
これで、若さを保つための努力を何一つ意識的にしていないのだから、世のお母さんのどれだけの人が羨むことやら。また、努力がまったく報われないお母さんたちにとっては、羨むどころか妬ましくて憎々しい存在だろう。
娘の私としては、無論そんな母を大歓迎。だって、将来私もお母さんみたいになれる可能性があるっていうことだから。
ああ、なんて罪深いお母さん。
そしてその罪は、去年の年末辺りからさらに深くなった。
それまでは、お母さんと二人で歩いていて、知らない男の人から声をかけられたりナンパされることはなかった。それはそうだろう。隣に似た顔の、小学生と思われる女の子がくっついていれば、私たちを親子と思わないにしても、自然とナンパの対象から外されるのだから。
ところがここ半年ほどで、まだ片手で足りる回数ではあるけど、二人でいるときに若い男の人から声をかけられるようになった。
例えば、いま現在のように。
「か~のじょ~たち~。か~わいいね~」
十代後半から二十代前半と思われる、見るからに軽薄そうな男の人三人組の一人が、こちらが笑い出してしまいそうな見たまんまの軽薄な口調で、ショッピングモールのベンチで一休みしている私たちに声をかけてきた。
うわあ、こういう人たちってまだいたんだ。
この人たちが声をかけた相手がお母さんだということは、その視線からすぐに分かった。それはそれでちょっと悔しいけど、自分が対象外だということにちょっとホッとしてもいる。だって、何かされたらと考えるとやっぱり恐いもの。安全だと分かっている状況だとしても。
そんな私とは異なり、お母さんは「そんなことないですよ」と、動じる様子もなくにこやかに答えた。
私も何か言った方がいいような気もするし、例えば「お母さん、これってナンパ?」などと言ってみるのも手だと思う。まさか私みたいな娘を持つ母親だとは思っていないこの人たちは、他の人たち同様にもの凄く驚くだろうし、出鼻をくじかれて、早々に何処かへ行ってくれるかもしれない。けど、こういう場面ではお母さんに任せることになっているので、口を結んでいる。
そして最初に声をかけた青いシャツの男の人は、下心見え見えの顔で「ほんと、すげ~可愛いって~」と、同じような表情の残り二人と一緒にこちらへ寄ってくる。
少しだけ緊張する私と、変わらず「ありがとうございます」と答えるお母さん。
「事実を事実として言っただけだって~。マジで~」
「そんなに言われると、照れてしまいます」
お母さん、本気で照れてはいないと思うけど、そのリアクションは逆効果だと思うけど。ほら、「ねえねえ彼女たち、いま暇?」って喋った派手派手しい柄のシャツを着た男の人の鼻の下が、思いっ切り伸びてるもの。
「残念ながら、暇ではありません」
「あ~、買い物中ってことね~? だったらさ~、俺らもその買い物に付き合わせてくんないかな~。かわりにさ~、買い物終わったらあ、俺たちが色々ご馳走してやるからさ~」
私とお母さんが手にしている買い物袋を見てそう言った青シャツ男の態度が、なんか大きくなった。しかも、野球帽みたいなキャップを二つ、ツバの向きを違えて重ねて被っている第三の男の人も、「食い物以外にも、色んなものをさあ」と調子づいてくる。
「すみません、そういうわけにはいかないので」
「なあなあ、いいじゃんよお~」
「良い思いさせっから」
「俺たちと楽しくしようぜ?」
うわ~、三人揃ってここまで小物臭いと、誰がなに言ってるかなんて本当にどうでもよくなるし、なんだか哀れにさえ思えてくる。
こういう人たちって、一生小物で終わるんだろうなあ。どんな世界にいても。
と悠長に達観しているようで、実は私、ちょっとだけ震えてます。
対してお母さんは、この人たちの相手はもう飽きた、と思ってかどうかわからないけど、にこやかにこう言った。
「そんなことしたら、夫が怒ってしまいますので」
「お――、っと?」
「はい。私の旦那さんです」
途端、青シャツ男と派手柄男が「うっそ」「ンだよ人妻かよ」とぶつぶつ文句を言い出した。これで退散してくれることを期待したのだけど、そう簡単には終わってくれなかった。諦めの悪い帽子男が「旦那なんてどうでもいいじゃん」とにやけ顔で言うと、残り二人が気を取り直してしまった。
しつこいなあ。
そう思っていると、青シャツ男が「旦那のことなんて忘れて、俺らと君ら姉妹とで楽しもうぜ?」と言ってきた。
「いえ、この子は私の娘です」お母さんがさらりと答える。そして小物たちはしばらく固まり、どっと笑い出した。
「冗談きついよ! きみにそんな大きな娘がいるわけないっしょ!」
「姉妹なのバレバレだって!」
「どう見たってそんなに離れてないじゃん!」
これはこれで娘としても喜ばしいリアクションではあるけど、こういう人たちにされるとムッとするのはなぜ?
「そう言われても、本当にそうなのでしかたありません」
と言われてすぐに信じる人はとても少ない。彼らもやはり信じようとはせず、青シャツ男の隣にいた派手柄男は「じゃあそれでいいよ。親子ってことにしとこうぜ」と目尻の涙を拭き取って言った。
さて、こういう展開になってしまうと、お母さんが何を言っても信じてもらえないだろうし、諦めてくれないだろうことは想像するまでもない。私が出来ることといえば、ここで悲鳴を上げることくらい。今の今までは耐えてこられたけど、なんだかもう、本気でこの人たちがウザくなってきたし、大声で叫んでやろうかと考え、ちらりとお母さんの様子を伺ってみた。
その表情に、私は「あれ?」と思った。ぞっと驚き困惑した顔をしていて、それがこの状況に似つかわしくないと感じたから。でも、その理由はすぐに分かった。
お母さんの困惑した顔は、慌てる中で無理につくった笑顔に変わった。
「あ、あの! でしたらこうしましょう! あちらにいらっしゃるお巡りさんに相談してみましょう!」
こういうときこその巡回中のお巡りさん。小物さんたちはお母さんの言葉につられて、指さす方を見る。私もつられて見てしまった。
あ、いた。
これはさすがに効くでしょう。と思って小物さんたちを見る。と、右端に立っている派手柄男の右肩に手が乗っかってた。
え……、心霊現象……ですか?
とちょっとだけ血の気が引いた次の瞬間、その手は派手柄男の肩をグイと掴み、派手柄男の体をコマのようにくるんと回転させた。そして、背中を向けたその人は、「ゴッ」というものすごく鈍い音を残して頭から真横に吹っ飛んでいった。それから間髪入れず、真ん中に立っていた青シャツ男の体が、派手柄男のいた方へとくるんと向き、今度は「ドンッ」という音がした。何の音だろうと思う間もなく、青シャツ男がお腹を押さえて背中から倒れる。そして最後は帽子男。隣二人の異変に気付いた時には時すでに遅く、振り向いた途端、左の頬に振り下ろされた拳が入った。そして帽子男は、その帽子を飛ばして地面に叩きつけられ、涙目で頬を押さえながら言葉にならない呻き声を上げる。
そして、
「大丈夫かっ!」
お父さんが私たちに言った。
あまりにも一瞬の出来事だったので、今一つ状況について行けないまま、とりあえず頷く。お母さんも、「大丈夫ですけど……」と戸惑っている様子。
するとお父さんは、安堵の表情を見せたすぐあとに、鬼の形相で帽子男をグイとつるし上げて、そのまま噛み殺してしまいそうな勢いで怒鳴った。
「俺の大事な家族になにしやがった!」
お父さん、こわいよ……。
「パ、パパ! 私たちは大丈夫ですから! だから止めてください!」
「事と次第じゃこれで済ませねえぞ!」
激昂したお父さんの耳にはお母さんの声が届かないようで、お母さんは殴りかかろうとするお父さんの右腕を止めようと、慌てて抱きかかえた。
「パパ! この人たちはただ私たちに声を掛けただけです!」
すると、どうやら身を挺したことが良かったらしく、お父さんは「え?」と驚いた顔で、お母さんに抱きつかれた右腕を止めた。そしてここで、「そこまでにしとけ」という声が聞こえた。見ると、さっきのお巡りさんがいた。
近くで見るとこのお巡りさん、正直恐いんですけど。
さすがにお巡りさんの前ではお父さんも腕を下ろすしかなく、掴んでいた帽子男を投げ捨てるように放し、そして「こっちは正当防衛だ」と言い捨てた。お母さんは「あの、これには事情があるんです! だから、あの!」と困惑した様子で慌てふためいている。
私はというと、この状況で何をどう言えばいいのか分からずにいた。
「落ち着いてください、奥さん。事情はちゃんとお聞きしますから。とりあえず、壁の方に向いてください。そして、とにかく深呼吸することに集中してください。周りの雑音は一切気にしないで。いいですね?」
「は、はい……」
お母さんは、お巡りさんに言われたとおりに壁に向かい、深呼吸を始めた。そしてお巡りさんは、今度はお父さんに向かって「馬鹿かてめえは」と呆れた様子で言った。
「な、ンだと! こんなヤバイ奴らをのさばらせるような警察が、偉そうに言ってんじゃねえよ!」
「ヤバイ? このしょっぱいナンパ常習犯どもがか?」
「ああそうだよ! このしょっぱいナンパ――! え? しょっぱい……、ナンパ常習犯?」
途端、お父さんの怒気が霧散し始めた。
「ちょっと待て。こいつら、女性をナンパしてはそのまま拉致って、卑劣なことをする三人組じゃないのか?」
「あ? 何言ってンだ? つうか、いつの話してんだよ」
「いつって……、いつ?」
「それはもう八年も前の事件だし、ずっと遠くの町の話だ。阿呆」
「え……。てことは、こいつらは……」
「だからしょっぱいナンパ野郎って言っただろ」
「な、なんだ……、そうだったのか……」
お父さんは心底ホッとしたようで、長々と息を吐き出した。
つまり、そういうことであれだけ怒ってたんだ……。
いつの間にか深呼吸を止めてこちらを向いてたお母さんも、ちょっと感動してるっぽい。まあ、雑音を気にするなって言ったって、耳には入っちゃうもんね。
そして、地面に倒れたままのしょっぱいナンパさんの一人、青シャツ男が、息苦しそうに「ふざけんじゃねえぞ」と悪態をつくと、お父さんが青シャツ男の腹をドンと踏みつけ、「お前らが紛らわしいマネするからだろうが。だいたい、人の嫁さんと大事な一人娘にちょっかい出すからこうなるんだ」と、止めさせようとするお母さんの声を無視して、冷たい目で睨み付ける。
でもお巡りさんの声を無視することは出来なかったようで、「おい、そこまでにしとけ。あんまやりすぎると、過剰防衛でしょっぴくぞ?」と言われて、渋々足をどかした。
「しっかし、家庭持ったお陰でずいぶん丸くなって、良い父親にもなったって聞いてたが、ガキのまんまか? 岡崎」
「大きなお世話だ。だいたいなんで、見ず知らずの……、あんたにそこまで――、って、なんで俺の名前……?」
お父さんは訝しげにお巡りさんを見る。きっと、記憶に残っている知り合いと照合しているところだと思う。
「……まあ、忘れちまっても仕方ないか。十五年近く前だからな」
「十五年前?」
「俺と河原で殴り合っただろ」
「河原で、殴り合い……、って。ああ! 思い出した! 宮沢の兄貴のことで、族同士のケンカに巻き込まれて。あの時のアンタか」
「思い出してくれたか」
「ああ。アンタのパンチも蹴りも強烈だったし、こっちがいくら殴っても効かねえし、あのときはバケモン相手にしてる気分で、本当にうんざりしたぜ」
「そりゃこっちの台詞だ。どんだけぶっ倒しても立ち上がって、負けを認めやしねえ。呆れるぐらいタフで、おまけに、俺らとは何の関係もねえのにあそこまで体を張りやがって、てめえみたいなヤツが、一番厄介で迷惑なんだよ」
「迷惑だったのはアンタらだろ」
「それはまあ、否定はできねえな。くはは」
なんてお父さんとお巡りさんのやり取りに、お母さんも「お久しぶりです。佐々木さん」なんてにこやかに加わった。
……なんか、和やかに盛り上がってるんだけど。今って、そういう状況?
ああ、ついでに言うと、完全に存在を忘れられている三人が、
げっ、マジかよ、今や語り草になってる伝説の河原の決闘の、あの佐々木と岡崎かよ、俺たち、そんな人の奥さんと娘さんをナンパしてたのかよ、やべえよ、殺されるよ、いやまて、ポリの前で殺されはしないだろ、そうだとしても、ムショ暮らしは確定だよ、下手すりゃ絞首刑だよ、どうすんだよ!
などと、うずくまったまま血相を変えて囁き合っている。
とりあえず、伝説云々についてはあとで聞くことにしよう。
このあと、顔を腫らした帽子男と派手柄男、それとお腹を抱えている青シャツ男は、私たちの前で「もう二度とこのようなマネはいたしません! だから殺さないでください!」と額をこすりつけて土下座して、お巡りさんの許しも得て退散。ええと、どっちかっていうと謝るのはお父さんの方のような気もするけど、まあ、ついさっきトイレに行ってた際に小耳に挟んだ八年前の事件を、今この町で起きている事件と勘違いしてしまったのは不可抗力なわけで、だからお父さんは何も悪くない、ということで。
そして遠目で見ていた人たちも、その様子を見届けてから散会していった。その中に、お父さんに拍手したり、よくやったと激励の言葉を投げてくれた人も何人かいて、お父さんもお母さんも恥ずかしそうにしてたけど、私は嬉しくてたまらなかった。
ただ、なにか嫌な予感も、ちらっとしてた。
まさかとは思うけど、明日から私、恐そうな人たちからいきなり頭を下げられる、なんてことはないよね?




