第1話「十万分の一」
八月十四日、午後七時十二分。
軽自動車のカーナビが「目的地周辺です」と告げて沈黙した。県道から逸れた砂利道を二百メートルほど進んだ先に、緑ヶ丘廃病院はあった。
ヘッドライトに照らされた建物は、Googleマップの写真よりもだいぶくたびれている。正面のガラス扉は割れて、フレームだけが夜風に揺れていた。二階の窓は半分が板で塞がれ、残りの半分は黒い口のように開いている。
エンジンを切ると、蛙の声と虫の音が一斉に車内に流れ込んできた。八月の夜の、もわっとした湿気が窓ガラスを曇らせる。
ダッシュボードに置いたスマホを取り、配信アプリを開く。登録者数、三千四十二人。先月の収益、一万八千円。画面の端に表示された数字を見て、俺は短く息を吐いた。
二十三歳で会社を辞めて、四年。心霊スポット配信で食っていくと決めて、四年。同期が昇進したとか結婚したとかいう話がSNSに流れてくるたびにミュートして、四年。家賃は二ヶ月滞納していて、大家からのLINEは三日前から未読のまま放置している。
今夜で決める。ここで跳ねなかったら、この仕事は終わりだ。
助手席に積んだ機材バッグからリングライト、三脚、モバイルバッテリー二本、予備のスマホを取り出す。外に出ると、アスファルトの照り返しの熱がまだサンダルの底から伝わってきた。
駐車場には俺の軽自動車だけ。他に車はない。建物の周囲には背の高い雑草が生い茂り、街灯は一本もなかった。一番近いコンビニまで車で十五分。完全な山の中だ。
三脚にスマホを固定し、リングライトを取り付ける。自撮りモードで画角を確認すると、背後に廃病院の正面玄関が映り込んだ。いい絵だ。
サムネイル用に何枚か写真を撮る。口を大きく開けて驚いた顔。目を見開いて怯えた顔。どれも大袈裟で嘘くさい。まあ、いつものことだ。底辺配信者の煽りサムネなんて、誰も真に受けない。
タイトルは「【生配信】ガチでヤバい廃病院に深夜凸してみた【緑ヶ丘】」にした。SEO対策で検索に引っかかりそうな単語を詰め込んだだけの、量産型のタイトルだ。我ながら情けないが、今はプライドより家賃だった。
SNSにも告知を投稿する。
『今夜22時から緑ヶ丘廃病院を生配信! マジでヤバいらしいから見届けてくれ!』
ハートの絵文字を二つ付けて送信。フォロワー八百人のアカウントだ。いいねは、たぶん三つか四つ。
午後九時四十五分。配信開始十五分前。
機材のセッティングを終え、駐車場の縁石に座ってコンビニのおにぎりを食べた。鮭。百四十円。今日の食費はこれだけだ。
咀嚼しながら廃病院を見上げる。月明かりに照らされた建物は、近くで見ると想像以上に大きかった。三階建て、横幅は五十メートルはある。九九年に閉院したという情報はネットで拾った。閉院理由は「経営難」としか書かれていない。
おにぎりの最後の一口を飲み込み、ペットボトルの水で流し込む。立ち上がると、膝が少しだけ震えた。緊張だ。四年やっていても、廃墟に一人で入るのは慣れない。慣れないからこそ、まだこの仕事を続けていられるのかもしれない。
午後十時ちょうど。
配信開始ボタンに指を伸ばした。
その瞬間、スマホの画面を横一直線にノイズが走った。砂嵐のような灰色の帯が液晶の中央を一瞬だけ横切り、消える。
「……なんだ?」
画面を見つめたが、表示は正常に戻っていた。電波は三本中二本。山の中にしては悪くない。端末の不具合だろうと判断して、もう一度ボタンに触れる。今度は何も起きなかった。
配信が始まる。
「はい、どうもー。ダイゴです。今夜は来ちゃいました、緑ヶ丘廃病院。茨城の山奥にあるガチの廃病院ね。ここ、知ってる人いる?」
同時接続数、四十二。俺のいつもの数字だ。常連が半分、たまたま流れてきた人が半分。コメント欄がぽつぽつと動き始める。
『来たー』『待ってた』『また廃墟かよ草』『ここ結構有名なとこじゃね?』
「おー、来てくれてありがとうね。今日はちょっと気合い入ってます。なんてったって家賃がかかってるからね、マジで」
自虐を混ぜると空気が柔らかくなる。これは四年で覚えた技術だ。
『家賃www』『がんばれ底辺』『毎回言ってんな』
「うるせえよ。まあ見ててくださいよ。今日はガチだから」
スマホを三脚から外して手持ちに切り替え、廃病院の正面に向かって歩き出した。砂利を踏む音がジャリジャリと耳障りに響く。リングライトの白い光が、割れたガラス扉の向こう側を照らした。
「見えますかね、正面玄関。ガラスが割れてて、中が丸見え。入り放題ですわ」
ガラスの破片を避けて、フレームの隙間から中に入る。足元にガラスの欠片が散らばっていて、踏むたびにパキパキと乾いた音がした。
廃病院の内部は、外の八月の夜気とは明らかに違う空気で満たされていた。湿度が高いのに、妙に生温い。換気されていない建物に長年溜まり続けた空気が、肺の奥に貼りつくような感覚。鼻の奥に、かすかに錆びた鉄の匂いと、甘ったるい薬品のような臭いがこびりつく。
「うわ、くっさ。なんだこれ、消毒液? いや、ちょっと違うな……」
ロビーだったらしい空間に出た。受付カウンターが正面にあり、その向こうに廊下が二本延びている。左の壁際に倒れたパイプ椅子が三つ。床には散乱した患者ファイルが数十冊、踏まれて泥がついたまま放置されていた。天井の蛍光灯は当然切れていて、リングライトの光が届く範囲だけが白く浮かび上がっている。
「同接、えーと……八十七。おっ、ちょい増えた。ありがとうございますー」
『いい雰囲気じゃん』『もう怖い』『画質もうちょいなんとかならん?』『設備しょぼいのは仕方ない、底辺だもの』
「画質のことは言わないでくれ。スマホ一台でやってんだよこっちは」
廊下を進む。床のリノリウムが剥がれて、コンクリートの下地がむき出しになっている箇所がいくつもあった。壁の塗装は湿気で膨らみ、指で押せばぼろぼろと崩れそうだ。左手でスマホを構え、右手で壁を伝いながら歩く。手すりの表面に触れると、指先にざらざらとした錆の粉がついた。
「一階は外来のフロアっぽいね。診察室がずらっと並んでる。ドア開けてみようか」
最初の診察室のドアを開ける。蝶番が軋み、ぎぃ、と錆びた悲鳴を上げた。中は空のベッドが一台と、薬品棚の残骸。棚の中は空っぽで、引き出しだけが半開きのまま止まっていた。
「何もなし。まあ、一階はこんなもんだよな」
二つ目の部屋も大差ない。壊れた点滴スタンドと、干からびた観葉植物の鉢。三つ目の部屋に入った時、足の裏がぬるりと滑った。
「うおっ……」
床に何かが散らばっている。リングライトを向けると、薄茶色の、半透明のフィルムのようなものが何枚もスチールデスクの上から床に落ちていた。乾燥してところどころ丸まっている。大きいもので手のひらくらいのサイズだ。
「なんだこれ。紙? いや……」
一枚を拾い上げようとして、指先が触れた途端に妙な感触があった。紙よりずっと柔らかい。薄いゴム手袋を一枚ぺらっと剥がしたような質感。指で弾くと、生臭さが鼻の奥を突いた。
「うえ、くっさ。なんだろ、動物の皮膚? 蛇の脱皮とか?」
『蛇にしてはでかくない?』『きもい』『それ触んないほうがよくない?』
指先を匂ってみて後悔した。甘ったるい腐敗臭が消毒液の匂いの下に張りついていて、胃がかすかに揺れる。何かはわからなかった。わからなかったから、深追いするのはやめた。コメント欄にも飽きた空気が漂い始め、同接は百を少し超えたところで停滞している。
『もうちょい奥いけよ』『地下あるんじゃね?』『心霊スポットなら地下がメインだろ』
「だよなあ。よし、地下探してみるか」
ロビーに戻り、地下への階段を探す。受付カウンターの裏手に、「B1F」と書かれたプレートが壁に貼られた扉を見つけた。
その時だった。
スマホが震えた。配信アプリの通知。スーパーチャットの着弾音。
画面の上部に、黄色い帯が表示される。
**『明日のダイゴ ¥100,000』**
十万円。
「は?」
声が裏返った。四年間の配信人生で、スパチャの最高額は千五百円だ。十万円なんて、バグか詐欺か、どちらにしても俺の世界にはありえない数字だった。
コメント欄が一気に沸騰する。
『は?!』『10万!?』『嘘だろ』『太客きたああああ』『スパチャ10万は草』『ダイゴ勝ち組じゃん』
「え、ちょっと待って。十万? 嘘だろ。『明日のダイゴ』さん? マジで?」
震える指でスパチャのメッセージを開いた。
文面はこうだった。
『地下に降りたら顔の皮を額から顎まで一枚で剥がされて死にます。今すぐ帰ってください。これは警告です。』
コメント欄が一瞬、止まった。
「……は?」
読み上げた自分の声が、廃病院のロビーに反響して消えた。蛙の声が遠くで聞こえる。リングライトのかすかなモーター音と、自分の呼吸だけが近い。
『なにこれ』『怖い系のネタ?』『金額ガチなら怖すぎ』『通報しろ』『いやネタだろ』『10万出してまでやることか?』
同接が跳ねた。百五十、二百、三百。数字がリアルタイムで膨れ上がっていく。十万円スパチャの通知が拡散され始めたんだろう。
「えーと、『明日のダイゴ』さん。これは……ネタ、ですよね?」
返事はない。アカウントのプロフィールを確認しようとしたが、アイコンは初期設定のグレーの人型で、フォロワーもフォローもゼロだった。今日作られたばかりのアカウント。
メッセージの下に、画像が一枚添付されていた。
開く。
暗い室内の写真。コンクリートの床に、男が一人仰向けに倒れている。グレーのパーカー、黒いジーンズ、白いスニーカー。
俺と同じ服だ。
今夜、俺が着ている服と同じ組み合わせ。
男の顔面は――皮膚がなかった。額から顎にかけて、一枚の皮を剥がしたように、ピンク色の筋肉と白い脂肪の層がむき出しになっている。瞼がないから目が見開かれたまま、乾いた眼球が天井を向いていた。左手には、薄い皮膚の塊が握られている。自分の顔の皮を、自分の手で握っている。
胃がせり上がった。
スマホを持つ手が激しく揺れ、画面がぶれる。コメント欄が猛烈な速度で流れていくのが視界の端に映ったが、読める状態じゃなかった。
「なんだよ、これ……」
画像をもう一度見る。冷静になれ。心霊配信を四年やってきた。ヤラセ画像、合成写真、嫌がらせのグロ画像。そういうものは何度も送りつけられてきた。
だが、この写真の男は俺と同じ服を着ている。今夜の俺と、まったく同じ服を。
偶然か。いや、偶然で説明するには出来すぎている。グレーのパーカーはユニクロの定番だし、黒いジーンズだってどこにでもあるけれど。白いスニーカーまで同じとなると。
『うわああああ』『ダイゴ逃げろ』『いやガチなら警察呼べよ』『合成だろ冷静になれ』『マジなら10万出して止める意味あるな』『帰れ帰れ帰れ』
同接、千五百。
数字だけが加速していく。
「落ち着け……落ち着け俺。これネタだから。誰かの嫌がらせだから。十万円出して嫌がらせするやつがいるかって話だけど、世の中にはそういう金持ちもいるから」
自分に言い聞かせながら、ロビーを振り返った。
正面玄関の方を見る。
ガラス扉が、閉じていた。
来た時に通った、割れたガラス扉。フレームだけが残っていたはずの正面入口。それが今、一枚も欠けのないガラスで塞がれている。まるで新築の病院のように、透明なガラスが夜の闇を映していた。
「……嘘だろ」
駆け寄って、両手をガラスに叩きつけた。冷たい。八月の夜なのに、掌の皮膚が金属に触れたときのように熱を奪われる。押す。動かない。引く。動かない。肩から体当たりする。衝撃は腕に返ってきたが、ガラスからは音が出なかった。ドン、も、ガン、もない。叩いているのに何も鳴らない。硬いとか厚いという話ではなく、そもそもガラスとして振動することを拒否している。力がどこかに吸い込まれて消える。
外が見えた。駐車場に停めた俺の軽自動車。砂利道。風に揺れる雑草。月明かり。全部見えている。二メートル先に俺の車がある。なのに、ガラスの向こう側からは蛙の声も虫の声も、何一つ聞こえなくなっていた。さっきまであれだけうるさかった夜の音が、ガラスの面で完全に切り取られている。
自分の心臓の音だけが鼓膜の内側で暴れ回っていた。それと、生温く淀んだ空気が鼻から出入りする湿った音。二つの音だけで構成された世界に、俺は立っている。外の景色が見えるぶん余計にたちが悪い。水槽の中から外を見ている魚の気分だ。ただし、この水槽には排水口がない。
「おい。おい、なんだよこれ。開かないぞ」
スマホの画面に、二度目のスパチャ通知が光った。
**『明日のダイゴ ¥1,000』**
十万から千円に下がっている。
メッセージを開く。
『正面は閉じました。開いているのは地下への扉だけです。』
コメント欄が悲鳴のように流れていく。
『閉じこめられてね?』『やらせだろ?やらせだよな?』『ダイゴふざけんな怖い』『警察呼べって』『110に電話しろ!』『同接2000超えてるぞ』
同時接続、二千。
スマホを握る手が汗でぬるぬると滑る。背中に冷たい汗が伝い落ちていくのがわかった。八月の夜に、寒い。
一階の窓を片っ端から試した。どれも同じだった。ガラスが嵌まっている窓は開かず、板で塞がれた窓は板が外れなかった。非常口は錆びた鎖と南京錠で封鎖されていて、足で蹴っても鎖は千切れない。
全部閉じている。
出口は、ない。
ロビーに戻り、「B1F」のプレートが貼られた扉の前に立った。ドアノブに手を伸ばす。金属の感触が、指先を刺すように冷たい。これだけだ。この扉だけが、触れた瞬間に「開く」という確信があった。
コメント欄を見る。
『開けるな!』『地下は罠だって!』『スパチャの通りになってるじゃん!』『やめろ死ぬぞ!』
同接が三千を超えていた。三千二百。まだ増えている。
「……なあ」
震える声で、俺はカメラに話しかけた。配信者の声じゃない。作れなかった。
「俺、四年やってきて……一つだけ、嫌ってほどわかってることがある。幽霊は、人が多い場所には出ない。一人のときが一番ヤバくて、大勢に見られてると弱くなる」
画面の端に同接の数字が見える。三千二百。
一人なら一分の一だ。あの写真の男と同じように、顔の皮を剥がされて、自分の手で握ったまま死ぬ。全部を俺一人で被る。
でも。
「今……三千人が見てる」
唾を飲んだ。喉がからからに乾いていて、舌が上顎に貼りついた。
「三千人なら三千分の一だ。一万人なら一万分の一。十万人なら――十万分の一になる」
スマホを握る指に力が入った。すがりつくように。
「呪いでも化け物でもいい。そいつの殺傷力を、同接数で割って薄めるんだよ。致死量を下回るまで。根拠はない。論文もない。ただ、四年間底辺で這いずり回って、百ヶ所以上に一人で突っ込んできた俺の――これだけが、たった一つの経験則だ」
コメント欄が静まっていた。誰も茶化さない。
俺は正面玄関のガラス扉を見た。外の景色が、音のない映画のように映っている。振り返って、地下への扉を見る。
「だからさ。頼む。拡散してくれ」
SNSアプリに切り替え、配信URLをコピーした。Twitter、Instagram、掲示板の廃墟スレ。思いつく限りの場所に投稿する。指が震えて、三回に一回はタイプミスした。
『緑ヶ丘廃病院で配信中。閉じ込められた。ガチ。嘘じゃない。見てくれ。頼む。拡散してくれ。人数が必要なんだ。』
投稿を終えて配信画面に戻る。同接、四千八百。
「ありがとう。増えてる。まだ足りないけど、増えてる」
深呼吸を一つした。吸い込んだ空気に、錆と薬品の匂いが混じっている。
地下への扉のドアノブを、今度はしっかりと握った。冬の水道管のような冷たさが掌に食い込む。
回す。
軽い手応えとともに、扉が内側に開いた。
生温い風が吹き上がってきた。
地下から昇ってくるその風には、さっきロビーで嗅いだ薬品臭とは別の匂いが混じっていた。もっと生々しい。錆びた鉄の匂いに、何か有機的な甘さが絡みついたような。鼻腔の奥にへばりつくような、剥いだばかりの皮膚の匂い。
階段の下は真っ暗だ。リングライトの光が最初の五段を照らし、その先は闇に呑まれている。
そして――聞こえた。
階段の下から。暗闇の底から。
湿った何かを、コンクリートの上で引きずるような音。
ゆっくりと。
一定のリズムで。
こちらに向かって。
スマホに、三度目の通知が光る。
**『明日のダイゴ ¥1』**
一円。
十万から千になり、千から一になった。
メッセージは一言だった。
『ようこそ。』
同接、四千八百二十三。
足りない。まだ全然、足りない。
俺は階段に、最初の一歩を踏み出した。




