韓信の股くぐり
韓信は侮られる事が多かった。
自分でもわかってはいたが、その評判を良くしようなどは考えなかった。
悔しいか、悔しくないかで言えばもちろん悔しくないわけではなかったが、どちらかと言えば好きなだけ言わせておけ、というような心境だった。
「今に」見ていろという気持ちと、だが「今は」しょうがないという気持ちが混ざっていた。
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韓信は今、近くの街に来ていた。
たまには韓信も街に出る。
ふところには何もないが愛用の長剣だけ腰に差し街を歩く。
交友関係とまではいかないが、知り合い程度と呼べる人たちが街にはいる。
たいてい友好的ではないのだが。
今日も道の前方に見知った少年の集団がいた。
あれは確かごろつきの集まりだったか?
その中の一人が韓信と目が合い、にやりと顔をゆがめた。
韓信は少し警戒する。
「おい韓信!
お前はいつもその剣を大事そうに腰に下げているが一体何のために下げているんだ?
どうせ臆病者のお前は人を斬った事などないのだろう!
お前が持っていても剣がかわいそうだ。勇気があるならその剣で俺を刺してみろ!
それが出来ないなら、
俺の股の下をくぐるんだな!」
少年たち、いやガキ共はそんな事を言い放ち韓信を取り囲んできた。
韓信はこれはどうしたものか、と考えた。
いつもいつも馬鹿にはされてはいるのだが、今日のはいくらなんでもひどい。
自分より十程の年下のガキを斬るか、股をくぐれだって??
ない!ない!どちらもありえない!!
すると騒ぎを聞いてか野次馬が群がってきた。
さらに状況的にまずくなってきた。
目の前のガキと二人きりならば他にもやりようがあるだろうが、こんなに見てる人が増えてくると無視してここより去ることも出来ない。
内心、どうしたものかと考えていると、ガキ共が調子に乗って増長してくる。
「どーした?やはり腰抜けか??ほらほら!斬ってみろよ!抜いてみろよ!!」
このガキ……言わせておけば……
スチャッと腰に差してある剣の柄を握る。
その瞬間、ガキが一瞬怯えた顔になる。
韓信はガキの怯えたような顔を見てすーっと頭から血が下がった気がした。
(なんだ…ビビるんならけしかけてくんじゃねーよ…)
よく他人が激高しているのを見ると自分は冷静になる事があるが、この時の韓信もその感覚だった。
剣の柄をしっかり握り、腰から一気に抜いた。
ただし鞘ごと。
えっ!とした顔になるガキ達。
リーダーのガキと韓信のちょうど間合いギリギリまで韓信は前に出ると、おもむろにしゃがんだ。
ざわっとしていた周りが一瞬でシン……となる。
(あ、今この瞬間に空気が変わったな)
そんな事を冷静に韓信は感じながら、少年の股より低く四つんばいになりそのままくぐった。
誰もみんな一言もしゃべらない。
くぐり終えると韓信はひざの汚れを払い、剣を腰に差しその場を後にした。
韓信の背後から堰を切ったようなみんなの笑い声と馬鹿にした声が聞こえてきた。
だがそんな事は気にならない。
下手に乱闘などなった方が面倒だ。
(俺がやりたいのは剣や戟を振り回して敵を倒していく事ではない。
知略を駆使して戦果を上げていく事こそ、俺の道だ)
歩みを止めることなくそのまま去っていく韓信だった。
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この時期の韓信の交友関係は寂しい。
韓信自身積極的に人脈を広げよう、とかそんな発想は全くなかった。
そもそもやっていることが昼寝か魚釣りの真似だからしょうがない。
だが一人だけ友人と呼べる存在がいる。
鐘離眜。
韓信の同郷出身だといってもいいだろう。
韓信が日ごろ考えていることや、先の未来への見通しなどは普段誰にも語る事はなかった。
その話題について話せるだけの学を持っている人物が周りにいなかったというのもあるし、そもそも韓信を相手にしてくれる人がいなかった。
そんな中でも鐘離眜だけは話せる男であったし、韓信の事を認めていた。
鐘離眜自身も立身出世を果たす、という野望を持っているため韓信と目的を同じくする同志のようなものだったのだろう。
韓信と違い鐘離眜は武具の扱いに自信があったので剣か槍で身を立てようと考えていた。
二人はしょっちゅう会っていたわけではなかったが(鐘離眜はきちんと仕事をしていた為)
韓信は鐘離眜にごちそうになったり、金を借りたりとどちらかというと一方的に頼っている関係だったが鐘離眜はそれでも韓信をぞんざいに扱う事はなかった。
鐘離眜が酒と椀を手に淮水の土手にやってきた。
二人はこうしてたまに酒を酌み交わすのだ。
話題は自分達の幼少の頃から今の生活の事、剣や武将の話、秦や皇帝、政治、戦、兵法そして決まって最後は自分達の輝かしい未来の栄達の話をする。
そういえば、と前置きして鐘離眜が言った。
「韓信、君は街のガキの股下をくぐったそうじゃないか!」
「よく知ってるな!」
それにしても耳が早い。今日の、さっきの出来事ではないか。
鐘離眜はそれには答えず
「韓信、お前に誇りというものはないのか!?
その剣で斬り捨ててやればよかったものを!」
自分ならそうした、と言わんばかりに鐘離眜は憤っている。
「街で韓信の事を何と言われているか知っているか?
股夫(股くぐり)韓信だぞ!
そんな事を言われて笑われる位なら死んだほうがマシだ!!」
ああ、と韓信は自分のために怒ってくれる友の存在に感謝した。
鐘離眜の憤りが落ち着くまで韓信は静かに杯を傾けていたが、一通り怒って収まってきた頃合を見計らって言った。
「鐘離眜、俺のために怒ってくれる君の気持ちは嬉しい。
だが、斬り捨てたところで俺は恨みを買って仇き持ちになるだけだ。
それにお尋ね者になって将来大将になれないのは困る。
俺は確かにあの時は恥ずかしかったし、男として情けなかったのかもしれん。
だが、股をくぐる事によってあの場を切り抜ける事ができた。
その身に大望を抱くものは今の恥などは笑って飲み干してやるのだ。」
韓信はその言葉通りにぐいっと酒を飲み干す。
鐘離眜は内心、理屈はわかるが、やはり感情が納得出来ない。
どう説得しようか考えていたが、韓信がこの話は終わりとばかりに杯を突き出す。
鐘離眜は苦笑いと共に韓信に酒をついでやった。
(まぁ市井の者の評価を気にしないのはいつもの事か。)
今回の出来事が今後の韓信の評判の足を引っ張らなければよいのだが…
戦によって身を立てようとするならば、臆病者と後ろ指を差されるのは兵だろうと将だろうとまずい気がするが。
淮水の流れを見ながら鐘離眜はゆっくりと酒を飲み干した。
※市井の者……世間一般ぐらいに思っていただければ。
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