3-9 救済
前世日本では、認知症というのはありふれた病気で、樹里も数えきれないほどに認知症の患者を看てきたそうだ。そんな樹里でも、前頭側頭型認知症の患者は、2名しか看た事がない、それほど日本でも珍しい病気だ。
こと、この世界では日本に比べて平均寿命が短い。平民は60代、比較的裕福で栄養状態の良い商人や貴族でも70代、栄養過多の貴族なら40代50代でも死ぬ世界。だから、認知症自体が珍しい。
そもそもこの世界には医療機器なんかないから、認知症なんて病気自体誰も知らない。高齢になったら物忘れが出ることがある程度の認識だろう。
その認知症の中でも、前頭側頭型認知症というのは特徴的な病気だ。代表される症状が人格の変化。感情の制御や理性を司る前頭葉が障害されることで、人格に変化をもたらす。認知症にしては発症する年齢が比較的若く、40代後半から60代。このくらいの年齢で、横暴になったり暴力的だったり、性犯罪を犯す人がいても、この世界では「耄碌したんだ」としか思われない。恐らく日本でもそうしてただの犯罪者、ただの迷惑者として見過ごされている人はいる。
この病に罹患した初期は、前述したような人格の変化と反社会的行動が目立つ。やがて側頭部の障害により、言語が障害されコミュニケーションが困難になり、やがて話さなくなる。最終的にはパーキンソン症状や筋委縮が起こり、寝たきりになる。
そして、一時的な回復は可能だけど、根治は出来ないと思う。遺伝子の変性が原因なんだけど、私には遺伝子をどうこうする方法がわからない。だから寛解と再発を繰り返すことになる。
この病気についての概要と経過を説明すると、話を聞きながら頭を抱えていたギデオンお兄様が、ようやく顔を上げた。
「恐らく前兆はあったのだろうが、誰も気づかなかったのか?」
私やギデオンお兄様は領地にいたので、最近まで父とは会っていなかった。問いかけられたサフィナお義姉様や他の家族は困惑して顔を見合わせた。
「ごめんなさい……」
「ギデオンお兄様、サフィナお義姉様、この病気は通常の記憶は保たれるので、初期は日常生活に支障は来たしません。何も起きなければ気づかないのも致し方ないかと」
「……そうか。サフィナすまない」
「いいえ。もっと早く気付くべきだったわ。私達は傍にいたのに……こんなことが起きる前に、シヴィル様に看ていただけていたら……」
こんなことになるなんて、とサフィナお義姉様も俯いてしまって、リビングには悲壮感が充満していた。
既にギデオンお兄様は、ジョナサン殿下とイザイア様には謝罪を済ませている。多額の慰謝料を支払って、示談で済ませてもらえたそうだ。イザイア様はともかく、ジョナサン殿下が示談で済ませてくれたのは僥倖だった。ジョナサン殿下が許してくれたことが不思議だけど、大事にしたくなかったのかな。殿下にも何か都合があるのかもしれない。既に婚約破棄も済ませたようだ。流石ギデオンお兄様、仕事が早い。
私達はその後色々話しあって、打ち合わせをした。そしてその翌日。私が今日までしかいないから、突然で不躾だと理解したうえで、イザイア様とジョナサン殿下を招いた。流石にジョナサン殿下はと思って、代理の誰かでいいと言ったんだけど、予想外にも本人が来た。
この場にいるのは、父、ギデオンお兄様、私、ルサルカお姉様、イザイア様、ジョナサン殿下と侍従の方。あと何故かトーマスもギデオンお兄様に強請ったらしく同席している。まずはギデオンお兄様が口を開いた。
「ジョナサン殿下とグレイ伯爵には、先日の父の非礼を、重ねてお詫び申し上げます」
「気にするな、済んだ話だ」
「ギデオン様は、お怪我は大丈夫ですか?」
「シヴィルが治癒してくれましたので、問題ありません。お気遣いに感謝致します」
ジョナサン殿下は鷹揚に言って、イザイア様も気にしてないみたい。ホッとした。今日来てもらったのは、言い訳がましいが、この騒動の原因を説明させてほしいのだ。婚約の強硬もだけど、父は皇族を罵倒するような、そんな無礼を働く人じゃない。今後の家の為にも、父の名誉は回復しなきゃいけない。正直私個人としては不服な部分もあるけど、自分の将来にも関わるので、この件に関して異論はない。
ギデオンお兄様に促されて、私はイザイア様とジョナサン殿下に、前頭側頭型認知症について説明した。説明を聞いて、ジョナサン殿下がポツリと「そうか、認知症だったのか」と呟いた。多分誰の耳にも入っていなかったけれど、私は驚いて一瞬声が詰まった。認知症なんて言葉は、この国では誰も知らないのに、まるで知っているみたいに呟くから。
びっくりしたけど、今はそれどころじゃないので、説明を続けた。説明の最後に、こんな騒動を起こしてしまったこと、巻き込んでしまったこと、父の非礼を謝罪して、解決に協力してくれたジョナサン殿下と、皇太子殿下にもお礼を伝えた。
「差し出がましいことは承知しております。ですが、ご理解を求めることをお許しくださいませ。父が病を発症しなければ、このようなことは起こりませんでした。病気なら何をしても許されるとは思いません。ですが、本来の父の忠誠は、変わらないものとお約束いたします」
「そうか、それをどう証明する?」
父の信頼回復を嘆願する私に、ジョナサン殿下は真っ直ぐ視線を向けてくる。疑っている視線じゃない。試しているわけでもない。多分理解してくれている。その上で、証明できないと誰も信じてくれないぞと、忠告してくれているんだと思う。
「はい、これから治療を行います。治療にはさほど時間は要しません。病中の父の様子は殿下方もご存知でしょう。治癒した父と比較していただければ、それが証明になると愚考いたします」
「よろしい。証明してもらおうか」
「かしこまりました」
ジョナサン殿下に礼をして、父の前に回る。現在父には、ギデオンお兄様とトーマス2人がかりで、沈黙と呪縛の魔術をかけている。だから今まで全く口を挟んでこなかったし、暴れたりもできない。けれどその顔は真っ赤にして、怒りの形相で口をぱくぱくしている。聞こえないけれど、きっと私にも罵詈雑言を吐いているのだろう。そんな父の様子に、嫌悪も憐憫も感じながら、そっと父の頭を手のひらで包んだ。
「お父様。本来のお父様に、戻して差し上げますね」
脳内を確認する。脱落したり虚弱になって萎縮した部分を修復し、再生する。萎縮した分を再生出来れば、一時的だけど回復は出来ると信じたい。ただ今は、全快はさせない。半分だけ治癒した。
私が治癒している間も、父は何やら怒っていた。だが徐々に理性を取り戻してきたようで、顔色が少しずつ元に戻り、口を閉じる。自分が何に怒っているのか、訳が分からなくなったのだろう。治癒が終わるころには、父は呆然としていた。
私が父から離れて、ギデオンお兄様とトーマスに頷くと、2人は魔術を解除した。そしてギデオンお兄様が、父に問いかけた。
「父上、状況は理解できていますか」
「よく……わからない」
「では説明いたします」
事の次第をギデオンお兄様が説明する。その説明を聞いて、父はみるみる顔を青褪めさせた。驚愕の表情で私や殿下を見て、頭を抱えて、震えだした。そして、今この場を整えられていることを、父は正確に理解した。
父はすぐさま行動に移した。ジョナサン殿下の前に跪き、暴言を吐いたことを言葉を尽くして謝罪した。そしてイザイア様にも謝罪して、ルサルカお姉様に謝罪する頃には、父の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。そして父が、私の前に来て跪いた。
「すまなかった。お前にひどい仕打ちをしてしまった。ルサルカに、幸せな結婚をして欲しいと、私はそればかりで。それがお前を傷つけていい理由にはならないというのに、私は……。すまない、シヴィル。お前の幸せを奪ってしまった」
私の前に跪いて、謝り続ける父。言いたいことは沢山あった。泣き喚いて怒鳴り散らして、殴り倒して、謝っても絶対に許さないって言ってやりたい。
だけど、謝られて余計に色々思いだして腹が立って、腹が立ちすぎて、何も言えなかった。ただ歯を食いしばって、怒りのあまり泣きそうになるのを堪えるので精一杯だった。
ルサルカお姉様を幸せにするために、私を不幸にした父を、私は多分ずっと許せない。
ふと、固く握った私の拳に、誰かの手が触れた。私よりも大きい手が、私の手を包んでいる。横を見ると心配そうな顔をしたトーマスがいて、私の手を握ってくれていた。
「トーマス」
「シヴィル叔母様、もう、疲れたでしょう? 面倒くさいことを続けるのは」
面倒くさいこと。少し前に、トーマスに暗殺計画の事を聞かれた。その時に私が言ったことを覚えていたのだろう。
「暗殺計画? あぁ、もうやめるわ。考えていたら面倒くさくなってしまったの」
あの時私はそう言った。だって暗殺を実行しようと思ったら、予想外に考えなきゃいけない事が多くて、本当に面倒くさくなっちゃったんだ。
殺意は今まさに再燃したんだけど、父を憎み続けることに、あの時の私は既に疲れていた。トーマスが言っているのは、多分それを見透かされたのだ。再燃したその憎しみも、長続きしないんでしょうって。
「そうね、疲れたわ」
「では休みましょう。申し訳ありませんが、僕とシヴィル叔母様は、これにて中座させていただきます」
力の緩んだ私の手をトーマスが握りなおして、挨拶をすると私を連れて部屋を出てくれた。トーマスの部屋に行きたいと言って、連れてきてもらった。
ソファに座ると、トーマスも隣に腰かけて、私の頭を撫でてくれた。
「頑張りましたね。よく、耐えましたね」
たったそれだけの行動、たったそれだけの言葉で、私の涙が決壊したように溢れ出た。怒りや憎しみよりも、悲しみの方が大きかった。父に私の存在を無視されること、一時とはいえイザイア様がルサルカお姉様を選んだこと。辛かったけど、それでも我慢して誤魔化して過ごしていた。
だって、前に神官様が仰ったもの。神様から与えられた試練、それを乗り越えたら成長できるんだって。
だから、耐えてた。耐えながら日々をちゃんと過ごしていたら、きっと神様が祝福してくれるって信じて、ずっと耐えてた。
だけどずっと、心の中で叫んでいた。
助けて。
この苦しみを消して。
本当はずっと、辛かった、苦しかったんだ。
だから、ただ耐えることしか出来なかった、この苦しみを理解してくれている人がいた、それだけで。
私の心は、少しだけ救われた。




