街道の出会い、商人と交わす言葉
新たな名前「ゼロ」と共に、この世界での新たな一歩を踏み出す決意を固めた俺。穏やかな風が草原を撫で、柔らかな陽光が降り注ぐ。見渡す限り平和な風景だが、俺の頭の中はこれからのことでいっぱいだった。
まずは人がいる場所を目指さなければ始まらない。俺は太陽の位置から方角を確かめ、東へと向かって歩き始めた。
広大な草原を抜け、緩やかな丘陵地帯を越え、やがて山道へと差し掛かる。街道と呼ぶには少し心もとないが、確かに人が通った跡がある道だ。この道を進めば、いずれ街に出られるだろう。
そう思いながら歩いていると、道の先から複数の甲高い叫び声と、剣戟とは言えないような、一方的な暴力の音が聞こえてきた。
(…戦闘か?)
俺は気配を消し、慎重に音のする方へと近づく。道の開けた場所、そこでは一台の荷馬車が数匹の緑色の小鬼――ゴブリンに襲われていた。
豪華な装飾が施された一台の荷馬車が道の真ん中で止められ、その周囲でゴブリンの群れが暴れていた。数名の護衛らしき者たちが既に地に伏しており、残るは荷馬車の陰で怯えながら震えている、大きなリュックを背負った中肉中背の男のみという絶望的な状況だった。
(…面倒事は避けたいが)
そう思ったものの、道は一本。隠れられるような場所もない。このまま通り過ぎれば、あのリュックの男も間違いなく殺されるだろう。見過ごすのも、後味が悪い。
俺は仕方なく、腰に差していた盗賊のアジトから拝借したごく普通のロングソードに手をかけた。
〈無限図書館〉が即座に情報を提示する。
『対象:ゴブリン(通常種)。HP:5/5。特筆すべき能力なし』
(HPが5…? 【神の試練】の奴らとは大違いだ。それに、あの時の奴らはもっと狡猾で、残忍な戦い方をしていたはずだ)
記憶の中のゴブリンとは到底比べ物にならない、お粗末な個体だった。
最後の護衛が棍棒で殴り倒されたのを見て、俺は駆け出した。
ゴブリンたちは、新たな獲物(俺)の登場に気づき、奇声を上げて襲い掛かってくる。だが、その動きはあまりにも遅く、あまりにも単純だった。俺はそれをただ通り過ぎるように、すれ違いざまに剣を一閃する。人を殺すことには今も抵抗があるが、理性を持たない、あるいは邪悪な意思しか持たない魔物は別だ。風を切る音と共に、ゴブリンたちの首が宙を舞った。数秒にも満たない出来事だった。
「あ…あ…」
生き残った中肉中背の男が、呆然としながら俺と、ゴブリンの死体を交互に見ている。
やがて我に返ると、男は俺の前に駆け寄り、何度も何度も頭を下げた。
「おお…! ありがとうございます、ありがとうございます! 命の恩人です! 私はダランと申します。リューンへ行商に向かう途中の商人です。この御恩は必ずや! 何かお礼をさせてください、何なりとお申し付けください!」
その必死な様子に、俺は少し考える。
(〈無限図書館〉で調べればわかるが、この世界の常識について、実際にこの世界で生きる人間から話を聞いてみたい)
「礼はいらない。その代わり、いくつか質問に答えてほしい。俺もリューンへ向かう途中なんだ」
「もちろんですとも! 何でもお答えします!」
ダランと名乗った男と話しながら、俺たちはまず、息絶えてしまった彼の護衛たちを道端の木々の根元に丁重に埋葬した。手を合わせ、彼らの冥福を祈る。
「ゼロさん、本当にありがとうございます。もしよろしければ、リューンまで私の護衛をしていただけないでしょうか。もちろん、報酬は弾ませていただきます!」
「ああ、構わない。情報収集もしたいしな」
俺は快くその依頼を受けた。
その日の夜、焚火の前で、俺とダランは向かい合って座っていた。
「いやぁ、本当に助かりました。これが今日の夕食です。粗末なものですが、どうぞ召し上がってください」
ダランはそう言うと、荷物から取り出した硬いパンと、塩漬けの肉、そしてチーズを俺に差し出してくれた。彼自身も大変な目に遭ったはずなのに、その心遣いが少しだけ心に沁みた。
俺たちが目指しているリューンの話から、自然に会話が始まった。
「しかし、ここまで来ればリューンまであと一日というところだったのですが…まさかこんな街道筋でゴブリンの群れに襲われるとは。最近は、このアルカディア大陸のどこも物騒になったものですな」
ダランはため息をつきながら言った。
(アルカディア大陸…なるほど、この大陸の名前か)
俺は自然な形で情報を一つ得て、話を合わせる。
「ええ。俺がいた村も、モンスターに襲われて…。ところで、そのリューンという街ですが、俺はずっと山奥にいたもので、話にしか聞いたことがないんです。ダランさんのような商人の方が『必ず訪れる』と言うからには、よほど大きな街なんですよね?」
この質問は、俺の「山奥の村出身」という設定とも矛盾しないはずだ。俺の言葉に、ダランは待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「大きいなんてもんじゃありませんよ! リューンは、このアルカディア大陸のほぼ中央に位置する、交易と商業の中心地! 我々商人をはじめ、腕利きの冒険者、最高の物を作りたい職人、誰もが目指す場所です!」
「自由都市、ということは、領主はいないのか?」
「ええ。国王陛下から自治権を認められてはいますが、直接的な統治は市長と商人たちで構成される評議会が担っています。貴族の方々もあまり干渉してこないので、我々のような商人にとっては非常に仕事がしやすい、珍しい都市なんです。様々な種族が共存していますし、冒険者にとっても商人にとっても『第二の故郷』になり得る場所として、とても人気があるんですよ」
「なるほど…」
ダランは、まるでリューンの広報担当かと思うくらい、生き生きと街の魅力を語ってくれた。ひとしきり話した後、彼は興味深そうに俺に尋ねてきた。
「しかし、ゼロさんはお若いのに、とんでもない腕前ですね。先程のゴブリンの群れも一瞬でした。一体、どちらの道場で剣を?」
(来たか…)
俺は咄嗟に、ありきたりな物語を頭の中で組み立てた。
「…いや、大したことはない。山奥にある、小さな村で育ったんだ。村では自警団のようなこともしていて、剣はそこで覚えただけだ。だが、ある時、大量のモンスターに襲われて村は壊滅してしまってな。生き残ったのをきっかけに、自分の力を試したくて冒険者になろうと思ったんだ」
取って付けたような“異世界転生ファンタジー”の主人公が言いそうなセリフを、俺は冷や汗をかきながら言った。
しかし、ダランは深く頷き、少し同情的な目で俺を見た。
「そうでしたか…それは、辛い経験をされましたな。ですが、この大陸ではそういった話は珍しくありません。魔族との戦争や、モンスターの活発化で故郷を失う者は後を絶ちませんからな…」
どうやら、この設定は通用したらしい。
「そういえば、リューンに入るには街のギルドが発行する『手形』が必要になりますが、ゼロさんはお持ちですか?」
「いや、持っていない」
「ご心配なく! そこは私の顔で何とかしますよ!」
ダランは片目を瞑ってウィンクすると、親指を立てて見せた。頼もしい。その後も、冒険者になるために必要なお金のこと、安くてうまい飯屋がある宿のことなど、リューンの情報を色々と教えてくれた。
話が一段落したところで、俺は一番聞きたかった、そして少しデリケートな質問を投げかけた。
「…ダランさん。この世界には…『奴隷』は存在するのか?」
その言葉に、ダランは「ああ、奴隷制度のことですな」と、ごく当たり前のことのように頷いた。
(やはり、この世界の住人にとっては、日常的なことなんだな…)
「ええ、もちろん存在しますよ。法で認められていますからな。借金のカタに身を売る者、戦争捕虜、あるいは罪を犯した者が罰として奴隷に落とされることもあります。あとは、まあ、貧しい村が口減らしのために子供を売る、なんてこともありますな」
ダランは、まるで商品の種類を説明するかのように、淡々と語る。俺にとっては、前世の記憶と重なる、聞くだけで胸が締め付けられるような話だが、彼の反応がこの世界の常識なのだろう。
「まあ、そういった者たちは主に鉱山や農場での過酷な労働に従事させられますが、一方で、高い教養や特殊な技能を持つ者が、貴族に仕える侍女長や執事長として高い地位を得ることもあります。自ら進んで、安定した生活のために貴族の庇護下に入る者もいるくらいですからな。それに、奴隷の身分から成り上がり、大商人になったり、騎士になったりする者もいる。今や大臣の地位にいるあの方が、昔は奴隷だったなんて話も、この世界では珍しくもないんですよ」
その言葉には、侮蔑も同情もなかった。ただ、事実として、そういう世界なのだと語っているだけだった。そのおかげで、俺の中の「奴隷」という言葉に対する暗いイメージも、少しだけ客観的に捉えられるようになった気がした。
「…そうか。教えてくれて、ありがとう」
その後、話疲れたのか、ダランはすぐに寝息を立て始めた。
俺は一人、揺らめく焚火の前で物思いにふける。
(奴隷…か。やはり、どの世界でも似たようなことはあるんだな…)
前世の自分と、この世界の奴隷たち。境遇は違えど、理不尽に自由を奪われるという点では同じだ。俺は、自由を願ってこの世界に来た。この新しい人生では、誰にも縛られず、自分の意志で生きていく。そう、改めて心に誓った。
そんなことを考えながら、夜は静かに更けていった。




