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蛇足伝 作者:大田牛二
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終軍伝

 一人の若い青年が、歩いていた。

 この青年の名は終軍しゅうぐん、字は子雲しうんという。済南郡の人である。

 年少でありながら、学問に精通し、弁術に優れた人物であるとして、郡中で評判となっていた。その評判により、十八歳にして、博士官の弟子(学生)に選ばれ、長安に向かうよう命じられた。

 郡の太守はそれを知ると、彼に興味を覚え引見した。すると彼の非凡さを感じ、彼と好を結ぼうとした。終軍は一揖して、太守の元から去った。

 こうして彼は長安に向かっていた。やがて彼の前に大きな関所が見えた。

(あれが函谷関か)

 鶏鳴狗盗の固辞で有名でもある関所である。長安に向かうには、ここを通る必要があった。

 彼が通ろうとすると関所の役人が彼を見ると何の目的で長安に向かうのかを訪ねた。終軍は博士官の弟子に選ばれたことを伝えた。

「そうか。そうか。ならばこれを持っていくといい」

 そう言って役人が渡したのは、帛の小布の手形を与えた。

「これは何に使うものでしょうか?」

 と、終軍が尋ねると役人は、

「これは帰り道の関所手形だ。帰る時にこれで割符を合わせるのだ」

 と言った。終軍は学生として長安に迎えられるのだが、そこで学問を学んだところで、ものになるとは限らず、長安で任官することもあるかはわからない。

 現に彼と同じように長安に行き、志を遂げられずに帰っていった学生も多かった。

 だが、役人がこれを渡したことは終軍の自尊心を大いに刺激した。

(私を他の連中と同じにするな)

「大丈夫足る者、西に向かって、帰り道のことを気にするものではなかろう」

 そう言って彼は帛の手形を破り捨てた。

 長安で必ずや成功してみせるという不退転の意思であった。





 長安に着くと終軍は政について述べた意見書を書き上げ、朝廷に提出した。一学生としか言いようのない彼の意見書がそう簡単に朝廷の上層部に行くとは思えないが、当時の漢の皇帝は武帝ぶていであったこともあり、その意見書は武帝が読むところとなった。

「並々ならぬ才の持ち主である」

 武帝は意見書を読むや、そう言ってなんと終軍を謁者給事中に早速、任命してしまった。

 そんなある日、武帝が雍に行き五畤を祀った際、そこで白麟を捕らえたことがあった。また、横に伸びた枝がもう一度木にくっついているという奇妙な木が見つかった。

 武帝が群臣にそれが何の兆候であるか尋ねたところ、終軍は上書し、今に異民族が漢に降伏してくるという兆候だと答えた。

 武帝はこの兆候を元に改元して元号を元狩と名づけ、終軍を御史大夫に任じた。その数ヵ月後、越と匈奴の王が降伏してきたため、人々は終軍の言うとおりだと称えた。

 それから元鼎年間に入ると事件が起きた。

 博士・徐偃じょえんが、各地の風俗を巡察する使者となった際に皇帝の命令と偽って膠東と魯で塩を作らせ、また鼓鞴を用いて、鉄を作らせたと言う事件である。

 当時、酷吏として有名であった御史大夫・張湯ちょうとうは彼の行動を問題視し、死罪にするべきと主張した。

 それに対して、徐偃は『春秋』の義法では、大夫足る者は国境を出れは、社稷を安んじ万民を労わるべきでると主張した。

 つまり、専行行為を行ったことは社稷のため、民のためにやったことだと主張したのである。

 これに対し、張湯は法の適応を行いながらも反論することができないでいた。この事態に武帝は終軍に勅命を与え、彼に罪状を調べさせることにした。

 終軍には彼に罪を認めさせる自信があった。何故ならば、徐偃の主張の欠点を見つけていたからである。

 先ず、彼は徐偃の言った国境を出れば、専行行為をしても良いという部分を崩した。

「春秋時代の頃は、数多の諸国が立ち並び、風俗文化も地域によって違っており、そのため国境を出た後、臨機応変な対応を認めていたのである。しかしながら今日では、我が漢が天下を統一し、天下の風俗は同じものになっている。それにも関わらず、国内である魯や膠東に趣いて国境に出たとはどういうことか」

 国境を出ていないのに、国境を出れば、専行行為の正当性があるとするのは無理がある。

「次に汝は塩や鉄を作らせることが天下万民のためと称しているが、郡には余分な塩や鉄は用意されている。それにも関わらず、無駄に作らせることはどういうことか」

 必要以上に作る必要性がないものを作ることは無駄遣いというしかない。

「そもそも膠東は南に琅邪郡があり、北には北海郡があり、魯は西に泰山郡、東に東海郡があり、それぞれそれらの二郡から塩や鉄が提供されている。それとも汝はそれら二郡から提供される上で足りないと主張するのか。それとも役人がその提供を元に余裕を待たすことを怠っていると申すのか。それの具体的根拠を汝は示すことはできるのか」

 天下万民のためと主張するからには、それを行う上での具体的根拠を示せということである。

「また、春に民は農事に取り組まねばならないにも関わらず、鉄を作らせるために鼓鞴を作らせるとなれば、秋になってやっと完成するのである。農事に従事している彼らの職を邪魔をしてまでそのような手間を取ることはどういうことか」

 鉄を作らせることで民の行っていることの邪魔をしている。それは果たして天下万民のためと言えるのだろうか。

「記録によれば、汝は三度に渡り上奏を行っているとある。しかし、それらの一つたりとて詔を持って、許可を出したものはない。許可を与えられていないにも関わらず、汝は独断でことを行った。その点について汝は弁を持って償おうとせず、罰せられようとしない。汝はどういうつもりか」

 徐偃は彼の音葉に反論することはできず、自らの罪が死罪にあたることを認めた。

 終軍は、

「彼は勅命を偽り、専行したことは、使いの職務に反しております。何卒、御史に引渡し、罪を裁かせますことを」

 と奏上し、許可された。

 その後、彼は謁者に任じられ、郡国に巡視することとなり、はたじるしを立てて、函谷関を通ることになった。

「あれは……」

 終軍が函谷関を通る時、函谷関の役人は彼のことを覚えており、

「あの時、帛の手形を捨てた人だ」

 と感嘆した。











 その後、匈奴との和睦の際に終軍は使者になることを請うて、その際の言葉が認められ諌大夫に任じられた後、南越と和親することになった。

 そこでも彼は使者になることを請うた。またこの時、武帝は南越を国内の諸侯のようにしたいと考え、完全に取り込むことを考えていた。そのことは終軍も理解しており、自分ならそれができると主張した。

 ならばと武帝は使者の一人に彼を選んだ。

 選ばれた終軍は武帝に対し、請うた。

「願わくば、冠の長い紐を頂きまして、必ずや南越王を御前にお連れ致しましょう」

 この自信満々の言葉に武帝は大いに喜んだ。

 終軍は南越に至ると南越王を説得し、漢に従属するよう進めた。

 南越王は納得し、従属する旨を伝え、臣下一同に漢の風俗に見習うこととし、漢の刑法を行っていくことを決めた。

 これにより、南越の服属はなったと終軍は考えた。

 しかし、それに納得しなかった者がいた。南越の宰相・呂嘉りょかである。彼は南越王三代に仕え、その信望は王よりも上であった。

 そのため彼に協力する者は多く、呂嘉は挙兵し、南越王や漢の使者を全員殺してしまった。

 その殺された中に終軍も含まれていた。彼が死んだ時は二十数歳という若さであったことから人々は彼を『終童』と呼び、その死を惜しんだ。




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