絹の湯とカインシーザの井戸
「ギュー、待ってぇ」
たどたどしい言葉に、たどたどしい歩み。
三歳のジアからすると、この町のごつごつした岩場の散見される往来をうまく歩くのは、まだ難しかった。
浴衣に着替えたギューは、幼い妹を見つめるような優しい笑みを湛えながら振り返り、ジアが出来るだけ急いでゆっくり歩いてくるのを待つ。
そんなジアを後ろから見守りながらついてきたネスクは、バタバタと振られるジアの左手をうまく掬い上げた。
温泉地の縦縞の浴衣。
彼女は、初めて自分の体をなすライブメタルで作られた衣料品以外の衣服を身に着けたことになる。
それがネスクのテンションを挙げ、少しうきうきさせたのだが、その感情も、彼女にとっては初めてのものであり、服装を換えただけでなぜ気分が高揚するのかわからず、少し不思議に思ったものだった。
ギューに追いついたジアはそのままギューに飛びつこうとし、バランスを崩すが、少年神勇者は体捌きによって、空いている方の幼女の右手を巧く左手で掬う。
結果的に、ジアは左手をネスクに、右手をギューに支えられることで瞬間的に両手を使ったブランコ状態になり、思いの外楽しかったのだろう。
彼女は弾けるような笑みを浮かべ、言葉にならない喜びを、体いっぱいに表現するのだった。
ギューとネスクがジアを連れ出し、街の散策に出た頃、ジルゴはアミツに車椅子を押され、宿から最も近い『奇跡の泉』へと向かっていた。
この状態でよく歩いていたと温泉町の医者は驚いた。しかし、実際にはこれだけの負傷をしていてなお、ファルガの竜王剣を破損させるだけの攻撃を仕掛けていたのだ。
データでそれを把握した時、ディグダインはジルゴの恐ろしいまでの戦闘能力の高さに戦慄したものだった。
先導するのは、宿の女将。
彼女は何故か、この町の住人や近隣の人間が身に着けるようなものとは全く違う、変わった風体の集団を、自身の宿に招待した。
深紅の鎧を身に纏った少年。特殊なエナメル繊維質に見える上下のつなぎに、不思議なシールドのついた兜を身に着けた青年。金属質の椅子にキャタピラのついたものに座った四肢を動かせない巨躯の男性とその妻子。そして、一見して一番まともに見えるのは、この町の人たちの身に着ける麻製の普段着に似たデザインの服を着、後ろ手に髪を縛ったネスクであったが、実はこの存在が一番、形状が固定していないというのは、流石に町の人たちも気づいていないはずだ。
この宿の女将は、この町の温泉による再興事業の際、温泉調査の道中にて、穿たれた源泉のある穴に滑落しかけたところをとある人間に助けられた経緯がある。
助けたのは、裏方に徹しきれなかったアクアマリンの髪の槍使い。
そう言って笑った彼女は、魔族ではあるが『妖』の女性ボリベだった。
彼女は、カインシーザが姿を消してから、いつか彼が戻ってきたときに居場所があるようにと、まだ集客も見込めないこの町において、最初に湯治用の宿泊施設を開設したのだった。
「この坂を下ったところにある泉が、私の管理する湯治用の温泉です。他にも温泉はたくさんございます。ですが、落ち着いてお湯を味わうことが出来るという意味では、我が温泉は最高峰であるという自負がございます。
温泉への道中は、なだらかではありますが、その車輪のついた椅子では、この坂を下るのは難しいかもしれません。
次回お越しいただくまでに、『車輪椅子』での移動の方のケースも加味したスロープを作っておきますね」
「ありがとうございます。
ですが、この車椅子は段差のある坂道でも降りられる設計になっています。
もちろん、その設計ではない車椅子もあるので、スロープ設置については推し進めていただいた方が、他の利用者の方にとっては良いのでしょうが、現在でもこの車椅子はスロープなしでも対応できますので、お気遣いなく」
少しぼーっとした印象を受けるボリベ。だが、やっと軌道に乗り始めてきた自身の宿の問題点にすぐに気づくあたり、かなり顧客センサーを張り巡らせているのだろう。
そんな女性の様子に、アミツは感心していた。
宿で湯浴み着に着替えていたジルゴは、キャタピラ車椅子のまま湯治に入る予定だった。
ネスクの作ったライブメタル製のキャタピラ車椅子は、硫黄による腐食も耐える造りになっている。そのようなものを準備してくれたネスクに、アミツは感謝し通しだった。
段差を降りるにあたっては、通常の車椅子宜しく前進ではなく後退で下がっていく。
段差が小さいのと、キャタピラのおかげで、通常の車椅子に比べて降ろすのはたやすい。まだ試していないが、上りもそれほど困難ではないだろう。段差を上げるときは、持ち上げるのではなく、車椅子を押すことにより、タイヤで自重を支えさせ、前方から少し引きながら階段の蹴込みを走らせるイメージで扱うが、キャタピラであるので相当に段差を上げやすいはずだ。
車椅子のハンドル部も握りとブレーキがついており、ブレーキを掛けながらキャタピラが蹴込みをゆっくりと転がり降りる。
後方が見えないジルゴからすれば、高低差もあるのでかなり怖いはずだが、アミツの努力のせいなのか、ジルゴの我慢の賜物なのか、確実に一段一段クリアしていく。岩を削りだした物なので、そこまで形状は整っていないが、それでも今まで見てきた村や町からすれば、相当に整備されていると言っていい。
「ジルゴ、怖い?」
「いや、大丈夫だ。済まないな、アミツ」
ジルゴは自分の巨躯を運ぶアミツが、どれ程苦労しているかおもんばかってはいるが、アミツも元神賢者だ。その辺りの事情は詳しく、物理的にも術を駆使してうまく対応しているようだ。
やがて一番下の段に到着し、一息つく二人。
「この源泉のお湯は、打ち身やねんざ、骨折などの疼痛の緩和の効能があります。
まずは、この手桶で足先から徐々にかけていき、肩までかけ終わった後で、そのままお入りください」
ボリベは、入浴手順を説明する。
車椅子ごとの入浴に難色を示す宿もあったが、ボリベの泉は、比較的自由だった。ただ、口頭での、腐食に対する自己責任だけは説明があった。
「ジルゴ様は立ち上がることは可能でしょうか? もし可能でしたら、ゆっくりと進んでいただき、一歩一歩段差を降りて入浴していただければと思います。
泉が白濁しております。中は見えませんが、基本的には平らに削っておりますので、足元の視界の効かない湯船の中で何かに躓くことはないだろうと考えております」
その説明を聞いたジルゴだったが、立ち上がれないことを告げ、ネスクに押してもらいながら湯につかりたい旨を説明した。
アミツもジルゴ同様に湯浴み着に着替えていた。
彼女は先に足元にお湯をかけ、その後ジルゴにも足先から徐々に湯をかけていき、肩までかけ終わった時点で、キャタピラ車椅子をゆっくりと湯の中に引いていくのだった。
「……ふうっ……」
湯に浸かったジルゴ。
その吐き出された長い吐息からは、何事にも代えがたい、癒しの感覚が伝わってくる。
アミツも、ボリベの湯はいい湯だとは思ったが、やはりジルゴの付き添いが大事であり、そこまで自身で温泉を満喫しようとは思っていなかった。
享受を考えないようにしていたアミツですら、柔らかい絹のような湯に、思わずうっとりとしてしまう。
「ありがとう、アミツ。
……あいつらにも礼を言わなければいけないな。様々な回復術を色々試してはきたが、これ程に癒されたことはない」
ジルゴの言葉に、アミツは今までずっと堪え続けていた涙を一筋流す。
「……お疲れさま。
やっと……、やっとあなたの中での戦いが『終わった』のね……」
「……そうだな。
エリクシールに反旗を翻した時も、心のどこかで、この件は気になっていた。
やはり、私は『神勇者』だったようだ。
たが、もうそれは、彼らに渡した。後は、『超神剣』を引き継がねばならんが、最悪必要ないかもしれんな。彼らは皆自分の武器がある」
そういうと、ジルゴもゆっくりと目を閉じた。
劇的に傷が回復することはない。
だが、『ボリベの湯』の白濁した湯は、まるで温かい絹のようにジルゴを包み、それがジルゴにこの上ない癒しを与えていた。
「お前も入らせてもらえ」
ジルゴのその誘いに、アミツは椅子にロックをかけて動かないようにすると、ゆっくりとジルゴの前に回り込み、腰を下ろす。温かい湯が肩まで浸り、アミツも癒しの息を吐く。
「いいものだな、温泉というものも」
アミツは髪を手ぬぐいで後ろに縛り上げ、纏めている。髪を挙げたアミツをジルゴは初めて見たらしく、年甲斐もなくジルゴは視線をそらした。
「なぁに?」
そんなジルゴの僅かな挙動に気づいたアミツだったが、自分の髪型にジルゴが戸惑いの反応を見せているのを見て、驚きと共に愛おしさとが久しぶりに湧き出してくるのがわかった。
「そちらへ……」
椅子の手摺を隔てて、にはなってしまうが、ジルゴはアミツと共に湯の中で並んだ。
今まで戦いに明け暮れ、子育てという戦いはまだまだ続く二人の人生の中で、少しだけ休息が取れた気がした。
「ギュー、どこにいくの?」
ひとしきり腕ブランコで楽しんだジアは、特に寄り道をするでもなくどこかに向かおうとするギューに尋ねる。
特にギューは怖い表情を浮かべているわけではなかったが、表情から笑みが消えている少年神勇者の微かな違和感が、ジアに何かを感じさせたようだった。
「……ジアは、カインさんに会っているよね?
僕は、入口の案内板にあった『カインシーザの井戸』を見てみたくて。
宿の女将さんの話では、おかみさんを助けたり、この町で色々と活動したりした人物が、どう考えてもあのカインさんなんだよね。
特徴を聞く限りでは……さ。
知りたくない?
『あの』カインさんがどういう経緯で温泉町の町おこしを手伝うことになったのか、をさ」
ジアには難しいのか、首を傾げるでもなく、にこにこしているだけだった。
ただ、そのギューの疑問はネスクには刺さったらしく、彼女もギュー宜しく不思議そうな表情を浮かべた。
ネスクは、ジアと同じか少し年上という年齢だが、見た目同様、普通に大人の女性として振舞っている。それは、彼女の体内にあるライブメタルに、彼女の母や兄、その他デイガ界元の人々の記憶が断片ながら存在し、それを理路整然と並べられているからこそ、ギューと同じかそれ以上の洞察力を駆使でき、大人としての意見も持てる。
そんなネスクでも、カインシーザの今までの行動を見る限りでは、とてもではないが、温泉街の興業に関与するとは思えなかった。
『神は等しく救済しない』。
この場面で使用する言葉として適切なのか、いまいちネスクにはわかりかねるが、それでもカインシーザという人間を端的に示した表現であることは、彼女も十分理解していた。
「……カインさんに、何か改心するような出来事でもあったのかな」
ギューはさらりと失礼なことを言う。
カインシーザの思想は、それはそれで真理であり、彼が長い間迷った結果、たどり着いた一つの答えなのだ。
それゆえファルガは勿論のこと、ディグダインも彼の思想には一目置き、その行動については迎合しないまでも、一定の理解を示している。
だからこそ。
カインシーザが温泉街の一部に名前を残すような、何かを実際に行なったのか。そして、この移動の名前があのカインシーザなのか、もしそうなら、一体彼はどういう心境の変化でそれを行なったのか。
実は、カインシーザという名の『魔』が何かしたのではないかという位、今までのカインシーザからは真逆の行動パターンだった。
そんな失礼な物言いを、本人が聞いたらどのような表情を浮かべて怒るのか、はたまたそのままにやりと笑って終わるのか。
調べた上で、それを伝えたカインシーザの反応も酷く興味があるギューだった。
『カインシーザの井戸』。
これは、間違いなくカインシーザの槍術『巨岩穿』の跡だった。
槍撃を撃ち上げて作った空洞なのはわかるが、わざわざカインシーザが温泉の地下水の中に潜って、槍で撃ち上げたとは考えにくい。それは、あまりに非効率的だからだ。
ならば、地上から『巨岩穿』を打てば、同様の井戸は掘れるはず。
しかし、そうではないのが、穴の形状からわかる。
点で打ち出された貫通撃は、発動点から距離が離れるに従って、周囲の岩を巻き込み、作用面が徐々に大きくなっていく。
つまり、角度はともかくとして、穂先から遠ざかれば遠ざかる程、漏斗のように、その口が徐々に広がっていくものなのだ。
よほど力が強く収束されていれば、そこまで力が拡散しないようにする事も可能だろうが、そこまで強い一撃を放つ必要があるかといえば、正直ないはずだ。
「やはり、カインさんなんだ。一体この町で何があったんだろう」
ギューは、井戸の説明用看板の文面と、実際に穿たれた穴、そしてそこに滾々と湧き出る白濁した湯と白い湯気を見比べながら、唸るのだった。
「少年、君はカインシーザを知っているのか」
背後からの声に、先程まで微笑みを浮かべっぱなしだったジアの口がへの字に曲がったのを見て、ネスクは思わずジアを抱き上げる。
ないとは思うが、ジアの泣き声を聞きつけて、突然ジルゴが車イスで現れないとも限らない。
……冗談抜きで、あり得ない話ではない。それほどジルゴという男は、子煩悩なのだ。
背後からの言葉の主には、殺気はない。
だが、戦士特有のザラリとした気配を、ギューは敏感に感じ取っていた。
これが、カインシーザの言った『妖』と『魔』の比率の違いであると彼が気づくのはもう少し後だ。
六割四割。
六割が『妖』であり四割が『魔』。
心魂の比率から考えると、その声の主は『妖』に分類してよいのではあるのだが、ファルガやギューといった神勇者たちの心魂の最も多い比率が、八割二割であることを考えると、ギューの背後の声の主は、かなり『魔』に近い存在だといえるだろう。
少年神勇者は、背後にいる存在に対し、女性だという先入観で振り返った。
ところが、眼前には女性はおらず、体躯に恵まれた角刈りの戦士が立っているだけだった。
頭にクエスチョンマークが浮かぶギュー。
しかし、眼前にはこの人物しかいない。
角刈りの筋肉質の人物。
つい先日まで、身長五メートル超の巨人を相手にしてきたが故、身長百八十センチ台の身長は、決して大きくはないのだが、ギューやファルガより背の高いこの人物は、やはり巨漢、すなわち男性の巨人にしか見えなかったのだった。
「ええと……、貴方はカインさんをご存じなんですか?」
「私か? この町にいた時の彼とは、行動を共にした」
先程の背後から聞こえた声の主は、この巨躯の持ち主に間違いない。
ギューは一瞬戸惑うが、彼の≪索≫は、この戦士を即座に分析し、その人物が女性であること、戦士としての戦闘能力もかなり高いことを、少年に伝える。
そして、その角刈りの女戦士から、何かを失った不思議な感覚がギューに流れ込む。
柔らかくもくすぐったい感情。久しく他の人間から感じたことのないものだ。
ただ、残念ながらギューにはその感情に共感することもできなければ、その感情が何なのかを推すこともできなかった。少年には人生経験が不足していたからだ。
「……カインシーザは、ある時を境にこの地から姿を消した。
皆、彼には感謝しかない。せめて、彼が息災であることを知っておきたいのだが」
ギューは即答できなかった。
単純に、この角刈りの女性戦士に対して信用がおけなかったからだ。
だが、無下に断ることもまた、彼にはできなかった。
「カインさんとは、先日会いました。またすぐに別れましたけど。
……これでいいですか? 僕もあの人がどこで何をしているか、までは知らないのです」
角刈りの女性戦士から、一瞬だけ落胆の様子が見て取れたが、すぐに掻き消えた。
「そうか。すまない。
君たちも彼を探しているのか?」
「探しているわけではないです。連絡を取ろうと思えばいつでも取れますから。でも、今は取るべきではないと思っているので、取っていません」
かつてカインシーザと共に源泉を求めて旅をした角刈りの女性戦士サグと、浴衣を羽織った少年神勇者の間で交わされる不思議な感覚に、口をへの字に曲げていたジアは、声なく泣き始めた。
そんな様子を見たギューは慌てて、ジアを宥める。
「ジアちゃん、お兄ちゃん悪かったよ。もう喧嘩しないから」
顔をくしゃくしゃにして、しかし何と泣かないように我慢をしていたジアは、目を真っ赤にしながら一度頷いた。
「……すまなかったな。お嬢ちゃんを泣かせてしまったようだ」
彫りが深く、感情がなかなか読み取りにくいサグではあったが、ジアは怖いながらも一生懸命笑みを作ろうとしていた。
その様を見たギューは、ほんの少しだが、警戒を解いたのだった。




