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宇宙の境界に 君の名を  作者: 南馬一六三


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第五部 君がいない宇宙で

 渡部夏世奈(わたなべかよな)が亡くなったあとも、研究室の明かりが消えることはなかった。

 彼女が使っていた机には別の研究者が座り、古くなった観測装置は新しいものへ置き換えられた。壁に掲げられた研究計画も何度となく更新されたが、その基礎となる理論と膨大な観測記録は、今も世界中の研究者によって読み継がれていた。


 宇宙の未来を守るという仕事は、一人の科学者の死によって終わるものではなかった。

 夏世奈の死から数年後、若い研究者の一人が、境界位相の制御理論に含まれる計算上の誤りを発見した。長年にわたって使用されてきた近似式が、特定の条件下では成立しないことを突き止めたのである。

 その修正は、これまで解決できなかった制御の不安定性を説明するものだった。

 研究者は修正後の計算結果を前に、しばらく言葉を失っていた。夏世奈の理論は、多くの科学者が検証を重ねてきたものだった。自分が見つけた誤りを報告することに、ためらいがなかったわけではない。

 だが、彼女が残した研究記録の中には、こんな言葉があった。


『私の計算が間違っていたら、遠慮なく直してね』


 研究者はその一文を読み返し、修正した計算結果を共同研究チームへ送った。

 それからも、研究は何度となく壁に突き当たった。境界位相を安定させるための理論が整っても、それを宇宙規模の現象へ適用するには、膨大なエネルギーと極めて高い制御精度が必要だった。装置を大型化すれば新たな誤差が生じ、安全性を確認するためには、さらに多くの実験を重ねなければならない。

 次元Aの科学者たちは計算と設計理論を送り、次元Dの研究者たちは観測と実証を続けた。通信窓が開く機会は限られていたが、双方はその短い時間を使い、可能な限り多くの情報を交換した。

 ある世代が解決できなかった問題を、次の世代が引き継ぐ。新しい発見が古い理論を修正し、その修正がさらに新しい技術を生み出していった。


 陽呂もまた、研究を続けていた。

 夏世奈の死を知ったのは、彼女が亡くなってからしばらく経った頃だった。通信の遅延によって、地球からの知らせは容易には届かなくなっていたのである。

 その報告を読んだとき、陽呂は長いあいだ端末の前を離れなかった。

 彼女から届いた最後の研究報告には、まだ解決すべき課題がいくつも記されていた。いつものように鋭い質問が並び、計算の途中には、彼女らしい率直な意見が添えられていた。

 陽呂は、その一つずつに答えを書きかけた。

 けれど、もう彼女から返事が届くことはない。

 その事実を理解するまでに、彼は長い時間を必要とした。

 それでも研究をやめることはなかった。夏世奈が残した理論を、彼女の後継者たちが引き継いでいる。自分が手を止める理由など、どこにもなかった。


 そして西暦2196年。

 夏世奈の死から約40年が過ぎた頃、次元Dで建設された境界位相安定化装置が、ついに本格的な稼働を開始した。

 世界各地の観測施設では、研究者たちが端末に表示される数値を見守っていた。

 装置の制御が安定し、高次元境界の位相変動が減少していく。だが、それだけでは成功とは言えない。装置の周辺で数値が改善しても、宇宙全体に及ぶ不安定化を食い止められたとは限らないからだ。


 研究チームは、装置から離れた観測施設の記録を集め、制御開始前に作成していた予測と照合した。境界の状態を推定する複数の観測量が、装置の稼働に対応して変化するか。異なる機関が独立して解析しても、同じ結果に至るか。制御による変化と、観測機器の誤差や偶然の変動とを区別できるか。

 数日、数週間と検証が続けられた。

 各地の観測網から届くデータには、次第に共通する傾向が現れ始めた。境界位相の変動は、装置の制御によって予測された範囲まで抑制されている。独立した観測結果も、その変化が局所的な測定誤差だけでは説明できないことを示していた。


 一方、過去の宇宙膨張史から推定された異常な偏差は、そのまま観測記録に残っている。

 装置が変えたのは、過去ではない。

 現在の境界の状態だった。

 研究者たちは新たに得られた値をモデルへ入力し、宇宙の将来を繰り返し計算した。制御開始前には不安定化が進行すると予測されていた条件が、観測された範囲では解消されている。異なる計算手法による検証でも、将来の真空状態が安定して維持されるという結果が得られた。

 もちろん、何億年も先の宇宙を、数週間の観測だけで直接確かめることはできない。

 それでも、装置の制御、独立した観測、理論による予測は、互いに矛盾しない結果を示していた。研究チームは、長期的な監視を続けることを条件に、境界の不安定化を食い止めるための目標を達成したと判断した。


 報告が読み上げられた瞬間、研究施設には歓声が上がった。

 長年の研究に携わってきた者たちは互いの肩を抱き、涙を流した。若い研究者の中には、夏世奈の名前を教科書でしか知らない者もいた。それでも、彼女が残した理論がなければ、この日を迎えることはできなかった。


 成功の知らせは世界中へ広がった。

 街では人々が空を見上げ、喜びを分かち合った。夜空には昨日と変わらない星々が輝いている。誰の目にも宇宙が変わったようには見えなかったが、その星空の未来を守るための道が、確かに開かれたのである。

 救済成功の報告は、次元Aへも送信された。

 長く不安定だった通信経路が開き、膨大な観測記録とともに、装置の稼働結果が陽呂たちのもとへ届いた。

 彼は送られてきた数値を確認し、何度も計算を照合した。地球側の結論を支持する結果が揃っていることを確かめると、静かに息を吐いた。

 そのとき、別の受信通知が表示された。


 送信日時は、約40年前。

 差出人の欄には、見慣れた名前が記されていた。


 渡部夏世奈。


 陽呂は動きを止めた。

 それは研究報告ではなかった。観測記録も、計算結果も添付されていない。ただ一人の相手へ宛てた、短い手紙だった。

 彼は震える指先で、その文章を開いた。


『陽呂へ。

 この手紙が届くころ、私はもう、あなたに返事を書くことができないかもしれません。

 でもね、悲しまないでほしいの。

 私たちの地球には、死んだ人はお星さまになるっていう、古い言い伝えがあるんだよ。

 もちろん、科学者の私たちには、それが本当じゃないことくらい分かってる。

 だけどね。

 もし、本当に星になれるのなら、私はあなたのいる宇宙まで飛んでいきたい。

 そして、あの浜辺で、もう一度あなたの隣に座りたい。

 今度は、何度も「ここにいるよ」って叫ばなくても、あなたが気づいてくれるくらい、近くに。

 陽呂。

 あなたが私に教えてくれた宇宙は、本当に広くて、綺麗で、素敵なところでした。

 だから、私はこの宇宙を守りたい。

 あなたと出会えた、この宇宙を。

 もし、いつかあなたも星になれる日が来たら。

 そのときは、私を探しに来てね。

 何億光年離れていても、きっと見つけられるから。

 だって、私たちは一度、見つけ合えたんだもの。

 ありがとう、陽呂。

 あなたと出会えて、幸せでした。

 夏世奈より。』


 陽呂は何度も手紙を読み返した。

 彼女がこの文章を書いたとき、宇宙を救う装置はまだ完成していなかった。自分がその成功を見ることはできないと知りながら、それでも彼女は、未来を信じて手紙を残したのだ。

 陽呂は、先ほど届いた救済成功の報告へ視線を移した。

 次元Dの宇宙は、これからも続いていく。

 夏世奈が生まれ、育ち、星空を見上げた宇宙。彼女が父と過ごし、研究を続け、数え切れないほどの人々と出会った宇宙。そして、自分へ最初の手紙を送ってくれた宇宙だった。


「そうか。よかった」


 陽呂は静かに呟いた。

 彼女が守ろうとした未来は、確かに守られた。

 ただ、その喜びを真っ先に伝えたい相手は、もういなかった。

 それからも陽呂は、長い年月を生き続けた。

 彼の宇宙では新しい技術が生まれ、研究施設の姿も変わっていった。かつてともに働いた仲間たちは次第に姿を消し、若い世代が新しい発見を重ねていく。陽呂自身も、やがて研究の第一線を退く日を迎えた。


 それでも、夏世奈との通信記録だけは、変わらず大切に保管していた。

 6歳の少女が送ってきた、意味のわからない文字列。何年もかけて解読した最初の手紙。自分に贈られた「陽呂」という名前。季節の移ろいを知らせる便り。そして、彼の理論に真っ向から異議を唱えた、一人の科学者の言葉。


 長い生涯の中で、彼は二人の夏世奈と出会っていた。


 かつて同じ宇宙で生き、先に旅立った恋人。そして、別の宇宙から届いた小さな手紙をきっかけに、長い年月をともに過ごした女性。

 二人は別々の人生を生き、別々の記憶を彼の中に残していた。どちらかが、もう一方の代わりだったわけではない。陽呂はその両方を、かけがえのないものとして抱き続けた。


 晩年のある日、彼は久しぶりに、あの星の浜辺を訪れた。

 夜空には見慣れた星々が輝き、静かな波が砂浜へ寄せていた。淡い光を帯びた砂も、水平線の向こうに広がる星座も、あの日とほとんど変わっていない。


 陽呂は波打ち際まで歩き、ゆっくりと腰を下ろした。

 隣には誰もいなかった。


 かつてここで、彼は宇宙の未来について考えていた。高次元境界の不安定化が次元Dへ及ぼす影響を予測し、まだ確かめられていない危機を恐れていた。

 そして、誰もいないはずの隣から、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。


『陽呂!! ここにいる!! 私、ここにいるから!!』


 あの声を、彼は今でも覚えていた。

 記録の中に残っているはずのない声。説明できない一瞬の温もり。自分が誰の名前を呼んだのか、今となっては確かめることもできない。


 陽呂は静かに目を閉じた。

 科学者として生きてきた彼には、死んだ人間が星になるという言い伝えを、事実として受け入れることはできなかった。死後の世界も、失った人との再会も、それを保証する観測結果は存在しない。


 けれど、証明できないことと、願ってはいけないことは、同じではない。


 彼は長い生涯を通じて、数え切れないほどの未知と向き合ってきた。理解できなかった現象が、やがて科学によって解き明かされることもあった。最後まで答えの見つからない問いもあった。


 夏世奈との出会いも、その一つだったのかもしれない。

 彼女は自分の名前も知らないまま、友達になりたいと手紙を送ってきた。そして何年もの時間をかけて言葉を交わし、いつしか彼に新しい名前を贈った。


 陽呂。


 彼女が呼んでくれた、その名前。

 陽呂は夜空を見上げた。

 もし、いつか自分も星になれるのなら。

 そのときは、彼女を探しに行こう。

 どれほど遠く離れていても、どれほど長い時間がかかっても、彼女がそうしたように、自分もまた手紙を届けよう。

 寄せては返す波の音が、静かな浜辺に響いていた。


 その後、陽呂は長い生涯を終えた。

 彼の墓標には、二行の言葉が刻まれた。


『陽呂 永遠に……

 君がくれた名を携え、共に星の彼方へ。』


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