問題編
これは夢だ、と気づいてすぐに私は我妻を殺してみようと思った。
ベランダに出ると、パジャマ姿のままで身を投げ出した。
これは自殺行為ではない。
落下する感覚はなく、代わりに浮遊感が生じる。
手を広げて、大の字になって風に身を任せてみる。
眠らない街のネオンが夜空を照らしていた。
都会の空には星一つなく、見上げる必要を感じなかった。
私が見る夢にはいつも決まったルールがある。
一つは、現実の写し鏡であること。
一つは、生き物が存在しないこと。
飛行する私は大地を見下ろした。
走る自動車。雑踏を行き交う洋服。
昔の映画で見た透明人間みたいに服だけが歩き回っている。
奇妙な景色。夢なのだから、それはそう。
今となっては、すっかり見慣れた光景だ。
先日と同様に、我妻のマンションのベランダに降り立った。
室内と外を分かつ境界線、窓ガラスに手をかざす。
イメージするのは、液体金属。
ターミネーター2。T1000。警官に化けたロボット。
当時のCGは今よりもずっとチープだった。
きれいなものしか作れない……。
だからこそ、T1000は液体金属で作られたという設定なのだ。
変幻自在のスライムのように。
つるつるとした鏡面、参考資料は理科の教科書にある水銀。
イメージは夢を改変する。
窓ガラスの表面に変化が生じた。
ガラスが水面のように波打つと、ボール大の穴が空く。
穴をくぐって腕を通した。
内側の錠に手を伸ばし、音も立てずに開ける。
今度は戻してみよう。
硬質で傷一つない、元のガラス面をイメージしてみる。
こう……かな。こんな感じ。うん、OK。
イメージは具現化して、窓ガラスは元に戻った。
夢と認識した夢では、夢は自由に改変できる。
窓に手をかけると、抵抗なくスルスルと開いた。
錠は内側から解かれている。
室内に入ると、寝室には一人の少女が眠っていた。
我妻……。
私の見る夢の世界には生き物が存在しない。
例外は一つだけ。
眠っている生き物だけは入り込むことができる。
現実世界における我妻のマンションには、私が見ている夢とまったく同じように、寝室のベッドで我妻が眠っているはずだ。
起こさないように、慎重に我妻の頬をなでる。
しっとりとした冷たい感覚。
まるで、人形のように……でも、生きてる。
肌の奥底から、生命の暖かみを感じた。
芽生えたのは、かすかな興奮。
息をひそめて、細い首筋に手をかける。
力を込める。
形の良い眉が歪み、我妻が苦悶を漏らした。
身をよじると、ブランケットに覆われていた肢体が露わとなる。
桃色のネグリジェに包まれた薄い胸板、伸びた手足。
欲情に似た感覚が湧き上がる。
整えられていたシーツが乱れ、ベッドがきしんだ。
体重をかけて抑えつける。
見えない絞殺魔に対する、空しい足掻き。
無駄なことだ。
夢の世界からの攻撃に、現実から抗うことはできない。
首元に伸ばした抵抗の痕は、何度も空を切った。
一方で、私にも焦りはある。
夢の世界から干渉できるのは、眠っている相手だけ。
我妻は苦しみによって目覚めつつある。
果たして、間に合うかどうか。
タイムリミットが迫る。
このまま覚醒すれば、取り逃がしてしまう。
首の骨を折らんばかりに、私は力んだ。
「逃がさないから」
力を込める。
首筋の芯となる骨をつかむ。
きた。
指先に強い感触が蘇ってきた。
思わず、口角が吊り上がる。
彼女の肉体が取り込まれていくのを感じた。
私の夢の世界には、生き物は存在しない。
あるのは死者のみ。
我妻はもう、生き物ではなくなりつつある。
ようこそ、悪夢へ。
夢の住人とは、すなわち――死体だ。
呼吸をさえぎられ、我妻は急速に死に近づいているのだ。
「シ……ロ……ちゃ」
名前を呼ばれて、ドキリとする。
あ。
我妻と目が合った。
彼女の黒目に、パジャマ姿の女が映る。
死への旅路に赴く、刹那――。
夢の中の私を、我妻は認識できるらしい。
「なんで……シロちゃん」
「おやすみ」
数分の出来事は、私にしてみれば一瞬。
夢のような時間だった。
我慢していた息を吐き出す。
達成感を噛み締める。
ベッドに転がるのは、人形と化した我妻。
死体は生き物じゃない――
だから、服ごと夢の世界に横たわっている。
なんだろう?
ふと、鼻につく匂いに気づいた。
ブランケットをめくると、異臭の原因が判明する。
どうやら、我妻は失禁したらしい。
ベッドシーツに広がる、小便のしみ。
冷たい室温に触れて、ほのかに湯気が漂う。
下腹部に熱がこもった。
逡巡が生じる。
嘘だ……。
私は変態なんかじゃない。
ちょっと殺してみたくなっただけで……
でも、誰が見ているわけでもないし……
こうなったら、とことんやろう。
殺人を成し遂げた興奮で、気が大きくなった。
今なら、どんなことだって出来るはず。
つばを飲み込む。
シーツの湿ったしみに、舌を這わせた――
チリン。
見ていたものがいる。
私の醜態を。
視線の先には、赤い首輪。
ああ、そうだ。
「新しく飼うことにしたのか……」
すっかり興奮が冷める。
全能感はたちまちに失せた。
なんだか馬鹿らしくなって、私は帰宅することにした。
来たときと同じように、
窓の施錠は忘れずに――
これで、完全犯罪の成立である。
完全犯罪が成立した、はずなのに。
どうして、私は変な刑事に絡まれているのだろう?
「それで、黒沢 銀さん。亡くなられた我妻鏡花ちゃんとは、どのような関係でしょうか……?」
「クラスメイト」
「な、なるほど。うふふ……銀さん、ってカッコいいお名前ですねぇ。なにか由来とか、あるんでしょうか?」
「映画」
「福田雄一の?」
「銀魂じゃなくて、銀幕」
っていうか、銀魂は福田のものじゃないし。
作者は空知英秋でしょうが。
「昔は映画のことを銀幕、って言ってたの。スクリーンには銀の塗料が塗られてたんだってさ。ママがシネフィルだったから。そういうわけで、私は銀」
「シネフィル……?」
「映画オタクのこと」
「勉強になりますっ。まだお若いのに、物知りですねぇ……」
そういうコイツも、かなり若いんじゃないだろうか?
我妻の通夜で、ある刑事から事情聴取を受けることになった。
通夜の席を外れて、二人で外に出る。
刑事の名は新町 古都子。
新しいんだか古いんだか忙しい名前である。
私は刑事を観察した。
見たところ、20代前半と言ったところか。
かなりの人目を惹く美人である。
とはいえ――
素材は良いけど、調理はダメ。
色素が薄い青髪にはろくに櫛が入っておらず、無造作に長く伸ばしたままだ。
化粧っけも薄い。
顔が良いだけにもったいない。
体型はちんちくりん。
安物のリクルートスーツ姿は、
まるで子供がコスプレしてるみたい。
我妻とは雰囲気が似てるかも……。
大人なのに?
合法ロリってやつだろうか。
体型だけは、ちょっと好みだけど……。
そもそも――
通夜だってのに、喪服も無いんだろうか?
大人をやれてるのかと心配になる。
「うふふ……」
「何、ニヤついてんの?」
「あの……もしかして、本官のこと好きですか?」
「はぁ!?」
何を言ってるんだ、コイツは。
「ふれんどしっぷ計画っ!」
本格的に何を言っているんだ、コイツは。
「本官、実は友達が少なくて……」
「そうなんだ」
「ですので、黒沢 銀さん。本官の友達になってくれませんか?」
「えっ」
私、高校生なんだけど。
「高校生と刑事って、友達になれるの?」
「愛さえあれば年の差なんてっ」
「重いわ。友達でしょ、友達」
ぺこり、と新町は頭を下げる。
「ありがとうございます、銀さん!」
「まだOKしてない。ってか、本格的に銀魂っぽくなってる」
「ありがとうございます、銀ちゃん!」
「距離詰めるの早いな……」
面倒すぎる。
明らかに地雷っぽいし(友達少ないのもわかる)、
適当にあしらった方が良さそうだな。
私はあきらめて、事情聴取に応じることにした。
「えーと、新町さんは何が聞きたいの?」
「古都子さん、って呼んでくれるとうれしいです」
「……古都子さん。私に聞きたいことって?」
「鏡花ちゃんのことです。誰かに恨まれる心当たりはありますか?」
「無いんじゃない? 裏表ないし、良い子だし」
「…………」
くりん、と新町は首をかしげる。
「銀ちゃん、鏡花ちゃんと仲が良かったんですね」
「そう……かな」
「裏表がないかどうかって、ある程度付き合いがないとわからないと思うんです。本官は友達がいないからわかります。セーフティラインの浅い付き合いでならニコニコしてますけど、ちょっと離れたら、みんな本官の悪口で盛り上がってるんです」
「被害妄想じゃない……?」
「銀ちゃん、鏡花ちゃんとの関係を聞いたときにはクラスメイトだって言ってましたけど……ホントは、友達だったんじゃないですか?」
「クラスメイトと友達って、そんなに差があるもんかな」
「ありますっ! クラスメイトなら、本官だって1人くらいはいますっ!」
「限界集落の出身?」
「友達は、また0人になっちゃいました……」
ん?
新町が妙なことを口走った。
「0人になった、って?」
「銀ちゃん、鏡花ちゃんのマンションに遊びに行ったことはありますか?」
私の質問を無視して、新町は質問を重ねる。
ここは慎重に考えなければいけないところかもしれない。
我妻のマンションには、エントランスに監視カメラがあったはず――昨夜の犯行のときにベランダからの侵入ルートを選んだのは、無意識に監視カメラを避けたからだ(夢の世界を経由して侵入した私がカメラに映るとは思えないが)――となると、ここで下手な嘘を吐くとやぶ蛇になるかもしれない――以前にマンションを訪れたときの記録が残っている可能性がある。
慎重に言葉を選ぶことにした。
「まぁ……何回かは行ったことあるかも」
「マブダチじゃないですかっ!」
「親友のハードル低くない?」
「じゃあ、猫のことも聞いてたりします?」
猫。そう言われて、昨夜の記憶が蘇った。
赤い首輪と、鈴の音。
思わず、意図しない言葉が漏れ出る。
「新しい猫……」
「今、なんて?」
「いや、新しい猫を飼うことにする、って……」
「なるほど。いえいえ、そちらではなく。以前に鏡花ちゃんが飼ってた猫の話です。突然、何者かに殺されてしまったという……」
「ああ……」
あれは、実験台である。
私が自身の明晰夢のチカラに気づいたとき、最初にやってみたのは我妻が飼っていた猫を殺すことだった。私は正直なところ、あいつの猫の話にはうんざりしていた……驚いたのは、夢の中で殺した猫が、現実の世界でも死んでいたこと。
そのとき、私は夢のルールに気づいた。
私が夢の中で殺した生き物は、現実でも死ぬことになる。
「そりゃ聞いてるよ。我妻ったら、あの猫が死んでからワンワン泣いてたから。えぐいことする奴もいるもんだよね。でもさ、あんだけ泣いてたくせに、すぐに新しい猫を飼うなんて……我妻も、意外と切り替え早かったのかも」
「今回も密室殺人なんです。
鏡花ちゃんの猫が殺された時と、同じ」
新町は神妙な顔で言った。
「室内は内側から完全に施錠されてました。鏡花ちゃんは一人暮らし、合鍵を持っているのは遠方に住んでいるご両親だけ。セキュリティは完璧です」
「女子の一人暮らしだもの、そりゃね。この辺はそういうマンション多いよ」
「もしかして、銀ちゃんも一人暮らしですか?」
「まぁ……そんな感じ」
強引に話題を変えることにする。
「ところで、何? 我妻って殺されたの?」
新町はいやらしい笑みを浮かべる。
「え? 本官、鏡花ちゃんが殺されたなんて言いましたっけぇ?」
「言ってたけど……」
「あーっ! 密室殺人って自分で言ってましたぁっ!」
うかつすぎる。
コイツ、本当に刑事なのか?
一応、警察手帳は見せてもらったが……。
「カマかけたんだ、古都子さん。友達とか言ってたくせに」
「本官も刑事です。友達と言えども、捜査はします」
上目遣いをしながらも、新町は目つきを鋭くした。
「気になるのは、犯人が密室殺人にした理由です」
「密室殺人、ってあれだよね。本陣殺人事件とか黒牢城みたいなやつ」
「銀ちゃん、ミステリ小説を読むんですか?」
「映画で観たの」
密室殺人――他人が出入りできない状況、いわゆる密室でおこなわれる殺人事件――いわゆる、不可能犯罪のことである。
全然意識してなかったけど……そうか。
私の犯行は、どちらも密室殺人に該当するのか。
新町は唇に指を当てて、思案する。
「密室殺人の大きな目的の一つは、犯行を自殺に見せかけることにあります。他人が出入りできない場所で殺すことで、被害者が自ら命を絶ったように見せかける……」
しかし、今回の場合には当てはまらない。
「鏡花ちゃんは何者かに首を絞められて殺害されていました。動かしようのない他殺の痕跡が残されています。ですから、自殺に見せかけたということはありえない。逆に、鏡花ちゃんが他殺に見せかけて自殺したということもありえません。これはれっきとした殺人事件なんです」
「じゃあ、犯人は何のために密室殺人をしたの?」
「それがわかりません……。偶然、密室が出来てしまったにしては密室が完璧すぎます。犯人はなんらかの意図をもって密室を作った、はずなんですが……」
「なるほどね」
頭を悩ませる新町を見て、私は嗜虐的な喜びを感じた。
これは計算していなかった出来事である。
なぜなら、私が密室を作った理由は「出来たから」でしかない。
夢の中で人を殺す、完全犯罪。
それが出来るのならば、現場には一切の痕跡を残したくなかった。
窓を施錠した理由は、それだけでしかない。
警察というのは大変な仕事だ。
全てに説明がつく理由があると考える――。
しかし、人知を超えた力を持つ者にとっては違う。
ただ、なんとなくで完全犯罪が出来てしまうのだ。
うんうん、とうなりながら新町は去っていく。
刑事と一対一という状況から解放されて、私は安堵した。
まったく、面倒な女に絡まれたものだ……
「銀ちゃん。もう一つだけ、聞いてもいいですか?」
「…………ッ!?」
いつの間にか、新町が胸元にまで迫っていた。
「な、なに……?」
「猫の件です。鏡花ちゃんが新しい猫を飼うことにしたと聞いたのは、いつのことですか?」
「えっと……いつだったかな。ごめん、よく覚えてないかも」
「どういう猫を飼うのか、聞いてました?」
どういう猫か……。
昨夜の記憶を反芻する。
チリン。
私が聞いたのは鈴の音。
見たものは、赤い首輪だけ。
ベッドの下にあったのは、それだけだ。
私が見る明晰夢――
夢の世界には、眠っていない生き物は存在しない。
だからこそ、首輪だけが見えた。
「聞いてない……と、思う」
「新しい猫を飼うということだけは聞いていた。それでいて、どういう猫を飼うのかは一切聞いていなかった……わかりました。ありがとうございます」
今度こそ、新町古都子は夜闇の中に消えていった。




