第八話 バケモノの襲来
百合子先生の幼稚園級のまったり口調なホームルームも終わり、いよいよ授業も始まろうとしている。
だが一時間目の教科は理科。あの研究バカは果たして職務を全うするのか。
というか、ひまりが転校してくることを、兄は前から知っていたということか。今朝まで素知らぬ顔をしていたくせに。
それならそうと早く言ってほしかったものだ。やはりあのミステリアスな兄の思考は読めない。
「きゃっ、きゃああああああああああっ!!」
高い悲鳴に、皆が慄く。
廊下を覗き込んだ百合子が、力なくしてへたり込んだ。
「百合子先生!? どうしたの!?」
「あ………あ………」
いつもの肌艶のよい薔薇色の頬が、青白い蝋燭のようになっている。
ドン、ドン、と、重い足音が近づいて────教室に、毛むくじゃらのバケモノが襲来した。
「ぎゃああああああああああああっ!!」
生徒たちの高低な喚声が重なる。
怨念を纏ったように、床に垂れるほどの長髪に体を翳らせ、一歩、一歩、とバケモノは進撃する。
教壇の前まで着くと、くるりと半回転して、また皆が慄いた。
ボサボサの灰緑色の毛から、ぬっ、と手が伸びて────
「は〜い、授業始めま〜す」
ひゃい? とアイスケは目をぱちくりさせる。
「………にい、ちゃん?」
「こらこらアイスケく〜ん? ここでは先生ですよ〜」
おどけるような飄々とした口調。
ラーメン屋ののれんみたいに捲り上げた長髪から、紫色に帯びた目のクマが悪目立ちする顔。
間違いない。
兄のラムだった。
「いや〜、毛髪に恵まれなかった世の方々のための強力な育毛剤、自分で実験してみたらこうなっちゃって」
「強力すぎだろっ!! 限界突破したベートーヴェンみたいになってんぞ!!」
「欲を言うならバッハと言われたかったなぁ」
「何のこだわり!?」
「あ、ちなみにこう後ろに結ぶとキモいほど蝮の処刑人に似る」
「ん〜〜実物見たことねーからイマイチ盛り上がれないっ!」
いや、ベートーヴェンやらバッハやら蝮の処刑人やら言う前に、得体の知らない怪奇生物に見えておぞましいこと極まりない。
生徒たちにトラウマを植え付けたこの状況で、「授業始めま〜す」としれっと言える神経の図太さにはある意味尊敬するが。
「もうラム先生! 驚かさないでくださいの!」
「ごめんね百合子先生〜、ホームルーム代わってくれてありがと〜」
「いえいえ。何はともあれ、先生がいらしたことで安心しましたの。では私、職員室に戻らさせていただきますわ」
身を起こした百合子は、丁寧にお辞儀したあとに、教室を後にした。
「授業を始める前に………転校生ちゃんがいましたね〜」
ラムは髪を捲りながら、ひまりの方へ視線を向けた。
「こんな形でご挨拶とは申し訳ないけど………改めまして、理科担当でB組の担任の黒野 ラム先生です。怪しいお薬を作るのが大好きで〜す。よろしくね〜」
「よ、よろしくお願いします………」
ひまりはおぼつかない口調で、ぺこりと頭を下げた。
当然だ。遅刻したうえに毛むくじゃらになって恐ろしい趣味を暴露されたひまりの気持ちがあまりにも居た堪れない。通報レベルと言ってもいい。
「お兄さんが担任の先生って、すごいですね」
ひまりは囁きに、アイスケは乾いた笑みを浮かべる。
「うん………テストの点とか即バレっから結構怖いわ………」
去年の春に担任交代を知らされた時はどれほど絶望感に苛まれたことか。
しかし学校では兄ではなく先生。彼の仕事とプライベートの切り替えは巧みなものだ。
「先生、そのカッコで授業すんの? 内容全く入ってこないわよ」
ココロがうんざりといった様子で文句を垂れた。
ラムはボサボサの長髪を掻き毟る。
「ん〜………実はこの育毛剤、効果が一時的なもので………だから作用時間を計る研究も兼ねて、しばらくこのままでお願いしまぁす」
「え〜、気持ち悪〜い」
「吐きそう」
「夢に出る」
「先生傷ついちゃうからやめて」
一時間目からB組のテンションが不安定なものになる。
今さらながら、教頭や学園長が通った時の言い訳は考えているのだろうか。甘々教師の百合子先生はともかく。
「でもさー、アイスケがそれ使ったら、あの人に似るんじゃね?」
一人の生徒が、アイスケを見ては目を光らせた。
「あの人?」
「ほら、ねね姫!」
しいん、と短い沈黙のあとに、どっ、と声が沸き上がった。
「確かに〜!」
「髪の色とかおんなじだしな! 長くなったらねね姫じゃん!」
「今朝のビジョンで見た! めっちゃ可愛かった〜!」
「歌も上手いしね〜!」
「魅惑の歌姫なだけあるわ〜」
言われるうちに、ちょっと照れくさくなった。
「そんなに、似てっかな?」
「似てる似てる〜」
「っていうかさ、髪だけじゃなくて、顔とかも──」
「は〜い抜き打ちテスト始めまーす!」
どさっ! と紙の束を教壇に叩きつけて、ラムは声を張り上げた。
げっ、と生徒たちの顔が青くなる。
「はああああああああ!?」
「聞いてないぞ!?」
「それが抜き打ちテストというものでーす」
「悪魔だーっ!」
「悪魔でーす」
兄はいつもの飄々とした口調──だがほんの少し、虚けた表情に焦りの色が掠めたような、そんな気がしたのだ。




