第八十四話 最後の壁
ひまりの背後にぽっかりと風穴が空くと、半透明の空間に白い光が照らされる。
右のガラス面にギラギラと乱反射して、少女の顔が浮かび、下瞼に滴が光った。
「あたしを…………捨てるの?」
「あなたとは、一緒になれない。ひまりはひまりで、あなたはあなただから」
ガラスが花びらみたいに粉砕し、双方から光が差し込む。
「あたしは…………いらないの?」
「あなたの居場所はここじゃないし、ひまりの帰る場所もここじゃないの」
ひまりが告げると、左のガラスも儚く砕け散る。
「ありがとう。ひとときの夢をくれて」
ひまりは上の少女を見上げて言って、下の波紋に揺れる少女に笑いかけた。
「でもね、ひまりには待っている人がいるから………帰らなくちゃいけないの。あなたも、そうだよ。ママのところへ帰らなくちゃ。今度こそ迷子にならずに、帰らなくちゃ…………」
ピキリ、と凍りついた瞳から亀裂が入る。涙をなぞるように、ひび割れが走る。
「さようなら。私はもう………迷わないよ」
少女の甲高い悲鳴が響くと、ビキビキと割れ目が広がり、部屋のガラスが全面砕けて、粉微塵に舞い散った。
「アイスケくん!!」
繋いでいた二人の右手が強引に引き離される。
日光のような光に吸い込まれて、ひまりはそれでも手を伸ばした。
「大丈夫。俺もすぐ行くから」
目を細めて微笑むだけで、アイスケは手を取らない。
ひまりが光に飲まれて消えゆくまで、最後の最後の叫びの余韻が耳元を去るまで、満面の笑顔で見送った。
やらなくてはいけないことが、あと一つだけ、残っている。
「ぁ、たし、は………死な、な、い………」
青く染まったあどけない少女が、眩い光にうっとうしそうに唸りを上げて、透けた体をゆらゆらと浮遊させた。
「もっと………もっと最高の器を見つけるまで…………絶対に死ぬもんかぁぁぁぁあああああああッ!!」
「もう、死んでるんだよお前は。いい加減に認めろ」
「うるさぁぁああああああああいッ!!」
白い部屋が、色をなくして暗転した。
青い瘴気の渦が巻いて、旋風が吹き起こる。
その渦の中に、鎧を纏った骸骨の武者がミキサーみたいに瞬速に回っていた。
再び、アヴィスの幻術に囚われたようだ。
アイスケは視線を一周する。
旋風は、四方からクラッキングの音を鳴らせて接近する。
骸骨の武者が操られた傀儡人形のように、一列に連なって襲いかかった。
「あたしはァ!! あたしは必ず生き延びてみせるッ!! 永遠の命を手に入れてみせるッ!!」
どこからともなく響く少女の声。
武者の襲撃に扉のない暗闇の道を走る。
「あたしに抗えるものがないってことを、全世界の者どもに脅かし、証明しやるのよ!!」
先の見えない暗闇の階段を、駆け上る。
「っ!」
一人の武者がぎこちない動きで、骨の矢を放った。
その迫り来る風を貫く音に、右足を大きく振り上げ、つま先を横切るギリギリの距離で回避した────が、傾いた体は重心を崩して闇の底へ落下した。
「があっ!」
冷たい沼に足からはまって、ずるずると飲み込まれる。
蹴っても、もがいても、両足は重石を括り付けられたように抵抗を封じられ、底なし沼に沈められてゆく。
カタカタカタ!! と骨を軋ませて、沼の上で囲む骸の人海。
すっ、と息を吸い込んだ────が、喉に張り付くように、声が、出ない。
ぱくぱくと口だけ開いて、息が凍る。
頭に浮かんだはずのメロディが、一音も生むことができない。
「きゃははははははははははっ!! 何度も同じ手にはかからないわよバァァァァカ!!」
これは、恐怖だ。
幻術という名の恐怖で、抵抗の余地も許さず押し潰そうとしている。
何度息を吸おうとしても、喉が詰まって呼吸もままならない。
目が霞んで、頭が重い。ぞわぞわと、底から虫が這うように、足の指先から痺れが広がる。この処刑台へとゆっくり導くねっとりとした恐怖心は、痛みよりもずっとおぞましい──────痛み?
アイスケはハッとして、己の尻尾を引っ掴んだ。
ゲタゲタゲタ! と骸骨がけたたましく嗤い、距離を縮める。
さらに八方から旋風が吹き荒れて、死角をなくした。
底なし沼が腹まで絡みつく。
「あんただけは許さない…………暴君の孫がッ!! アヴィスの幻術に溺れて死ねぇッ!!」
魔法も使えない貧弱な悪魔に、勝機など、ない。
だったら、あがくだけだ!
アイスケは、両手で掴んだ尾を、その鋭利な先端を──────己の肩にぶっ刺し、貫いた。
ブシャ!! と暗黒の中に、漆黒の血が跳ねた。
いたい。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
「ぉああああああああああああああ!!」
喉を張り裂けんばかりに叫んだ時、脳の血管が波打って、闇の部屋に亀裂が入った。
全神経が悲鳴を上げ、全細胞が踊り狂い、左肩から熱い熱い血が繁吹く。
「ぐがああああああああああああああッ!!」
アイスケは体を弓なりに反り返し、黒い天を仰いで、獣性剥き出しに吠えた。
その狂気じみた激痛と共に、死んだ五感が生まれ変わり、「痛い」と全身が叫んだ。だが同時に、霧が一瞬で晴れるような──そんな爽快な比喩がふさわしく、ふっ、と、頭が冴え渡るのを感じた。
ビギリ、と、闇の部屋に、もう一筋の亀裂が入る。
ビキビギ、と、亀裂が夜空の星座を描くように走った。
刹那、沼の水が虚空に吸い込まれ、武者の骨が闇の底に溶け崩れる。
漆黒の空が切り開いて、隙間から白い太陽が顔を見せた。真っ黒の幻想世界が、一筋、一筋、光の斬撃を振りかざすように、烈々しく照らされる。
「くっ…………こい、つ……」
光を取り戻した一枚のガラスが浮かぶ部屋。
少女の素顔と再び対峙した。
尾を引っこ抜いて、血塗れの肩に拳を押さえる少年は、息を上げながらも、瞳に生気の光を宿していた。
「痛みで幻術を解いたっていうの……………」
「はっ…………やっぱり、本当にビビってんのは、お前じゃねーか?」
上から見透かしたような低い声に、ひっ、と少女はビクついて、後ろへ引く。
「も、もういいわよ………そのしぶとさに免じて、特別に見逃してあげるわ…………」
ゆらゆらと棚引く瘴気を持って、少女は引き下がる。
「あんたがいようが、いまいが、あたしには関係ないもの。憑依はいくらでも繰り返せる!! あたしは永遠に、この世界に返り咲く!!」
駄々をこねて泣き喚く子供のようだ。アイスケは思った。
孤独から抜け出そうと懸命にもがいている子供のようだ、と。
そんな哀れな子を見て、はいそうですかって背を向けられるわけがない。
偽善と言われようが、そこに善があれば誰かを救えた意味になる。
その意味を、ヒーローの力を、愛を、すべてぶち込んでやろう。
アイスケは飛び跳ねて、背を丸めて回旋する。
漲るすべてを、尻尾に込めて、終止符と名付けて少女の顔に打ちつけた。
「はっ、ぁ…………」
尻尾は少女の顔から足へと風を切るようにすり抜けて、ガラス破片に突き刺さった。
うっ、とアイスケは痺れるような痛みに呻く。
「は、は………」
尾が焼ける。ガラスではなく、真っ向から浴びた少女の青い瘴気に蝕まれ──
「ひっ………ひゃははははははははははっ!! バッカじゃないの!? お歌自慢でもするかと思ったら………シャドウを力ずくで消すことなんかできるわけないでしょぉ!! ほんっと、口先だけのバカよ!!」
群青の痣がじわじわと広がって、尾の感覚が麻痺する。
「あの子を助けたつもりだろうけど、あたしに触れることなんか、例え四天王だってできやしないわ! そうよ、あんたの言う通り死者だもの。生者が死者に届くことはない。一生………いいえ、世界が滅亡したってッ────その、果て、に、あた、しは…………ぁ?」
少女のないはずの息が詰まるように、言葉が途切れた。
「言ったろ? お前を、還してやるって」
オーロラの如く光が揺らめき、魔障を食い殺した。
アイスケはゆらりと立ち上がる。
少女の全身の青瘴気が、火が弱まるように萎縮していった。
霊力という名の命の灯火が、ふっ、と形を崩し始めた。
「な、んで………なに、これ………」
「ラム兄ちゃんマジで成功したみたいだ。最初に疑った時は悪かったな」
にっしっし〜、と息を漏らして笑い、アイスケはポケットから注射器を取り出して見せつけた。
神樹とおんなじ、星屑の煌めきを放つ、液体を。
「は………? まっ……さか………うそ………でしょ」
少女は目を瞠った。
「エメポーション…………何で、そんなもの、が………」
「っていうらしいな。よく分かんねえけど。兄ちゃん曰く、青瘴気を完全に浄化させ、シャドウを天界へ成仏させる伝説の霊薬、とか。俺はそれを尻尾に染み込ませたわけ」
「あり、えないッ!!」
感極まったような掠れ声が、少女の色をなくした唇から飛び出る。
「それ、は…………千年、も前に………青の乱で、調合表ごと、消滅された、はず…………発明した………狂乱の発明家……カールハインツ・アスモデウス………も、その時に、死んでる、のよ………それ、を………」
「それを、そのひ孫の天才発明家、俺の兄ちゃんが再誕させたってわけだ」
「そん、な………こと………できる………はずがッ」
「できるんだよ、俺たち兄弟はな」
断固たる響きに、瞳の色も褪せてゆく少女が小さな悲鳴を上げる。
「ありえないことだって、やってみせんだよ。誰もが諦めた壁も、ぶっ壊してみせんだよ。言っただろーが。絶対に、諦めねえって!!」
瘴気を掻っ攫われ、白い光に透いた体を飲まれる少女に、アイスケは叫びを打ち据えた。
「お前はファミリーズを舐めすぎだ!! クソガキ!!」
ひっ! と高く跳ねる悲鳴を最後に、少女は、天の光へと伸びて、大粒の涙の光が四散し、音もなく、消失した。
「ママにうんと叱られて、うんと抱かれてこい」
アイスケは歌うように、手向けの言葉を贈った。
視界が、白く霞んでいって────最後の壁が、張り詰めていたガラスが、崩れる音がした。




