第六十二話 そばにいて
アイちゃん、アイちゃん。
また、呼ばれている。
あの頃よりも、少し低い声。
アイちゃん、アイちゃん。
あの頃よりも、切羽詰まった声。
「アイちゃん!!」
名を呼ぶ声が脳天に響いて、最初に視界に入ったのは、涙を降らす兄、ユウキだった。
ぽつ、ぽつ、と熱い雫が頬に落ちる。
温かい。生きている。混じり気のない素朴な感情が、胸の中心から沁み渡るようだった。
ゆっくりと体を起こすと、あの時背を向けた兄姉たちが揃っていた。ユウキが、痛いくらいの力で抱きしめてくる。白いベッドの上から、ギシ、と軋む音がした。
安心したのに、怖くて。跳ね除けたいようで、本当は求めていて。矛盾だらけに湧いた感情は、情けなく視線を泳がせて、不恰好な面を晒す。
だけど、この温もりだけは、離したくない。
もう少しだけ、あと少しだけ。そんなずるい欲求が、兄の背中に手を伸ばしてキュッとつかむ。
「やっぱりアイスケは甘えん坊だ〜」
「あんた末っ子で生まれてきて正解ね」
ユメカとココロが、歌うような口調で笑う。
「加えて言うならバカで単純ですよ」
「子供のくせにおませな子だしねぇ」
「でもアイちゃんはとびっきり可愛いじゃん」
「確かに泣き顔ならそそるな」
年長の兄たちが、互いに顔を見交わしながらにやつく。
「おいこらアイスケ、テメェ余計な手間かけさせまくって!! 一ヶ月パシリの刑だかんな!」
「お兄ちゃんの言うこと聞けよぉ〜! 聞いときゃいーことあんぞっ!」
双子の兄が、強気な笑みを見せる。
どうして。
どうして、みんな、いつもと変わらぬ笑みを浮かべて、いつもと変わらぬ言葉を並べるのだろう。
どうして。
なんで。
なんで、こんなに冷めることのない温もりをくれるのだろう。
「ごめん、なさい………」
二度目に頬を濡らしたのは、紛れもなく己の涙だった。
「心配かけて、ごめん、なさい、連絡しなくて、ごめんなさい…………話、ちゃんと聞かなくて、ごめん、なさい………」
口を開けば溢れ出る謝罪の言葉が、潤み声が、涙が、波立つ大河のように滔々と流れる。
「死ねなんて、言って、ごめんなさい………い、やだっ、死なないでぇ………いなくならないでぇ………そばにいてぇ………だっこしてぇ………ギュッてしてぇ…………あんなの、嘘なんだよぉ…………おれ、嘘ついちゃったんだよぉ………うっ、ごべん、なざい………にいぢゃ……ねえぢゃ……ごべ、な、ざ……」
兄姉は、何も言わない。
だけど、ユウキの腕の間から見えた彼らの顔は、皆柔らかい笑みを浮かべていている。
「アイちゃん、アイちゃん」
あの頃と同じように、ユウキが耳元で囁く。
そしてあの頃と同じように、涙の跡にキスをした。
「例えアイちゃんに何万回嫌われたって、憎まれたって………俺たち家族は、アイちゃんを何億回でも愛してキスするよ。その連鎖を、永遠に繰り返すよ」
「ばか、だ………」
「ばかでいい」
「損じゃん………」
「かまわないよ」
当然のようにユウキは言葉を返す。
「ねえアイちゃん、それが家族ってもんじゃないの?」
濡れた瞳を覗き込んで、ユウキは語りかける。
何かが、崩れるような音がした。
涙が、溢れた。嗚咽が、咽び出た。兄の胸に、抱きついた。わんわんと、恥も知らない子供のように泣きじゃくった。
そこからはもう、制御なんて機能もなくしたほど、みっともない泣き顔を曝け出した。
一番の拠り所の兄の胸に顔を埋めて、ひっくひっくと、声帯が痙攣しながらも、震える唇から、やっとの思いで紡いだ。
ありがとう、の言葉を。




