趙氏孤児
以前、趙盾が生きていた頃、夢に叔帯(趙氏の先祖)が現れたことがあった。
叔帯は腰に手をあてて慟哭し、その後、笑いだして手を敲きながら歌を歌った。
目が覚めてから趙盾が夢を卜わせると、亀甲が途中で割れてから再びひとつになった。この不思議なことを趙史(趙氏の史官)・援に尋ねると彼は答えた。
「この夢はとても悪い夢ですが、あなたの身ではなく、子の身に不幸が訪れます。しかし原因はあなたにあります。孫の代になって、趙氏はますます衰えることになりましょう」
「ふう、ここも暑くなってきたものだ」
空を見上げ、男は額の汗を拭った。男の名は程嬰という。
「急がねばならんな」
彼は趙朔の屋敷に向かっていた。趙朔とは友人である。
(あれは……)
程嬰は屋敷に近づくと丁度同じ時に着いた男を見て、顔を歪めた。
「程嬰殿ではありませぬか」
にこやかな顔を彼に向けながら男は近づいてきた。
「公孫杵臼殿……」
程嬰は公孫杵臼が苦手であった。公孫杵臼は趙朔の屋敷に厄介になっている客である。
「丁度、祝いの者を買いに参っておりましてな」
どうにもこの男は馴れ馴れしいところがあり、それが程嬰が彼を苦手とする理由であった。
「さあ入ろうではないか」
「ああ」
二人が屋敷に入ると趙朔が向かいれた。
「良く来てくれたな程嬰殿」
「お邪魔しますぞ」
「趙朔殿、酒を持ってきたぞ」
「おお、飲みましょう」
彼らが集まったのは趙朔の子が生まれようとしていたためである。以前から子が趙朔の妻である荘姫に宿ったことは知っていたのだが、最近の忙しさで祝うことができなかっため、今集まったのだ。
「おめでとうございます」
「感謝します」
「私からも感謝しますわ」
趙朔が程嬰に酌をする傍らで荘姫もお礼を言う。
「男子でしょうか。女子でしょうか。どちらにしても楽しみですな」
四人は大いに笑った。
その頃、ある屋敷に男たちが集まっていた。
「おやおや兄上方ではございませぬか」
趙嬰斉が趙同、趙括に言った。
「お前こそ、何故ここにいるのだ?」
「そうだ。何故ここにいる」
悪感情を向けながら二人は趙嬰斉に言った。
「いやはや兄上方、少し考えればわかりましょう。ここに私たちを集めた者がいるということを……」
「良くぞ参りました」
そこに男が入ってきた。
「皆様方、さあさあお座りください」
男は座るように彼らに言う。
「早く申せ屠岸賈殿」
「では……」
屠岸賈はにやりと笑いながら言った。
「趙朔を殺しませんか?」
悪意という名の牙がむきだし始めた。
「趙朔を殺すだと……何世迷言をもうしておるか」
趙括が怒鳴ると趙同と趙嬰斉が同意するように頷く。
「では、悔しくは無いと申せられるのかな」
屠岸賈はにやにやと笑みを浮かべながら問いかける。
「よくよくお考え下さい。本来、趙括殿が趙氏の棟梁というべきお方のはずです」
彼の言うとおり、以前、趙盾が引退する時に趙氏の当主に選んだのは趙括であった。
「しかしながら実際のところ、卿に任命されたのは趙朔であって、趙括殿ではない。ましてや趙同殿でも趙嬰斉殿でもない」
彼の言葉に対し、しかめっ面を向けながらも彼らは無言であった。実際にそうであるし、不満を持っているのも事実だからである。
「また、人望という点においても貴方方よりも持ち合わしている」
「だからなんだというのだ」
苛々し始めた趙同が叫んだ。
「だから申しているではありませんか。悔しくはないのかと……本来いるべきはずは自分であるはずだと思っているはずです。何故ならば、本来貴方方の方が高貴なお方なのですから」
そう屠岸賈の言うとおり、趙同、趙括、趙嬰斉は趙盾の弟であるが、異母弟であり、母が違うのだ。そして彼らの母は晋の文公の娘である。血の尊貴さで言えば、趙盾の母より上と言える。
では、何故趙盾が趙氏を率いていたかと言えば、彼らの母が身を引いたからである。しかしながらそのような慎ましさは彼らには無い。
「血においての尊貴さも今まで積み上げた実績も趙朔を超えておりまする。それなのにあの者ばかりが持て囃され、自分たちは阻害されている。これで悔しく無いと申せば嘘となりませぬか」
「悔しくないはずないだろう」
趙括が声を荒げる。
「私こそが趙氏の当主なのだ。あのような若造が何故、卿となり、その下に我々がいなければならないのだ」
それを聞いて、屠岸賈は笑みを深める。
「そうです。その通りでございます」
「だが、あの者は信望があるぞ」
そう言ったのは趙嬰斉である。
「左様ですな。しかしながらあの者には汚点がある」
「汚点?」
「趙盾の子であることです」
趙盾は晋の霊公を殺した(実際、殺したのは趙穿だが、趙盾が罰しなかったため人々はそう罵っている)という罪がある。
しかし、それを聞き、三人は眉を潜める、それを言えば、自分たちは趙盾の弟である。
「貴方方は弟ではありますが、母が違うではありませぬか。本来嫡子となるのは貴方方の誰かだったかもしれない」
その言葉に三人は無言になる。心の底ではそう思っているからだ。
「されどあのような汚名を被されて、悔しくはないのですかな?」
屠岸賈は言う。
「全て趙朔に被してしまえばよろしい」
「どのように?」
趙括が問いかける。同意したということである。
「先ずはこうするのです」
四人は密かに話し合った。
「何故、呼ばれたか。お前たちは知っているか?」
「いや、知らんぞ」
「私もだ。屠岸賈殿が集まれと言っていたとは聞いたがな」
諸大夫らは互いに話していると屠岸賈が現れた。
「諸君、良く来てくれた」
彼は皆に伝わるよう大きな声で言った。
「此度、集まってもらったのは、趙氏が謀反を起こそうとしているため、これを討伐するために集まってもらった」
屠岸賈の言葉に周り諸大夫らは動揺する。
「趙氏が謀反を起こすとはそのようなことありえませぬ。趙氏は代々国のために働いた一族です。そのようなことはありませんぞ」
そう言ったのは韓厥である。彼は趙盾に恩義を受けたことがあり、趙氏と親交があった。
「されど趙盾は(晋の霊公暗殺を)知らなかったとはいえ、逆族の首であるはずです。臣下の身でありながらも君を弑し、その子孫は朝廷にいて懲罪されない。これは大きな誤りではございませんか。趙氏を誅殺するべきである」
屠岸賈は声を張り上げて言った。韓厥は反論した。
「霊公が賊に遭った際、趙盾は外におりました。そのため先君(晋の成公)は趙盾を無罪と判断して誅殺しなかったのだ。今、諸君はその後代を誅殺しようとしているが、これは先君の意ではなく、妄誅(妄りに誅殺すること)というものであるぞ。妄誅とは乱である。乱を起こすつもりか」
「乱を起こすとは心外であるぞ。乱を起こそうとしているのは、趙氏の方である」
「そうだ。その通りだ」
「趙氏誅伐すべし」
屠岸賈の言葉に同意する声が上がる。もちろん彼らは屠岸賈によって用意された連中である。されどこの声は伝染していく。
(くっこのままでは)
韓厥は言った。
「臣下の大事がありながら国君に報告しないのは、無君(主君を無視すること)というものではないか」
そうこれは正式な提案ではないのだ。臣下の誅滅を行うのに、主公を無視するのは如何なものであるか。
「韓厥殿の言うとおりだ」
「趙氏が謀反を図っているかどうかはともかく国君の意思をお聞きになるべきだ」
韓厥に同意する声が上がる。
「もちろん国君のご意志もお伺うではないか」
そう言うと屠岸賈は解散を告げ、晋の景公の元へ向かった。
「今のうちに……」
韓厥は駆け出した。それを屠岸賈は横目で見ながら、ほくそ笑んだ。既に策は進行しているのである。
韓厥は趙朔の元は急いで向かった。そして、屋敷に着くと屋敷の人間が止めようとするのを振り払い、趙朔に会った。
「早くお逃げなさいませ」
彼は趙朔に速く逃げるように進めたが、趙朔は首を振った。
「子が趙氏の祭祀を途絶えさせなければ、朔(私)は死んでも後悔しません」
「趙朔殿……」
彼の言葉は冗談の部分が大きい、韓厥はなお説得しようとしたその時、火が上がった。
「なんだ」
「これは……」
(まさか、いや早すぎるぞ)
二人が動揺している時には既に屋敷は包囲されていた。
少し、時を戻す。
趙朔の屋敷に近づく一団があった。
「もうすぐ、趙朔の屋敷に着きますぞ」
「このまま屋敷に乗り込めば良いのだな」
趙括が趙同と趙嬰斉に尋ねる。
「左様、このまま乗り込み、趙朔の首を取る。もうすぐ屠岸賈が主公の命令書をもって来る。我らの動きは大義を得る」
「では兄上方、さっさと仕事をしてしまいましょう」
趙嬰斉がそう言うと趙括は頷く。
「うむ、兵よ。剣を取れ、狙うは逆賊趙朔である」
兵が一斉に趙朔の屋敷に乗り込んだ。それを見ているものがいた。
「報告します。趙朔の屋敷に入り込みました」
「うむ、見たか諸君、剣を持って彼らは趙朔の屋敷に入り込んだ。その理由は謀反を起こすためである。主公の名のもとに誅伐すべし」
「応」
と諸大夫ら声を上げ、彼らは剣をもって乗り込み、その後、火が上がった。
「火だとどういうことだ」
屋敷に入った趙括、趙同、趙嬰斉の三人と兵らが驚いていると、そこに兵が雪崩込んだ。
「どういうことだ。何故、公宮の兵がここにいるのだ」
「まさか……謀ったか屠岸賈」
そう彼らが思った時には既に遅く、兵たちが斬りかかってきた。
「くそ、おのれ屠岸賈。許さんぞ」
趙括が叫んだ瞬間、斬られた。
「趙朔殿、さあお逃げを」
火が周りを包もうとしている中、韓厥は趙朔を逃がそうと奮闘していた。
「まだ、妻が」
「それよりも早くお逃げになるべきです」
火の回りが早く、もはや、焼け死んでいると韓厥は思っている。
「それでも……」
その時であった。
「覚悟っ」
兵が趙朔の後ろから現れ、彼に斬りかかった。そしてそのまま趙朔の背中を切り裂いた。
「趙朔殿、おのれぇ」
韓厥は兵を一刀をもって切り殺した。そして、倒れこむ趙朔に駆け寄る。
「韓厥殿、私はこれまでです。どうか……どうか妻を……妻の腹には子がおります。だからどうか……」
そう言って息を引き取った。
「くっ趙朔殿……」
涙を流している余裕はない。急いでここから脱出しなければ、今度は自分が死んでしまう。
「奥方様は……」
しかし、最後に託された荘姫を探し出さねばならない。
「どこだ」
韓厥が口を押さえながら探しつつ出口に向かっているとその途中で倒れている女性がいた。
「まさか……」
彼は女性を助け起こすとその顔に見覚えがあった。荘姫である。
「奥方様、まだ息はある」
彼は彼女を抱き抱え、屋敷から脱出した。そしてそのまま公宮に向かった。
趙朔の妻・荘姫は成公の姉である。つまり景公にとっては叔母に当たるのだ。叔母を殺そうとは思っていないはずなのである。
そういう希望をもって彼は公宮に駆け込んだ。そして、彼の思ってた通り、景公とて叔母を殺したくはない。彼女を保護するように命じた。
趙朔の妻が公宮に逃れることができたことは屠岸賈も知った。
「くそ、まあ良い。もし子が息子であれば、殺せば良い」
彼はそう呟いた。その後、諸大夫らによって趙氏は族滅させられた。
翌日、公孫杵臼の襟元を程嬰が掴みかかっていた。
「貴様は朔殿の客であったろう。何故、昨日いなかったのだ」
「その朔殿に頼まれて、出かけていたのだ。私とて、屋敷にいれば……」
「くそ」
程嬰とてわかっているのだ。どうしようにもない状況であったことは、それでもこの怒りは収まらないのだ。
「あなたはなぜ(友と一緒に)死なないのですか」
公孫杵臼はそういった。
(こいつ……)
思わず彼を睨むが、深呼吸して自分を落ち着かせると程嬰は答えた。
「朔殿の婦人には遺腹(遺児)がいる。もし幸いにも子が男ならば、私が養おうと考えている。もし女なら、後を追って死ぬだろう」
彼としては趙氏を復興させることを考えていた。
「そうか……だが、お前に育てれると騙されやすい男になりそうだ」
「なんだと」
再び睨みつける程嬰に公孫杵臼は少し苦笑して、真面目な顔に戻して、言った。
「もし、子が男であった時、念のための策がある。子が男だったとき、その策を聞いて欲しい」」
「ふん、どんな策かは知らんが、くだらないものであれば、ぶん殴るぞ」
そう言って二人は別れた。
暫くして荘姫は男児を産んだ。
「子は男か……」
それを知った屠岸賈は宮中を捜索し始めた。
「夫だけでなく、子まで殺すつもりなのね」
荘姫は赤子を絝の中に入れ、こう祈った。
「趙宗(趙氏の宗族)を滅ぼすのであれば、あなたは大声で泣きなさい。もし滅ぼすことを望んでいないのであれば、声を出してはなりません」
屠岸賈の士卒が宮中を捜索する間、赤子は声を発することなかった。何とか危機を脱したのであった。
されどそれがいつまでも続くとは限らない。
「子は男で、屠岸賈は今尚、殺そうとしている。何とかせねばならない」
程嬰が公孫杵臼に言った。
「左様、今回、赤子を得ることができなければ、後日また捜索するはずだ。汝の策とやらを聞かせよ」
公孫杵臼がふとこう言った。
「孤児を擁立することと、死ぬことでは、どちらが困難だろうかな?」
何を言っているのだこやつはという目を向けながら程嬰が答えた。
「死は易し、孤児を立てることは難しいのではないか」
公孫杵臼が笑みを浮かべ言った。
「先君は子を厚く遇してこられた。子は難しいことに尽力してくれ。私は易しいことを選んで、死なせてもらう」
「何を言っている」
程嬰は彼の言葉に動揺する中、公孫杵臼は続けて言う。
「私の策はこうだ」
彼は己の策を話した。
「ならん、ならんぞ。そのような策など」
「相手は一夜で趙氏を滅ぼした男だ。これほどのことをせねば、負ける」
公孫杵臼は程嬰の肩を掴む。
「二人で趙氏を再興するのだ。良いな」
程嬰は涙を流す。
「私は……汝のことを侮っていた」
涙を拭い、公孫杵臼の目を見る。
「わかった。やろうではないか」
二人は策を実行した。
二人は先ず、他家から嬰児を得ると、装飾された布団で嬰兒を包み、山中にこもった。
暫くして程嬰が下山し、諸大夫に言った。
「私は不肖なため、趙氏の孤児を立てることができない。誰でも良い、私に千金をくれるのであれば、趙氏の孤児が隠れている場所を教えようではないか」
諸大夫は喜んで千金を与えることを約束した。
「では、こちらへ」
程嬰は諸大夫を先導して山を登り、公孫杵臼を攻めさせた。
公孫杵臼が程嬰に叫んだ。
「程嬰の小人め、かつて先君と共に死ぬことができず、私と共に趙氏の孤児を隠したにも関わらず、今になって私を売るというのか。趙氏を立てることができないにしても孤児を売る必要があるのか」
公孫杵臼は嬰児を抱いて叫んだ。
「天よ。趙氏の孤児に何の罪があるというのでしょうか。この子を活かして、杵臼一人を殺してくれ」
されど諸大夫は同意せず、公孫杵臼と嬰児を殺した。
「ほれ、千金である」
諸大夫は程嬰は千金を渡した。内心、彼を侮蔑しながら……諸大夫は趙氏の孤児を殺したと思い、喜んで引き上げた。
「孤児が殺された……」
韓厥は手で顔を覆い泣いた。
「主よ。程嬰と名乗る男が参られています」
家臣がそういった。
「程嬰だと、追い返せ」
韓厥は孤児を殺された経緯を知っている。
「それが、どうしても会わせよと……」
苛々し始めた韓厥は立ち上がると玄関に向かい、そこで跪いている程嬰に怒鳴った。
「先君を守れず、更には友と先君の孤児を売った恩知らずめが、何のようだ」
そこまで叫んだ後、ふと彼の両手に抱えれている赤子を見た。
「その赤子は……」
「友が守り抜いた孤児でございます」
程嬰の言葉に韓厥は驚き、急いで屋敷に入ってもらった。
「まさかこの赤子は趙朔殿の孤児なのか?」
「左様でございます」
「ああ、なんということか。すまなかった。あなたほどの男を恩知らずと罵ってしまった。どうか許して欲しい」
「良いのです」
程嬰は頭を下げる韓厥に言う。
「私は先君を守れず、友を死に追いやってしまった。愚かな男です」
「そのようなことはない。貴方方ほどの男がどこにいようか」
二人は大いに泣いた。
「これからどうなさる?」
「山中に身を隠します。友の死によって、孤児の存在を隠せるでしょう」
「そうか。わかった。私は必ずや趙氏再興のための機会を見つける。どうかそれまでは……」
「承知しました」
こうして趙氏の本当の孤児は程嬰に守られて、山中で成長することになった。この孤児を趙武という。
それから十五年が経った。この頃、晋の景公は病に侵されていた。そのため卜をさせると、
「大業(秦・趙の祖先。大費の父。一説では大業と皋陶は同一人物)の子孫で跡を継げない者が祟っている」
と出た。
どういう意味かと景公が韓厥に意見を求めると、韓厥は趙氏の孤児のことだと思い、こう答えた。
「大業の子孫の内、晋で祀が絶えたのは、趙氏ではないでしょうか。中衍より後の者は皆、嬴姓を名乗っております。中衍は人面鳥嘴(人の顔で鳥の口)で、殷帝・大戊を補佐した人物ですが、その子孫も周の天子に仕えて、皆、明徳がありました。されど厲王・幽王が無道だったため、叔帯が周を去って晋に遷り、先君の文侯に仕えたのです。それから成公に至るまで、代々功を立てて、祀を絶やしませんでした。されど今、我が君が趙宗を滅ぼしたため、国人は趙氏に同情しています。だから亀策(卜)に兆しが表れたのでしょう。主公はよく考えるべきです」
景公が問うた。
「趙氏にはまだ子孫がいるのか?」
そこで韓厥が真相を語った。
「なんとそういうことが……趙氏は再興しなければならない」
景公は韓厥と共に趙氏の孤児・趙武を擁立する方法を図った。
「爺、見ておくれ、あれほど遠くまで矢が飛んだんだ」
趙武が程嬰に弓を見せながら言った。
「お見事ですぞ。若様」
するとそこに男が近づいた。
「程嬰様と趙武様ですね。私は韓厥様の手の者です。機は熟したそうです」
「そうか……若様、遂にこの時が来ましたぞ」
程嬰は招きに応じ、趙武と共に公宮の中に入った。
諸大夫が景公の見舞いに来た時、景公は韓厥が率いている多数の従者を使って諸大夫を威圧し、趙武に会わせた。
「この者は趙氏の孤児である。かつて汝らは罪なき、趙氏を滅ぼさんとした。されど実行者の名を明らかにし、彼のために戦うのであれば許そうではないか」
諸将はやむなく答えた。
「あれは屠岸賈が策動し、君命を偽って群臣に命じたものです。そうでなければ誰が難を成すでしょうか。主君が病に侵されなければ、群臣は本来、趙氏の後を立てることを請願するつもりでありました。今、このような君命を下されたのは、群臣の願いと同じというものです」
景公は趙武と程嬰を召すと諸将を拝させ、諸大夫らと共に程嬰、趙武に屠岸賈を攻め、その一族を滅ぼさせた。
こうして趙武が趙氏を継ぎ、以前の田邑が返されたのであった。
やがて趙武が冠礼を行い成人になった。
「真にご立派になられました」
程嬰は趙武が成人したことを褒め称えるとこう切り出した。
「先君と共に皆、死ぬことができましたが、私が死ななかったのは趙氏の後を立てるためでございました。今、若様が既に立って成人になり、その位も回復できたため、私は地下の先君と公孫杵臼に報告しようと思います」
つまり死なせて欲しいという意味である。それを察した趙武が泣きながら頓首して言った。
「私は自分の筋骨を苦しめてでも死ぬまで子に報いたいと思っておるのです。それなのに、子は私から去って死のうというのですか」
程嬰が笑みを浮かべながら言った。
「彼(公孫杵臼)は私なら事を成せると信じた故に先に死んだのです。今、私が死んで報告しなければ、その成功を知ることができないのです」
こうして程嬰は自殺した。
趙武は彼のために三年間の喪に服し、程嬰の祭邑(祭祀を行う邑)を設け、子孫代々、春秋の祭祀を行わせることにしたという。