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蛇足伝  作者: 大田牛二
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朱建伝

 夜の帳が降りる中、一人の男が淮南王の宮中を歩いていた。男の名は朱建しゅけんと言う。


 彼は淮南国の宰相を勤めていた。今の淮南王は英布えいふまたは、顔に黥があることから黥布げいふとも言う。


 その淮南王から至急の要件ということで、彼は呼ばれていた。


「朱建でございます」


「おお、来たか」


 朱建が部屋に入ると英布は彼を出迎えた。


 はっきり言って、朱建は英布のような男は嫌いであった。傲慢で礼儀も知らないような男だからである。それでも彼は自分の職務を全うすることを第一と考え、英布の元にいる。


「実は助言してもらいたいことがある」


(助言……私から)


 この男は自分の意見を求めるという奇妙な状況が彼にとっては可笑しさを感じた。


「何でしょうか?」


「実はな……私は挙兵しようと思う」


「なりません」


 朱建は英布の言葉を聞くや否や、諌めた。


「漢への謀反などなりませんぞ」


「既に淮陰侯・韓信かんしんを殺し、梁王・彭越ほうえつは塩漬けにされてしまったのだぞ。次は私に決まっている」


 韓信が殺されたのは本年・高祖十一年・紀元前194年の春。彭越はその夏に殺されてしまっていた。英布は次は自分ではないかと恐れ、兵の準備を進めていた。


「それに漢の使者が来たのだ。賁赫ひかくが私を売ったのだ」


 英布には寵愛する妾がいた。その妾が病にかかったため、英布は医者に彼女を診察させた。その医者の隣に住んでいたのが、賁赫であった。彼は姫に手厚い贈り物をし、医者の家で共に酒を飲むなど親しくなった。


 恐らく彼は妾と親しくなることで出世しようと考えていたのだろう。


 その後、妾は回復し英布と共にいる時に賁赫が長者であると言った。それを聞いた英布は何故、賁赫のことを知っているのかと激怒して詰め寄った。


 妾は事情を話したが、英布は妾と賁赫が通じたのではないかと疑うようになった。それを恐れた賁赫は病と称したために英布は真実だと思い込み彼を捕らえようとした。


 賁赫は漢の都である長安へと逃走した。そして、英布が謀反を起こそうとしていると訴え、そのために使者が来たのだと英布は考えたのである。


「いいえ、まだ、漢は王が謀反を起こしたとは本気では思ってないかと思います」


 朱建はそう言った。


 彼は確かに賁赫が英布の謀反について訴えたことで使者を出したが、まだ本気にはしていないと考えていた。


 確かに朱建が思ったとおり、賁赫の訴えに対して漢の上層部は冷静であった、


 漢の高祖・劉邦りゅうほうはこの訴えに対し、相国・蕭何しょうかに訪ねた。


 蕭何は首を振り、賁赫の身柄を抑え、事実かどうかをしっかりと見極めるべきと主張し、使者に調査させたのであった。


「王、今すぐ兵に武装を解き、我が国の不祥事の事情をお話しして、妾を斬って妾と通じた賁赫に罪があることを主張なさるべきです。何でしたら私が直接、長安に出向き事情を説明致しましょう」


 朱建は弁舌に自信があったため、そのように言った。


「いや、それによって王の位を取り上げられて韓信と同じ目にあるのだろう。そして、切り刻まれ塩漬けにされてしまうのだ。私はそのような目にあるぐらいならば、挙兵する」


「なりません」


「もう決めたことだ」


 英布のその言葉に朱建はため息と共に首を振った。話にならないからである。既に決めたというのならば、助言などいらないではないか。


「そうですか。では、私はこれで失礼致します」


 彼は英布の部屋を出て、ため息をついた。


 その後、英布は賁赫の一族を皆殺しにして挙兵した。漢はそれに対し、劉邦自ら出陣しこれと相対して勝利を収め、英布は鄱陽付近にある茲郷で地元の元に殺されてしまった。秋のことである。


 朱建は英布が挙兵した後も宰相として政務を行っており、英布を破った漢軍が淮南を制圧し、朱建のいる政務室に乗り込んできた。


「抵抗はしない。但し少し待ってくれ政務でまだ決済が済んでいないものがあるのだ」


 彼は兵に囲まれながらも動揺することもなく、捕らえられた。









 その後、英布に従っていた者たちが次々と処罰されていったが、朱建は英布を諌めたことで許され、平原君に封じられ、彼の家は長安に移動させられた。


 彼は剛穀正直で、自分の考え方や信義を曲げないため、尊重されたものの扱いづらい人だと思われていた。


 彼が長安にいてしばらくして、高祖・劉邦は世を去り、恵帝けいていの世になっていた。だが、同時に劉邦の正室にして、恵帝の母である呂太后の権力が大きくなっていた。


 そして、その呂太后に寵愛を受けて自分の地位を高めていたのが、辟陽侯・審食其しんいきである。彼は呂太后に昔から仕えており、劉邦からも信頼されていた人物なのだが、呂太后の寵愛と品行が悪かったために嫌われていた。


 そのためか審食其は名声のある朱建と交友関係になろうとした。しかし、朱建は断固として彼に会おうとしなかった。


 その朱建と仲が良かった人物に陸買りくかがいた。彼は劉邦に使え、南越を漢に朝貢させた人物で、多くの人に慕われていた人物であった。


 ある日、朱建の母が死んだ。本来であれば喪を発しなければならないのだが、貧しいために喪具を他人から借りようとした。


 その時、陸買は審食其の元に出向きお祝いの言葉を述べながら言った。


「平原君の母君がお亡くなりになりました」


「何故、平原君の母君が亡くなったことが私にとって祝いとなるのか?」


 審食其が彼に問うと彼は言った。


「以前からあなた様は平原君と好を結びたいと望んでおりました。しかしながら平原君はあなた様とお会いになろうとされなかったのは母君がご存命であったためです。もしあなた様が手厚く弔慰なさるのであれば、彼はあなた様のために一身を捧げることでしょう」


 陸買の言葉を受け、審食其は朱建に弔問し、寿衣きょうかたびらの料として黄金百金を捧げた。他の列侯や貴人も審食其に合わせるように弔問して香典を渡した。それによって朱建の元には五百金も集まった。









 やがて審食其の身に危機が及んだ。何者か不明であるが、ある人が彼を謗って恵帝が激怒して審食其を処罰しようとしたのである。流石に呂太后も庇いきれず、大臣たちも審食其を憎んでいることもあり、誰も彼を擁護しなかった。


 追い込まれた審食其は苦し紛れに朱建の元に人をやり会おうとしたが朱建は、


「裁判が切迫しておりますので、君には会うべきではないかと思います」


 と言って断った。審食其の使者が帰ると朱建は閎孺こうじゅの元に出向いた。


 閎孺とは何者かと言うと恵帝の寵臣である。もっと正確に言えば、男の愛人である。恵帝は彼を女性の化粧をさせて、寵愛していたのである。


 朱建は閎孺に会うとこう言った。


「あなたが寵愛を受けていることは天下の誰もが知っており、今、辟陽侯が太后の寵愛を受けているにも関わらず、主上に殺されようとしているとしていることも皆、知っております。つまりあなた様が辟陽侯を讒言して、殺そうとしていると皆、考えているのです。しかし今日、辟陽侯を殺せば、明日には太后の怒りをあなた様は買うことになり、殺されてしまうことでしょう」


 真実はどうあれ、有り得ない状況ではないことを彼は強調した。案の定、閎孺は恐怖した。


「どうしてあなさ様は辟陽侯のために上着を脱ぎ、主上に辟陽侯の罪を許すことを請わないのですか。主上があなた様の願いを聞き入れ、辟陽侯をお許しになられれば、太后はあなた様に感謝することになります。これによって二君から寵愛を受けるようになり、あなた様の富と地位は今よりも二倍になることになりましょう」


 閎孺は納得し、恵帝に審食其の取りなしを図った。その結果、審食其は許された。


 審食其は朱建が自分に会おうとしなかったことから大いに彼を憎んでいたが、後に彼の策によって救われたことを知ると大いに驚いた。


 それによって彼は朱建を賓客として優遇した。


 一方、朱建はいつもどおりに過ごすだけであった。








 やがて恵帝が無くなり、呂太后ら呂一族が漢王朝を支配するようになったが、呂太后が無くなると漢の重臣たちは呂一族を誅殺した。だが、呂一族と密接な関係であった審食其は処罰されることはなかった。


 これは陸買と朱建によって行われたことである。


 何とか命を長らえることができた審食其であったが、彼は突然、命を失うことになった。


 審食其はある日、長安を訪れていた淮南王・劉長りゅうちょうが自分の屋敷を訪ねた。彼は劉長を向かい入れたが、劉長に鉄槌で殴り殺されたのである。


 劉長は以前から審食其を憎んでいた。


 かつて劉邦が趙を訪れることがあり、その時の趙王・張敖ちょうごうは自分の側室であった趙姫ちょうきを劉邦に献上した。


 趙姫は寵愛され妊娠したのだが、そんな折、趙王の臣下であった貫高かんこうらによる劉邦の暗殺の計画が発覚し、王も趙姫も逮捕された。


 趙姫は高祖の子を妊娠していることを言ったが、高祖は釈放しようとしなかった。そこで趙姫の弟の趙兼ちょうけん周陽由しゅうようゆうの父)が審食其を通じて呂太后(この時、呂后)に命乞いしたが、呂后は嫉妬から劉邦に取りなしをしようとはせず、審食其も強くは言わなかった。


 趙姫は怒り、劉長を出産すると自殺した。劉邦は悔み、呂后に自分の子として育てさせた。


 だが、劉長はこのことから審食其を深く憎んでいたのである。


 劉長は呂一族が一掃された後に即位した文帝ぶんていの元に出向き、上着を剥いで罪を償おうとしなが、文帝は彼の気持ちに同情して彼を許した。


 劉長の行為は呂一族に協力した者を処罰したとして、功績とされた。そして、審食其の賓客として朱建が審食其と策謀したこともあると聞いた文帝は彼を捕らえて罪状がないかを、調べようとした。


 役人が門前に来たことが朱建に知らされると彼は苦笑した。


(つくづく私は運が無い)


 英布に仕えて嫌な目に会い、今もまた、審食其との繋がりによってこのような目に会うことになった。


(だが、審食其は英布よりはマシだった。少なくとも母への弔問の品を出してくれた)


 例えそれが心の底からの行為ではないとしてもその行為は恩義であり、その恩義は報いる価値があった。


(それに主上の公平性の無さは好きにはなれない)


 朱建は陸買と共にしっかりと審食其の罪が許されるように正式な手続きを踏み、彼への処罰は無いとしたにも関わらず、劉長は私念によって彼を殺し、文帝は弟を庇って法を曲げた。


(嫌な世だ)


 つくづく自分の生きる世ではないように感じた。自分の生き方が受け入れられない世の中である。


(せめて審食其のために殉ずる者が一人はいても良かろう。それに子らにこのようなくだらないことで命を散らさせるのも面白くはない)


 彼は自害しようとした。すると息子たちが彼に言った。


「事がどうなるのかわからないのですよ」


 朱建は彼らの言葉に首を振り言った。


「私が死ねば、禍根は私で止まる。お前たちの身に累が及ぶことはないだろう」


 ついに彼は自分の首をはねて死んだ。


 そのことを聞いた文帝は、


「殺すつもりはなかったというのに……」


 と彼の死を嘆き、彼の子を中大夫に任命した。後にその子は匈奴への使えに派遣され、匈奴の無礼に怒り、匈奴に殺された。


 審食其を殺し、朱建を死に追い込んだ劉長はおごり高ぶり、謀反さえ図るようになった。それが発覚し王位を取り上げられて、失意の中で死んだ。


 さて、最後に『漢書』における朱建への評価を述べる。


「朱建は始めは廉直を持って名声があったが、審食其を庇い節義を全うせず、そのために身を滅ぼした」


 中々に辛辣な評価が与えられている。しかし、本当に彼は節義を全うできなかったのだろうか?







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