第10話 日本ダービーと五万人の歓声
第三レースの結果が確定すると、義弘はモニターを見上げた。
着順が表示された瞬間、隣から将雅の声が飛ぶ。
「よっしゃ!」
その声に続くように、一樹も笑顔で馬券を握りしめた。
「当たったな!」
二人だけではない。
義弘も的中していた。
外れたのは翔太だけだった。
「マジか……。」
翔太は頭をかきながら苦笑いする。
「最後に買い目変えたんだよなぁ。」
「それは痛い。」
義弘が思わず言う。
三人は連れ立って払い戻しの列へ向かった。
翔太だけが少し後ろからついていく。
列は長かったが、待っている時間さえ楽しい。
自分の予想が当たったという事実が気分を高揚させていた。
やがて義弘の番が来る。
機械に馬券を入れる。
ウィーンという音とともに紙幣が吐き出された。
五千円ほどの払戻金。
大金というほどではない。
それでも、自分の予想が当たって手元に戻ってくる金には特別な嬉しさがある。
「おお。」
思わず顔が緩む。
隣では将雅も同じように紙幣を受け取っていた。
「やっぱ当たると気持ちいいな。」
「分かる。」
二人とも自然と笑顔になる。
一樹は受け取った札を数えながらニヤニヤしていた。
「今日は流れ来てるぞ。」
「まだ三レースだろ。」
「いや、こういう日は続くんだって。」
三人は上機嫌のまま翔太のいる場所へ戻る。
払い戻しを受けたばかりの紙幣を財布へしまいながら、誰もが笑顔だった。
将雅などは明らかに機嫌が良くなっている。
「いやー、当たりは正義だな。」
「顔が緩みすぎだろ。」
義弘が笑う。
翔太はそんな三人を見て肩をすくめた。
「いいな、お前ら。」
「残念だったな。」
「悔しいわ。」
そう言いながらも翔太はどこか冷静だった。
義弘は財布にしまったばかりの札を軽く叩く。
五千円。
決して大勝ちではない。
だが、負けるよりはずっといい。
三人が払戻金の話で盛り上がる中、翔太はすでに次の出走表を開いていた。
真剣な目で馬柱を眺める。
将雅がそれに気づく。
「もう次か?」
「当然。」
翔太は短く答えた。
「まだ終わってないからな。」
義弘はその横顔を見る。
さっき外したばかりなのに、もう気持ちは第四レースへ向かっている。
一樹が笑いながら言った。
「その集中力だけはすごいな。」
翔太は出走表から目を離さない。
数秒後。
小さく息を吐いてから、静かに言った。
「次で取り返す。」
その瞬間。
将雅が吹き出した。
「出た!」
一樹も笑う。
「それ完全に負けてる奴のセリフじゃん!」
義弘まで思わず笑ってしまう。
「テンプレすぎるだろ。」
三人の笑い声が響く。
だが翔太は真顔のままだった。
「笑っとけ。」
そう言って出走表を指で叩く。
「第四レースは自信ある。」
「さっきもそう言ってなかったか?」
将雅のツッコミに再び笑いが起こる。
しかし義弘は気づいていた。
翔太の目が本気だということに。
負けた悔しさよりも、次こそ当てるという闘志の方が強い。
第四レースの締切まで、あとわずか。
上機嫌な三人と、静かに燃える翔太。
アニメ研究部の四人は、次のレースへ向けて再び予想を始めるのだった。
・・・・・
第四レースから数レースが過ぎた頃には、場内の空気もすっかり昼の賑わいに包まれていた。
時計を見ると、ちょうど昼食にはいい時間になっている。
義弘はベンチに腰掛けながら財布を開いた。
さっきまでの結果を頭の中で整理する。
義弘はプラス四千円。
将雅はプラス八千円。
一樹はプラス八千五百円。
そして翔太は、負けを取り返したことで収支はちょうどプラスマイナスゼロまで戻していた。
「結局、翔太も戻したんだな。」
義弘が言うと、翔太は小さく肩をすくめる。
「危なかったけどな。」
「『次で取り返す』が本当に実現したじゃん。」
将雅が笑う。
「だから言っただろ。」
翔太は少しだけ得意げな表情を浮かべた。
「でも、あの時は完全に負けフラグだったぞ。」
一樹が笑うと、その場にいた四人全員が吹き出した。
「確かにな。」
義弘も苦笑する。
「あそこで外してたら伝説になってたな。」
「笑えねぇよ。」
翔太はそう返しながらも、どこか安心したような表情だった。
ここまで来ると、勝っている三人はもちろん、翔太も気持ちに余裕が戻っている。
将雅が伸びをしながら言った。
「さて……腹減った。」
「俺も。」
一樹もすぐに賛成する。
朝からレースに夢中になっていたせいで、気づけば昼食もまだだった。
義弘も時計を確認する。
「ちょうど昼だな。」
「先に飯食うか。」
将雅の一言に全員がうなずく。
「午後のレースは、それからだ。」
翔太も出走表を閉じながら立ち上がった。
「腹減ってると予想も鈍るしな。」
「それっぽいこと言ってる。」
義弘が笑う。
「実際そうだろ。」
四人は笑い合いながら席を離れた。
午前中の戦績は上々。
義弘は四千円のプラス。
将雅は八千円のプラス。
一樹は八千五百円のプラス。
翔太も見事に収支をゼロまで戻し、大きな負けを背負わずに昼を迎えられた。
財布の中身に少しだけ余裕ができた四人は、場内の飲食エリアへ向かう。
広い競馬場の中を歩きながら、どこで昼を食べるか相談する。
「何食う?」
将雅が周囲を見回す。
「せっかくだし、パドック見ながら食えるところがいいな。」
一樹がそう言うと、翔太が四階を指差した。
「あそこ。上からパドック見えるぞ。」
四人は階段を上り、パドックを見下ろせる四階のたこ焼き屋へ向かった。
店の前には立ち食い用のカウンターがあり、そこから眼下のパドックがよく見える。
「おお、ここ結構いいな。」
義弘は思わず声を漏らした。
結局、四人とも注文したのはタレカツ丼だった。
「たこ焼き屋なのに全員タレカツ丼って。」
将雅が苦笑する。
「確かにな。」
義弘も笑う。
たこ焼き屋でたこ焼きを頼まず、タレカツ丼を注文するのは邪道だと思われるかもしれない。
だが、この店のタレカツ丼は意外なほど評判がよく、一口食べると甘辛いタレが染みたカツと熱々のご飯がよく合う。
「これ、普通にうまいな。」
一樹が感心したように言う。
「だから言っただろ。」
翔太は少し得意げに笑った。
四人は立ち食いカウンターにもたれながら昼食を味わう。
眼下では次のレースへ向けて競走馬たちがゆっくりとパドックを周回していた。
食事をしながらでも自然と馬の様子に目が向いてしまうあたり、四人ともすっかり競馬場の空気に馴染んでいた。
・・・・・・
あれから午後のレースも順調に進み、気がつけば第十レース。
いよいよ日本ダービーの時間が近づいていた。
義弘たちはパドックで周回する出走馬たちを見つめる。
これまでのレースでも迫力のある馬は何頭もいた。
だが、ダービーに集った馬たちは明らかに違う。
一頭一頭から漂う雰囲気が別格だった。
筋肉の張り、歩様の力強さ、そして堂々とした立ち姿。
どの馬も、この舞台に立つ資格を勝ち取ってきた実力馬なのだと嫌でも伝わってくる。
「やっぱりダービーだな……。」
義弘は思わず息を漏らした。
周囲の観客も普段以上に真剣な表情で馬を見つめ、新聞や出走表と何度も見比べている。
四人も最後まで悩みながら、それぞれの結論を出した。
義弘と一樹はロブチェンを軸に勝負。
一方、将雅と翔太はゴーイントゥスカイを本命に据えた。
「ここは譲れないな。」
将雅が馬券を握りしめる。
「俺はロブチェンで行く。」
義弘も迷いなくうなずいた。
馬券を購入し終えた四人は、パドックを後にしてスタンド前へ向かう。
外へ出た瞬間、義弘は思わず足を止めた。
「……すげぇ。」
目の前には、人、人、人。
これまでのレースとは比べものにならないほどの観客がスタンドを埋め尽くしていた。
通路にも人があふれ、誰もが少しでも見やすい場所を確保しようとしている。
ざわめきは絶えず、あちこちから期待と興奮の入り混じった声が聞こえてくる。
日本ダービー。
その一戦がどれほど特別なレースなのか、義弘はこの光景だけで十分に理解できた。
四人は人波をかき分けながら、それぞれ馬券を握りしめ、レースを見届ける場所を探した。
上手く人波をかき分けながら進み、義弘たちは何とかゴール前が見える位置を確保した。
「間に合ったな。」
将雅が胸をなで下ろす。
周囲を見渡せば、スタンドはすでに満員。
後ろを振り返っても、人、人、人。
誰もがこの一戦を見届けようと身を乗り出していた。
その時だった。
コース奥に設置された大型ビジョンが暗転する。
場内の視線が一斉に画面へ向いた。
静まり返った場内に、重厚なナレーションが響く。
「……あれ?」
義弘は思わず顔を上げた。
「この声……ツダケンじゃね?」
「マジだ!」
将雅もすぐに気づく。
聞き慣れた低く力強い声が、会場全体を包み込んでいた。
映し出されたのは、歴代の名馬たち。
力強い走り、幾度となく繰り返される名勝負、そして勝利の瞬間。
ツダケンの重厚なナレーションが映像をさらに引き立て、会場の熱気は一段と高まっていく。
「うぉぉぉぉぉ!」
場内からは大きなどよめきと歓声が上がり、自然と拍手が沸き起こった。
義弘も思わず画面に見入っていた。
「すげぇ……。」
ただレースを見るだけではない。
日本ダービーという舞台そのものを演出する、特別なオープニングだった。
やがて映像が終わると、一瞬の静寂が場内を包む。
その静寂を切り裂くように、生演奏のファンファーレが高らかに鳴り響いた。
「おお!」
観客席から手拍子が上がる。
金管楽器の音色が東京競馬場全体に響き渡り、空気が一気に張り詰めていく。
義弘は無意識に馬券を握る手に力を込めた。
ファンファーレが終わると、一頭、また一頭とダービー馬たちがゲートへ向かって歩き出す。
誘導馬に導かれ、それぞれが落ち着いた様子でゲートへ収まっていく。
「頼むぞ、ロブチェン……。」
義弘が小さくつぶやく。
隣では将雅と翔太が、ゴーイントゥスカイをじっと見つめていた。
誰もが言葉を失う。
数万人の視線が、十八頭の若きサラブレッドへ注がれていた。
スタート。
ガシャンという音とともにゲートが開く。
「おおおおおっ!!」
数万人の歓声が一斉に湧き上がり、地鳴りのような声援が東京競馬場を包み込んだ。
十八頭が勢いよく飛び出していく。
「いいスタートだ!」
義弘は叫ぶ。
最初のコーナーへ向かう隊列は、⑦番、⑪番、①番が先行集団を形成。
義弘と一樹が本命にしたロブチェン、将雅と翔太が軸にしたゴーイントゥスカイも、中団やや前方につけていた。
「悪くない!」
将雅が声を上げる。
「そのまま、そのまま!」
一樹も思わず叫ぶ。
向こう正面へ入ると、各馬が徐々にポジションを入れ替え始める。
先頭は⑪番。
その直後に⑦番、さらに⑫番が押し上げてきた。
「まだ動くな……。」
翔太は食い入るように馬群を見つめる。
第三コーナーを前にして再び隊列が変わる。
先頭は依然として⑪番。
その後ろに⑤番が一気に進出し、⑦番が続く。
「⑤が来た!」
義弘は思わず声を漏らした。
「ロブチェンは!?」
掲示板を見る。
向こう正面でロブチェンは無理をせず徐々に位置を下げ、脚をためる。
ゴーイントゥスカイも十四番手あたりでじっと脚をためていた。
「まだ動かない!」
翔太が叫ぶ。
「ここからだ!」
第四コーナー。
先頭は⑪番、⑤番、⑦番の順で最後の直線へ飛び込む。
一方、ロブチェンは十七番手。
ゴーイントゥスカイは十四番手。
「届くか……!」
義弘は無意識に馬券を握り締める手に力を込めた。
東京競馬場名物、五百二十五メートルの長い直線。
すべては、ここからだった。
場内の歓声が一段と大きくなる。
「上がってこい!」
義弘は馬券を握る手に力を込めた。
「まだ後ろだ!」
一樹の声が飛ぶ。
直線に入っても、ロブチェンの前には何頭もの馬がいる。
「厳しいか……。」
そう思った次の瞬間だった。
大外。
一頭だけ、まるで脚色の違う馬がいた。
「来たぁ!!」
義弘が叫ぶ。
ロブチェンだった。
一歩ごとに前との差を詰める。
並んでいた馬たちを、外から一頭ずつ飲み込んでいく。
「伸びてる! 伸びてるぞ!!」
一樹も叫ぶ。
その勢いは止まらない。
残り二百メートル。
先頭との差が一気に縮まる。
場内のどよめきが歓声へ変わった。
「うおおおおおおっ!!」
義弘たちだけではない。
スタンド中の観客が総立ちになり、大歓声を送っていた。
「差せぇぇぇ!!」
義弘は夢中で叫ぶ。
その横では将雅と翔太もゴーイントゥスカイへ声援を送る。
「そのまま!」
「もうひと伸びだ!」
ゴーイントゥスカイも内から懸命に脚を伸ばしている。
しかし、大外の勢いは止まらない。
ロブチェンが一気に先頭へ並びかける。
残り百メートル。
大外からロブチェンが豪快に伸びる。
内ではパントルナイーフも一歩も譲らない。
「並んだぁぁぁ!!」
義弘が叫ぶ。
「どっちだ!?」
一樹も身を乗り出す。
そのすぐ後ろでは、バステールとゴーイントゥスカイが馬体を併せ、三着争いを繰り広げていた。
「ゴーイントゥスカイ、差せぇぇぇ!!」
将雅が声を張り上げる。
「食らいつけぇぇぇ!!」
翔太も思わず叫ぶ。
残り五十メートル。
ロブチェン。
パントルナイーフ。
二頭の鼻面がまったく離れない。
その後ろでは、バステールとゴーイントゥスカイも最後の力を振り絞る。
東京競馬場を埋め尽くした観客の歓声が、地鳴りのように響く。
「行けぇぇぇ!!」
「負けるなぁぁ!!」
「そのまま!!」
「差せぇぇぇ!!」
四人は誰が何を叫んでいるのかも分からないほど夢中だった。
その瞬間だった。
義弘は首から提げていたカメラを、ほとんど無意識に構えていた。
ファインダーいっぱいに映るのは、ゴール板へ飛び込もうとする四頭の姿。
勝敗を記録したかったわけではない。
若駒たちがすべてを懸けた、この瞬間だけは残しておきたかった。
息をのむ間もなく、指が反射的にシャッターボタンを押す。
カシャッ。
その一枚に、若駒たちがすべてを懸けた一瞬が切り取られた。
そして――
「「いけぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」」
ロブチェンとパントルナイーフが、ほとんど並んだままゴール板を駆け抜ける。
さらに一拍遅れて、バステールとゴーイントゥスカイも並ぶようにゴールインした。
「うわぁぁぁ!!」
「どっちだ!?」
「写真だろ、これ!!」
「すげぇぇぇ!!」
四人は興奮したまま互いの肩を叩き合った。
誰も確信が持てない。
スタンド全体がどよめき、大型ビジョンへ視線が集まる。
やがて――
掲示板に着順が表示された。
17-13-5-14
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「うおおおおおおっ!!」
東京競馬場が割れんばかりの歓声に包まれた。
「ロブチェンだぁぁぁ!!」
義弘が拳を突き上げる。
「最後、差し切った!」
一樹も満面の笑みで叫ぶ。
「ゴーイントゥスカイ、惜しかったなぁ!」
将雅は悔しそうに笑いながらも、大きく拍手を送る。
スタンドでは勝者を称える拍手がいつまでも鳴りやまなかった。
翔太も息を切らしながら笑っていた。
「でも……すげぇレースだった。」
その一言に、三人も無言でうなずく。
勝った馬も。
惜しく敗れた馬も。
十八頭すべてが、この舞台にすべてを懸けて走り抜いた。
四人は顔を見合わせる。
そして、誰からともなく笑みがこぼれた。
「最高だったな。」
その言葉に全員が大きくうなずく。
初めて生で見た日本ダービー。
東京競馬場を包み込んだ歓声も、最後の直線の熱狂も、写真判定を待つあの数秒の緊張も。
そのすべてが、四人にとって一生忘れることのできない思い出になった。
お久しぶりです。ここ最近忙しく更新が止まってしまっていました。今後もこんな感じで不定期な投稿になってしまいますが読んでくださっている方、気長にお待ちください。書きます!




