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蛇足伝  作者: 大田牛二


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17/30

第二回 小話・裏話・エッセイ

 需要があるらしいので、第二回です。


 今回は前回やらなかった「蛇足伝」の話しと「夢幻の果て」の第三章、第四章の話をしようと思います。ここまで書いているとここではないところで書けと言われそうなので、最後は一様、エッセイ的なものも書いていきたいと思います。


 では、先ずは「蛇足伝」からいきます。


 記念すべき「蛇足伝」の第一話は「趙氏孤児」の話です。春秋時代においてとても有名な話ですよね。中国でドラマ化も映画化もしており結構、あっちでもメジャーみたいです。


 この話を外伝においたのはこの話を本質として絡めるのは厳しいという判断でした。これは「要離」も同じですね。またはそれほどの自信がなかったとも言えます。


 趙氏の孤児を守るために二人の男が命をかける姿はやっぱり良いですよね。


「女兵」と「彼女が笑う時」はどちらも悪女の話ですが、前者は利用される女性として妲己が出てきるのに対して、後者の褒姒は完全にファンタジーの住人となっております。


 あとは末喜を出せと言われますが、彼女はあまりにも資料が無いため難しいですね。


 後の話は前漢の人物たちの短編なのですが、彼等の人選はですね。


 ダイスです。


「漢書」の列伝ごとに番号を振って、ダイスで決めるということで人選を決めました。


 最初に書いたのは鄭崇です。彼自身は良い人であったが、主君がダメだったという典型的な人物でしたね。


 郅都は蒼鷹という地味にかっこいい異名を持った人で、酷吏伝の人ではありましたが、厳しさはありますが彼自身は中々の人でしたので書きやすかったですね。酷吏伝の誰もが彼のようであれば良かったのですが……


 常恵は蘇武に同行して、共に捕まってしまったという悲運から始まる人です。しかし、蘇武と一緒に耐え切った人です。彼も蘇武と同じぐらい称えられても良いと思いますね。


 ただ印と節を烏孫人に盗まれてしまうという失態を犯してしまうんですよねこの人。そこがマイナス評価なのかなと思いますね。


 鄭当時はダイスロールで決まった時は頭を抱えましたね。あまりにも書きづらかったです。


 終軍は正に若手のホープという言葉が似合う人ですね。全盛期の武帝がいたというのも大きかったでしょうが、彼は正に栄光の中を歩いて来た人でした。しかし、最後は越で死んでしまうのはあまりにも残念というしかありません。


 朱建は最初ダイスロールで決まった時に誰?と首を傾げた人です。しかし、彼の列伝を見ると中々に面白い人だと思い、結構書きやすかったです。英布、審食其と珍しい人と関わるところも良いですね。特に審食其との関係はあまり無い関係なので、新鮮な気持ちで書けました。


 そのため彼の最後は悲しかったですね。しかも「漢書」の作者である班固からの評価はあまり良くないのも悲しかったです。


 因みに班固は歴史家としての評価は以外に低いんですよね。文才が無い。父と妹が書いたところの方が名分とか司馬遷のコピペじゃねぇかとか色々と彼の評価は低い。


 ただ後世において「史記」よりも歴史書としては「漢書」の方が読まれた模様。何故かと言うと歴史書を読むというのは文字や文章の構成などの練習として読むというのがあったようで「漢書」はそれにちょうど良かったらしい。


 どう思うべきなのか?


 叔孫通は儒者らしからぬ考え方と立ち回り方が良い人ですね。また、脇役として劉邦が優秀でした。


 呂馬童は項羽との会話が多い人物で短編を書く人としては中々に難しかったですが、劉邦の脇役としての優秀さと韓信などで乗り越えることができました。


 この二人のどちらとも劉邦がどうにも前に出てしまいますね。劉邦は主役も脇役でトリックスターになれるので中々に動かしやすい反面、彼の存在が強まりすぎるところが彼のネックのところですね。そのせいで薄姫の話が……










 さて、次は『夢幻の果て』の第三章、第四章です。


 先ずは蘇秦、張儀から行きましょう。


 戦国時代と言えば、縦横合従、弁士の時代。


 そんな時代の筆頭というべき存在が二人です。しかも二人は同門の出という正に物語的にも良い設定を持っている。


 しかし、そんな二人の力の差が作中では大きく出てしまいました。最初はあんなに差が出ることは想定していませんでしたが……


 でも、張儀の方が好きだし良いか。ということでああなりました。当初は蘇秦は仮面を付けて、蘇代とかを名乗るというのがあったのですが、流石に長生きしすぎだということでボツになり、この設定は燕の昭王の方へ流れることになりました。


 さて、張儀は正にやりたい放題やりました。本当に使いやすい。なんて使いやすいんだ。久しぶりにこんなに使いやつを見たよ。


 彼のイメージは海岸で子供たちが作っている砂の城を蹴り飛ばすという質の悪い兄ちゃんというイメージをしながら書いていました。うん、ひでぇやつだ。


 そして、二人と並ぶ人物だった公孫衍でしたが、張儀相手にはどうにもならなかったですね。彼も実力的には凄い人のはずですので、決して咬ませ犬ではないはずなのです。咬ませ犬ではないのです。大事なことなので二回言いました。


 一方、孟軻は相変わらず、動かしづらいですね。本当に頑固な人は動かしづらい。孟嘗君と関わらせたら少しは動かしいかなと思ったのですけどね。


 第三章はここまでですね。思ったよりも短いと思いながら第四章に突入しました。第四章冒頭は燕の内乱の話となりましたが、従来の話とは違う展開にしてみました。


 その結果、燕の内乱だけで三話も使うことになり、燕の太子・平の株は落ち、子之の株が上がるという当初では予想していなかったことになりました。


 この話を書いてみて驚いたことは子之ってこんなに綺麗な人になれるんだね。こんな良い人になれるなんて、書いていて今までで一番驚いたかもしれません。


 そして、株が落ちまくっていた太子・平は仮面をつけて公子・職に転生して、燕の昭王となりました。


 一方、彼と組むことになる楽毅は中山の地で趙の武霊王と対峙することになったのですが、彼の能力の高さはありながら最初、武霊王相手に何もできなかった楽毅に違和感を覚えた人も多かったと思います。


 ここが歴史小説を書く難しいところの一つだと思っています。


 小説を書く上で主となる人物を書く上で、誕生、成長、成熟、完成、劣化、死を書くのが所謂、成長描写というものだと私は思うのです。


 誕生、劣化、死の三つに関しては物語の流れ、作品によっては書かないこともあります。


 そして小説は所謂、読者へのワクワクとドキドキの提供することが小説だと思いますが、歴史小説はそこのワクワクとドキドキの提供が難しいとも感じています。


 何故なら、歴史小説はそれ事態を読まなくともその時代のこと、所謂、小説の世界観を知ることもできますし、人物の完成形を知ることができます。


 成長描写で一番、重要であろう人物の完成形を読者が知っているのです。また、これは物語の完結もわかるという意味でも同じです。


 ここが歴史小説の難しさだと思います。


 さてこれは孟嘗君の方でも感じた人は多かったでしょう。特に彼は作中で一番、性格ががらりと変わった人物です。


 彼についてはどういう性格にするかは大分悩んでおり、書きながらどうするかを決めるというやり方を取っていました。


 良いやつ的になるように孟軻と荘周の二人を近づけつつ、本性を見せる状況になる時のために孫臏と関わらせました。


 孫臏が元々あのような性格にしたのは、孟嘗君のイメージを変えても大丈夫だろうかという牽制の意味で出していました。彼がいけるのなら、孟嘗君でもいけるだろうという感じでいきました。


 みんな孟嘗君に良いイメージがあるからきっと批難されるんだろうなあと思いながら書いていました。


 さて、次に白起です。


 まあ彼はこの後もあんな感じでいきます。ある意味ブレずにいけるかが彼の動かす上で重要ですね。












 最後にエッセイです。


 ということで内容は『春秋左氏伝』の君子例についてです。


 君子例って?と、疑問に思われる人が多いでしょうが、これは『春秋左氏伝』の君子曰く、君子謂う。君子これを持って~と言った『春秋左氏伝』内で書かれている内容にぶつ切りにあるもののことを言います。


 そもそもこの君子例の君子って誰かと考えたことはあるでしょうか?


 このことは後世の人たちも疑問を思った人たちはいたようなのですが、注釈書を読んでみると、当時の君子、所謂、立派な人がまたは人たちの言葉。もしくは『春秋左氏伝』の作者の言葉であろうとどうにもあやふやなものしかない。


 それでも後世の人たちはこの君子についてだいたい三つの仮設を立てた。


 先ずは君子とは『春秋左氏伝』の作者であるという説。


 ここで更に複雑なのは作者が誰なのかということがわからないということである。作者の候補としては左丘明、劉歆、もしくはそれ以外の第三者というものである。


 この説に関しては後で述べる。


 次に君子とは当時の人たちだという注釈書のものに従ったものである。さて、この説に関して私は先秦文献を中心に調べてみた。つまり書物の中に君子例に含まれている言葉が見つかるかどうかを見るためである。


 これがもし先秦文献の中にあるのを見つけることができれば、二つのことがわかる可能性が出てくる。一つ、『春秋左氏伝』の成立時期を絞ることが出来る点、二つ目は君子の言葉というものが一種のことわざ的なものであったという可能性。つまり当時の人々、もしくは『春秋左氏伝』の出来た時にあった誰かの言葉を引用したのではないかということである。その誰というのがわかることで『春秋左氏伝』の君子像などを理解することができると考えたのである。


 さて、調べた結果……一つしか見つからなかった。


 因みに君子例は84~89個ある。数に幅があるのは、84個は自力で調べて見つけたものですが後の四、五個は他の文献(先秦文献ではない)で指摘されたもので、数に入れるべきか迷うものだったためです。


 で、その一つは韓非子に書かれていました。ただここに書かれていた文字と『春秋左氏伝』で乗っている文字は一字違っています。ただ文字の意味や内容は同じものです。


 このことから韓非子よりも前に書かれたのではないかということは考えられるがどうにもこれ一つではわからない。そもそも誰の言葉という答えにもなっていない。


 最後に三つ目の孔子の言葉であるという説。この三つ目ははっきりとした反論ができる。『春秋左氏伝』に仲尼曰くと言った言葉が25個別個にあることである。つまり君子例の言葉を孔子の言葉だとすると何故、かき分ける必要があるのかという疑問が残るわけだ。


 因みに孔子の言葉を別に分けて、聖語例と言われている。


 そこで一つ目の作者の言葉というものに戻る。


 作者の言葉として考えてみると何故、君子という表現で書くのかということである。


 君子とは儒教論理で言えば、立派な人という意味である。つまり自分のことを立派な人と称して述べているのではないかという作者ナルシスト疑惑が生まれるのである。


 だが、実はこの君子曰くという表現だが、古代の史官の記録を残す上での用法ではないかという説がある。この書物が書かれる前では王曰く、王若曰くなどと言った表現が用いられており、史官の表現としての扱いだと考えれば、この君子という言葉が決してナルシスト的な感じで使われているわけではないということになる。


 さて、これが史官の表現の仕方の一つとして結局はこの『春秋左氏伝』の作者が誰なのかということは相変わらず、わからない。


 そのため結論としては君子例は作者の言葉であろうが、作者自身が誰なのかということはわからないということである。


 このように『春秋左氏伝』とは謎に包まれた書物なのです。



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