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幕間㉝ 白石、父の作業場を思い出す

魔王の執務室の机の端で、白石は異界掲示板の板に指を走らせていた。

聖王国から、昨日戻ってきたばかりだった。

長野の実家に課長さんと先輩が行く日だと聞いて、

どうしても、ヴァルさんの掲示板の前で待っていたかった。

机の反対の端で、魔王が、黙って、書類に目を落としていた。

目を落としている、ふりをしていた。

羽ペンは、さっきから、一度も動いていなかった。


――うちの大福の、ひみつは、何?

母の質問が、板に浮かんだ時、白石の指は、勝手に動いていた。

あんこに、塩を、ひとつまみ。

台所の、母の背中を、思い出していた。

割烹着の袖をまくって、鍋の中の小豆を、木べらでゆっくりと練っていた背中。

最後に、小さな塩の壺から、指先でひとつまみ、ぱらりと落とす。


――お父さんの胃が、もたれるからね。

子どもの頃、白石は、その意味がよく分からなかった。

甘い方が、美味しいのに、と思っていた。

今なら、分かる。

隣で、書類を読むふりをしている人の胃を、思った。


◆ ◆ ◆


――鉋の刃を研いだ後。最後に、何をするか。

父の質問が浮かんだ時、白石は、しばらく、指を動かせなかった。

作業場の、匂いがした気がした。

檜の削り屑。砥石の水。油の染みた木の作業台。

冬は寒くて、夏は暑くて、いつも、木の香りがしていた。

小さい頃、白石は、作業場の隅に、よく座っていた。

父が、黙々と、鉋の刃を研ぐのを、見ているのが好きだった。

父は、無口な人だった。ほとんど、何も話さなかった。

でも、刃を研ぎ終えると、必ず、同じことをした。

刃の裏を、布で拭く。はあっと、息を吹きかける。

曇った刃を明かりにかざして、曇りが端から消えていくのを、じっと見る。

一度だけ、小さな白石は、聞いたことがある。


――お父さん、なんで、はあってするの?

父は、刃を見たまま、短く答えた。


――曇りが、全部消えるか、見るんだ。

――消えなかったら?

――そこに、まだ、研ぎ残しがある。曇りが残ってるうちは、まだ、仕事は終わってない。

それから、父は、珍しく、白石の頭に、ごつごつした手を置いた。

――あかり。何でもそうだ。曇りが残ってたら、見て見ぬふりをするな。最後まで、手を入れろ。


◆ ◆ ◆


気になったので、手を入れた。

この世界に来てから、何度も、何度も、そうしてきた。

汚れたものを見ると、放っておけない。

曇りを見ると、拭かずにはいられない。

職業病だと、思っていた。先輩に叩き込まれたことだと、思っていた。

違った。

もっと前から、あったのだ。

作業場の隅で、父の背中を見ていた、あの頃から。

白石は、板に、父の言葉を、そのまま書いた。

曇りが残ってるうちは、まだ、仕事は終わってない。

書き終えて、送った瞬間、視界が、ぼやけた。


◆ ◆ ◆


――帰ってこい。いや。そっちの仕事が、終わったら、帰ってこい。

父の言葉が、板に浮かんだ。

――引き受けた仕事を、途中で投げるな。それが、終わったら。

曇りが、全部、消えたら。……帰ってこい。


白石は、両手で、顔を覆った。

声が出なかった。肩が、勝手に、震えた。

一度引き受けた仕事は、最後までやる。

ヴァルさんの勧誘を断った時、そう書いた。前の職場で教わったことだと、書いた。

それも、違った。

全部、お父さんだった。

机の向こうで、椅子が、ぎしりと鳴った。

魔王が、立ち上がる気配がした。

重い足音が、机を回り込んで、白石の隣まで来た。

大きな手が、白石の前に、何かを、そっと置いた。

顔を上げると、それは、手ぬぐいだった。

「ゆうしゃ」と、下手な刺繍の入った、真っ白な手ぬぐい。

イグニスさんの炎で洗った、あの手ぬぐいだった。


「……リリエラから、借りてきた」


魔王が、ぼそりと言った。


「我のでは、大きすぎるのでな」


白石は、泣きながら、笑ってしまった。

手ぬぐいで、顔を拭いた。

下手な刺繍の糸が、頬に、少しだけ、ちくちくした。


◆ ◆ ◆


魔王が、父と母に、挨拶をした。


――我は、白石の、雇い主をしている者だ。

――白石の仕事が終わったら、必ず、そちらに、帰す。我の、全てにかけて、約束する。

――それまで、娘御を、お預かりする。


白石は、隣に立つ魔王の横顔を、見上げた。

角と、黒いマント。三百年、世界の八割を治めてきた、魔王の横顔。

その横顔が、少しだけ、緊張しているように見えた。

初めて、露台で会った朝と、同じ顔だった。


――魔王とやらに、伝えてくれ。娘を、頼む、と。

――それから、胃は、大事にしろ、と。俺も、弱いんでな。

魔王が、小さく、吹き出した。


「……そなたの父御は、良い職人だな」

「はい」


白石は、手ぬぐいを、ぎゅっと握った。


「自慢の、お父さんです」


◆ ◆ ◆


その夜。

東の客間の机に向かって、白石は、羽ペンを持っていた。

目の前に、リリエラに分けてもらった、上等な便箋。

母は、手紙を書くと言った。だから、白石も、書く。

掲示板の書き込みではなく、ちゃんと、紙に。

課長さんが、印刷して届けてくれるという。

でも、それとは別に、自分の手で、書いておきたかった。

いつか、帰った時に、直接、手渡せるように。

――お父さん、お母さんへ。

書き出しで、手が止まった。

何を書けばいいのか、分からなかった。書きたいことが、多すぎた。

白石は、羽ペンを置いて、窓の外を見た。

月が出ていた。

長野の山あいの町にも、今、同じような月が出ているだろうか。

縁側で、父が黙って月を見ているだろうか。

台所で、母が塩をひとつまみ入れた大福を作っているだろうか。

白石は、もう一度、羽ペンを取った。

――お父さん、お母さんへ。

――私は、元気です。

そこから先は、不思議と、するすると書けた。

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