3-4 最悪な日
「イザイア・グレイ伯爵と、ルサルカの婚約が成立しました」
一瞬奥様が何を言っているのかわからなかった。それを理解したところで、私の頭は思考を放棄したように真っ白になる。
婚約? 誰と誰が?
ルサルカお姉様と、イザイア様が?
どうして?
やっと事態が飲み込めた頃には、疑問が渦巻くと同時に、心臓がドッドッと嫌になるくらい拍動した。体中に嫌な汗が流れ出る。足元からどろどろに溶けて沈んでいくみたいだ。ショックなのか、悲しいのか、怒りなのか、その全部なのかわからない。この気持ち、なんだか嫌だ、嫌だ。気持ち悪い。
「……っ」
「シヴィル、気をしっかり持ちなさい。説明は致しますから、聞きたいことは聞きなさい。言いたいことは……考えて言いなさい」
いつもなら、奥様にこんな風に諭されたら、すぐに落ち着けていた。けれど、今は無理だ。もう少し時間が欲しい。
泣きたくもないのに滲んできた涙を、ぎゅっと瞼を閉じて抑え込む。鼻から息を吸って、口から細く吐き出す深呼吸を数回繰り返した。そうして、少しだけ気を落ち着かせることが出来た。
落ち着いてきて、ようやく状況を理解した。わざわざ私を呼び出して、説明をするというのだから、きっと私とイザイア様の関係を、父たちは知っている。
「取り乱してしまい、申し訳ありません。ではお尋ねしますが、イザイア様とルサルカお姉様が婚約の運びになったことは、どのような経緯でしょうか?」
私の質問に、奥様はしっかりと説明してくれた。社交界でルサルカお姉様とイザイア様の噂が流れていたこと、ルサルカお姉様がイザイア様に恋をしていることに気が付いて、親心で婚約を申し込んだこと、イザイア様が私と間違えて申し込みを受け入れてしまったこと。
なんだかもう、怒ればいいのか笑えばいいのかわからない。好きになっちゃったお姉様はともかく、イザイア様がドジすぎる。普通確認しない? それとも、確認を怠るくらい、私から気持ちが離れていた?
そう考えるとやはり心が抉られてしまいそう。
「奥様とお父様は、私とイザイア様が恋人の関係であることは、ご存知だったのですか?」
「ええ」
「知っていた」
そうか、やっぱり知っていたか。奥様はわからないけれど、父はルサルカお姉様を溺愛しているから、ルサルカお姉様を優先するのは仕方ないのだろう。納得は出来ないけど。
「そうですか……」
内臓を泥の付いた手でぐちゃぐちゃにかき回されているみたい。自分の感情の落としどころすらもわからない。どうしたらいいんだろう。
怒ればいいんだろうか?
私と同じ相手を好きになったルサルカお姉様に。噂になるくらい親しくしていた挙句、確認もせず婚約したイザイア様に。私を無視して婚約を申し込んだ父に。
でも何故か、今は腹が立つというよりは虚無感みたいなのが大きい。空しい。私の存在って、なんなんだろう。まるで私に価値がないみたい。
「婚約は既に成立しているのですね?」
「ええ」
「そうですか。でしたら、私から言えることは何もありません」
「……恨みごとの一つくらい言っても良いと、わたくしは思いますよ」
奥様の言葉を受けて、私は父、ルサルカお姉様、イザイア様に視線を流す。父は普段通りの顔をしているけれど、ちょっと表情筋が強張っている。イザイア様は視線を逸らした。ルサルカお姉様は涙目になって私を見つめた。その様を眺めて、やはり奥様に視線を戻した。
「言ったところで、何も変わりませんでしょう。お話が以上でしたら、私はこれで失礼いたします」
さっさと立ち上がってドアに向かう私に「待って!」とルサルカお姉様が叫んだので、その声に振り返った。ルサルカお姉様が、涙を流しながら歩み寄る。
「待って、待ってシヴィル。どうして何も言ってくれないの?」
「言って欲しいのですか?」
自分でも驚くくらい低い声が出た。私はどんな顔をしていたのか、ルサルカお姉様が顔を青ざめさせ、私の袖に縋った。
「シヴィル、お願いだから許して。婚約は解消するわ。私の名誉などどうでもいいから、婚約を解消して、あなたがイザイア様と婚約して!」
「お姉様……何を」
「無理よ、耐えられない! あなたから恋人を奪っておきながら、平然と過ごすことなどできないわ! 私はドナお姉様のいる教会に入るから、だから」
「何を言うのだ、ルサルカ!」
ルサルカお姉様の突拍子もない話に驚いた父も立ち上がる。それにも構わずルサルカお姉様は悲鳴のような叫びをあげて、私に縋っている。
「シヴィルを傷つけるつもりなどなかったの。本当よ! 罪深いとわかっているわ。後悔しているの。イザイア様はあなたを想っているの! だからあなたが」
「お姉様」
ルサルカお姉様の様子を見ていると、とても嘘を吐いているようには思えない。そもそも、ルサルカお姉様は人を陥れて平気でいられるような人じゃないって、私も分かってる。縋りつくお姉様の手を、ゆっくりと剥がした。
「落ち着いてください。ルサルカお姉様は、イザイア様をお慕いしているのでしょう?」
「……」
「私にも、考える時間をください。突然の事で、混乱しています」
「あ……ごめんなさい」
やんわりとお姉様を引き離して、もう一度退室の挨拶をして客室を出た。そのまま与えられている部屋に戻って、ソファにどさりと座った。ずるずると背もたれを滑って、ソファの上に上体が倒れた。今頃になって、涙が零れた。
あぁ、嫌だ。すごく嫌な気分。心の中がぐちゃぐちゃ。
失恋って、辛いんだな。裏切られるって、こんな気持ちなんだ……。
私が今年正騎士に合格していたら、こうはならなかったのかな。私が騎士団に入らなければ、こんなことにはならなかったのかな。もっと手紙を出せばよかったのかな。もっと会いに行くべきだったのかな。
私はどこで間違えたの? イザイア様との未来を夢見て、私は貴族になったのに。私のこれまでは、一体何だったんだろう……。
「ふっ、う……」
何が悲しいのかもよくわからなかった。だけど涙は止まらなくて、しばらく声を押し殺して泣いた。
そして落ち着いたころに置手紙をして、私は挨拶もせず、逃げるように領地に戻っている。馬車より走った方が断然早い。だから走った。バカみたいだけど走った。走っている間は、何も考えなくて済むと思った。
高級なワンピース姿で爆走するなんて、本当にバカみたいだと思う。多分本当にバカなんだと思う。
途中で道を間違えたらしく、迷子になった。仕方がないからその辺の森に入って、魔物を殴り倒した。八つ当たり気味だったから少し価値は下がったけど、近くの町の猟師教会で換金して、その町の宿に泊まった。よく考えたら聖女のペンダントをしているのだから、教会に泊まれた。私なにしてんだろ……。
現在地はビリジア侯爵領の北半島。ホワイト辺境伯領の反対方向だった。ビリジア侯爵領なら、サブリナお義姉様の嫁ぎ先だし、侯爵家にお世話になればよかった。
私、本当になにしてるんだろ……。本当にバカみたい。あぁもう、本当に嫌になる。
何をやってもダメな日ってあるけど、今日ほどの厄日はない。
もうやだ。踏んだり蹴ったり! 最悪!




