常恵伝 ~蘇武と共に耐えた男~
もはや春秋遥かにの外伝じゃないなと思いながら前漢の人物その3。
常恵は太原郡の出身であり、若い頃から家が貧しかった。
「貧しいままではいたくはない」
若かった彼はその貧しさを脱するために国の募集に応じ、蘇武が匈奴への使者として出向くのに随行した。
だが、蘇武と共に匈奴に捕らわれ、抑留されることになった。
(かっ、貧しさを嫌い家を飛び出してこの様か)
彼はそう自らの不運を笑ったがその後、蘇武がこの状況において匈奴に従おうとせず、耐えていると聞いた。
(貴族である人が耐えている。それなのに貧乏人が負けるわけにはいかねぇな。貧乏には散々耐えてきたんだ。このぐらい耐えてみせる)
そう思いながら蘇武と共に十余年耐えた。
やがて漢の昭帝の時代となり、漢から匈奴に使者が派遣された際、常恵はその使者に密かに会って、自分と蘇武が生きていることを伝えた。それによって、長きに渡る抑留生活を終えた。
(俺は耐え抜いた)
彼は開放されると天に向かって、心の中で叫んだ。
世界の底辺というべき場所にいた自分に酷い仕打ちをした天命に自分は打ち勝ったと叫びたかったのだ。すると目には涙が溢れた。
そこに蘇武がやってきた。常恵は涙を拭い、拝礼する。
「常恵よ。汝が使者に会ってくれたおかげで国に帰ることができた。感謝する」
「勿体無きお言葉でございます」
蘇武は彼の手を取った。その手は傷つき、とても貴族の手と言えるものではなかった。
「辛かった。辛かったものだ。それでも時々汝が生きて耐えていることを聞いた。それは私に勇気をくれた。本当に辛かったなあ」
「誠に勿体無きお言葉でございます」
二人は泣いた。
常恵が帰国するとその功績を讃えられ、光禄大夫に任命された。
彼が帰国してから、烏孫公主(漢の景帝の孫、江都王・建の娘。名は細君)が上書した。
「匈奴が騎兵を車師国に繰り出し、そこで練兵を行うと合同で烏孫に侵攻しております。天子にこの窮境をお救い願いたい」
漢は士や馬を養い、評議してから匈奴を撃とうしたが、昭帝が崩御したため見送られた。
宣帝が即位すると常恵を烏孫へ使者として派遣した。烏孫公主と昆弥(烏孫の主の称号)がいずれもが使者を派遣し、常恵の口添えを持って、現状を伝えた。
「匈奴はしきりに大兵を発して烏孫を撃とうとし、車延・悪師の地とその地の民を連れ去り、使者をもって脅迫して公主を求めて、漢との間を裂こうとしております。昆弥は国の精兵を半ば繰り出し、人馬五万騎を自給し、力を尽くして匈奴を打ちたいと願っております。天は出兵いただき、我らを救っていただきたく存じます」
そこで漢は十五万騎を繰り出し、五人の将軍(田広明、趙充国、田順、范明友、韓増)を派遣した。
常恵は校尉となり、漢の節をもって、烏孫の守りと及び監視役となった。
昆弥は5万騎を動員し、匈奴単于の親族や王、将兵以下3万9千人を捕虜とし、多くの家畜等を鹵獲した。常恵は数十人の吏と共に昆弥に従い、帰還していたが、まだ烏孫に還りつかないうちに使者である印と節を烏孫人に盗まれてしまった。
(やってしまった)
烏孫人に盗まれたことは確かとはいえ、それを表立って批難すれば、漢と烏孫の関係を損ねる可能性がある。
(自分の落ち度であることを示すしかない)
そう考えた彼は使命を辱めたと処罰を自ら求めた。
これに対し、漢王朝の上層部は五人の将軍が結果を上げることができなかったこともあり、宣帝は常恵にだけ功績があったとして、彼を長羅侯に封じた。
そして、再び彼を烏孫へ黄金などを持たせ、派遣し、烏孫の功労者に下賜することにした。
常恵は宣帝に上書した。
「かつて亀慈国は校尉・頼丹を殺害しており、その罪に対し誅を加えておりません。どうか此度の順路において、撃たしていただきたい」
この上表に宣帝は許可を出さなかった。何より、これは自分の失敗を挽回しようとした行為にしか思えなかったからである。
(無理か……いやまだ、方法はある)
そう考えた彼が向かったのは大将軍・霍光の元である。
「私にそれを許せというのか?」
霍光は常恵の言葉を聞き、そう言った。
(成功するとは思えない)
ただでさえ、匈奴との戦いで敗れたばかりなのである。変に敵を増やすべきではないではないか。
「成功する方法はあります。烏孫を使うのです」
「烏孫を?」
そこに烏孫を出してきた彼を霍光は内心、浅知恵に過ぎないと思った。
「烏孫は先の戦いの際、捕虜等を我らに引き渡しておりません」
そう烏孫は先の匈奴との戦いで匈奴単于の親族や王、将兵以下3万9千人を捕虜とし、多くの家畜等を鹵獲していた。
(烏孫の監視役はこやつであったはず……烏孫との関係を悪くしないための判断か……)
常恵は監視役として烏孫にいたが、彼らの行為を不問にした。
「では、烏孫の兵の他はどうする」
烏孫の兵だけでは、亀慈国に圧力をかけるのは、難しいだろう。
「亀慈国の周辺の国々からも兵を派遣させます」
「ふむ……」
正直、最初の話しを聞いた際は無鉄砲なだけであると思っていたが、しっかりと考えたものであったこと、
(何より、堂々としている肝の座り方が良い)
自分の失敗を挽回するという気負った感じを感じさせない。
(だが、穴もあることも確かだ。まあそれを埋めるのが私か)
「良かろう。現地での状況を踏まえ、判断を下せ」
「感謝します」
「あと、西域の言葉に優れた者も何人か連れて行くと良い」
「お心遣い感謝します」
常恵は吏五百人を連れ、烏孫に向かうと帰途、先の件で脅しをかけ、兵七千人を徴兵させ、副使を亀慈の西方、東方諸国に派遣し、それぞれ兵二万を徴兵させた。
これらの兵を使い三方面から圧力をかけることにした。
兵が集まらないうちに使者をかつて校尉・頼丹を殺したことを責めた。
亀慈の王は三方から兵が迫っていることもあり謝罪し、
「それは私の先君の時に行われたことで、貴人の姑翼に誤られたことによるものでございまして、私の責任ではございません」
(責任を彼だけにするか……ふん、これでも一国の長か)
しかしながらそういうことならば、一人だけ責任で良い。
「もしそうならば、姑翼を縛って連れてくれば、我が方は王を許しましょう」
常恵がそう言うと、姑翼を捕らえ引き渡した。彼はこれを斬って帰還した。
後に蘇武に代わって典属国となった。
(蘇武殿)
蘇武は朝廷の権力争いに巻き込まれた結果、典属国を辞めさせられたのである。
(命までは取られずに済んで良かったものだ)
彼は外国の事情に精通していたため、しばしば功績があり、甘露年間に入り、趙充国が死んだ後の右将軍にも任命された。
元帝の頃まで生き、亡くなると壮武侯と諡された。