一方、項羽軍は
意気揚々と、彭城を出立した項羽軍であったが、予想に反してその進みは遅かった。
原因は明らかである。
函谷関を目指し、途中にある街々を平定しながら進むのだが、抵抗が段々と激しくなり足止めをされることが増えたのだ。
項羽軍は戦えば必ず勝ち、街を落とし連戦連勝爆進している。
しかし、一旦敵として対峙したならば決して、和睦や降伏を許さず徹底的に奪い、女を犯し、一方的に女子供までも殺した。
兵士はもちろんのこと、非戦闘民まで処刑するので、住民はどうせ助からない命ならば、と必死の抵抗をするのである。
その為にどんどん行軍の速度が遅れている。
韓信自身は強奪から一歩引きながら、このままでは関中入りするのは沛公に遅れを取るだろうと考えていた。
他にも気になる点はある。
総大将の項羽があまりにも強いので、配下の武将も武に比重を置きすぎており、後方支援つまり兵站、兵糧をおろそかにしていた。
そもそも、兵糧を持って歩くより都度襲撃、収奪、現地調達すればよいではないか、というのが当時の一般的な考え方でもあったのだが、それでも最低限は持って移動する。
項羽軍は大軍なので、相当の数の兵糧が必要であった、が内情は常に不足していた。
これは通過する街々での補給を完全に当てにしているからであった。
では、食料を買うのか?といえばそんなお上品なことはしない。
脅して出させるか、殺して奪うかである。
街の住民からすればたまったものではない。
項羽軍はいまや秦と同等、それ以上の恐怖の対象となりつつあった。
韓信はそのこともまずいと感じていた。
兵を半数割いても兵站を担当する専門の部隊を作るべきであり、兵糧の維持に最大限の労力を払うべきなのだ、というのが韓信の考え方で、兵士の食料の心配がなくなって初めて戦闘に集中できるというのが持論だ。
もちろん、先の戦いで項羽が採った背水の陣などは奇策の類であるので、参考にはならない。
(進言をするならば今ではないか?)
韓信は何回も書き直し、その度編み直した竹簡を持って直接項羽と話ができる機会をうかがった。
「おそれながら申し上げます!」
そして周りに人がおらず、項羽と自分だけになった時に声をかけるのだった。
短くて申し訳ないです。後日修正、追加すると思います。




