第五十五話 悪魔の囁き
始まりは、引き出しの奥から見つけた古いアルバムだった。
何気なく開けてみると、自分と同じ亜麻色の髪の女性が、自分と似た照れくさそうな笑顔を浮かべていた。
ヒマワリのブーケを抱えたウェディングドレス姿に、エプロンを着て泡立て器をボウルにかき回すものや、夕日の浜辺で撮った一枚、泥だらけになって土いじりするところも見られた。
部屋に飾っている一枚よりもずっと、表情もバリエーションも豊かで、胸がときめいた。
ページを捲る手が止まらず、最後の一枚を見た時、心臓が強く波打った。
生まれたての赤子を抱いている。
自分だ。
自分が、母に抱かれている。
母性に目覚めたばかりのその顔に、雨粒のような涙が落ちた。
その腕の中は、どれほど温かいのだろう。
その心音は、どれだけ心地よいのだろう。
忘れ去ったその思い出が、ほしい。
ほしい。ほしい。ほしい。だめだ。会いたい。だめ。強く生きろ。強く。強く。強く。強く。強く────でも、上手く、呼吸ができないよ。
だめ。強く。前を向け。剣を握れ。光を纏え。纏え。纏え。纏え。纏え。纏え!
『ほんとうに?』
そう。だって、未来の勇者だから。
『がんばれる?』
いける。大丈夫。騎士の子だから。
『さびしくない?』
ない。平気。そんな感情いらない。
『ここにいるよ?』
知らぬ少女の声色が、弾むように変わった。
闇に浮かぶ光を見上げると、母がいた。
母が微笑んでいた。
母が手を広げていた。
この胸においでよ、と。
ただ一人待ち続けていた。
「ま、ま…………」
幻想だと分かっていた。近づいてはいけないと本能が告げていた。全身で拒否しろと脳が伝達していた。
だけど、愚かな手は未知な温もりを求めて伸ばそうとする。
『あたしもね、赤ん坊の頃にママが死んだの』
「あなたは、だれ………」
『あたしはあなた、おんなじよ』
「おんなじ………?」
『ママにだっこされたい、それだけなの』
「だっこ………?」
『そう、ほら、おいで』
「……………でも、あなたは」
『何もしないわ。あなたも、あたしも、おんなじだもん。一つになるだけ。それだけで、もう寒くないわ』
悪魔の囁きは、甘くて、優しくて、とろける飴のように脳を溶かすようだった。
母が、笑う。写真と、同じように。目を細めて、唇を薄く開いて、芯の通った澄んだ声で自分の名を呼ぶ。
その声が、ほしい。
その笑顔が、ほしい。
その温もりが、ほしい。
ほしい。
ほしい。ほしい。ほしい。ほしい。ほしい。ほしい。ほしい。ほしい。ほしい。ほしい。ほしい。
ママが、ほしい!!
欲に塗れた激しい衝動の渦が巻いて、手が伸びた。
いけないと分かっていたその母の手を取った時、抱き寄せられた時────その冷えた身体を包み込むような初めての熱に、呼吸の乱れが、収まった。




