猛将黥布
総大将の宋義を自ら暗殺した項羽は、兵権を事実上握るとすぐさま斉に向かった宋義の息子を始末し、事の顛末を彭城にいる懐王へと伝えた。
その上で項羽が総大将、大将軍になる事の許可を求め、懐王はこれを止む無しとして認めるのだった。
そして項羽は現在趙への救援を急ぐ途上である。
楚は鋸鹿より見て南方にあり黄河を渡る必要がある。
項羽は黄河を渡る直前に黥布を呼んだ。
「項羽将軍お呼びですか?」
「おう、黥布には先鋒として二万を授ける。
黄河を渡り秦陣営を引っ掻き回して来い。
その間に本隊が渡河を終え、合流じゃ!」
どうしても河を渡っている間は不利になる、その為の策だった。
黥布はニヤリと笑い
「承知。この黥布の武を存分にご覧あれ」
そう言って項羽の天幕を出て行く。
黥布は配下の将達に
「急いで近隣の村や民家を回り船と漕ぎ手を集めろ!
最低千隻だ!足らない分は作る事になるからすぐ報を寄こせ!」
と指示を出す。
黥布という名前はあだ名である。
顔に入れ墨(黥)が入っているので本名の『英布』をもじって『黥布』と誰かが呼び始めた所、本人も気に入りそのまま黥布と名乗った。
一種の宣伝の役目もあったのだろう。
身体も大きく雰囲気は武将というより山賊そのものであったが部下の面倒見は良く、慕われていた。
根っからの親分肌だったようだ。
若い頃人相見に
「お前は罪人になるだろう。だが王にもなるだろう」
と言われた。
「いくらなんでも罪人が王になれるわけがないだろう」
と相手にしなかったのだが後に罪を犯し、顔に入れ墨を入れられると決まった時に
「俺は昔占いで罪人になるがその後王になる、と言ってもらったことがある。
今日罪人になる事が決まったからには俺は王にもなれるのだな!」と大層喜んだそうだ。
さて、出陣が決まった黥布の陣は慌しく動き出す。
半日ほどで船が集まりだした黥布軍は順次渡河を始める。
しかしその行動はすぐに敵軍である秦に知られる事となり、章邯は副将司馬欣と董翳に迎撃を命じる。
大河はその大きさから海にも例えられる。
内陸部で生活をしており、海を知らない者は黄河以上の水量を知らないだろう。
だが、実は楚軍は船に慣れているのである。
それは黄河と並ぶもう一つの大河、長江があるからである。
そして船や操船術が発達しているのは長江の方だ。
三国志で中原を制した曹操が赤壁にて水軍に強い呉に大敗北したのは有名な話であろう。
黥布軍は船で隊列を組み、順序良く漕ぎ進めて行く。
が、向こう岸が近くなったところで黥布は異変を認めた。
(伏兵か……)
姿は見せずとも明らかに兵が隠れている気配が伝わってくる。
「直ぐに船同士の幅を広げろ!散れ!!
矢が来るぞ!盾用意!」
黥布は的確な指示を飛ばす。
命令は直ぐに周りの船に伝えられる。
岸からの距離で矢の射程に入ったがまだ矢は飛んでこない。
(もっと引き付けてから来るか)
「俺にも盾を貸せ!!」
黥布は渡された盾を構えた時、空高く矢の雨が降って来る。
素早く盾を動かし、矢を遮っていく。
タンッ!タタンッ!タタン!!と、どんどん盾に矢が刺さるが見事に防ぎきっている。
漕ぎ手として雇われた渡し守は生きた心地がせず、それでも必死に櫂を漕いでいる。
黥布は自分に預けられた二万の兵が先鋒且つ陽動も兼ねている事は重々承知している。
何としても岸に辿り着き、本隊が渡れるように状況を整えなければならない。
なるべく弓の的を避ける為に船を散開させる。
黥布は自分の載る船を岸へ真っ先に着け血路を切り開くつもりだ。
「全員で漕げ!勢いつけて岸に突撃させろ!俺が切り込む!」
黥布の檄を聞き、周りの船も盾を構えている兵以外は全員で漕ぎ出した。
さすがに黥布の様には矢を防ぎきっていなかったが、致命傷以外の傷は歯を食いしばって堪えている。
ドーン!!という音と共に黥布が乗る船が岸に着く。
同時に黥布は馬の尻を叩き船から飛び下ろさせる。
馬はそのまま敵陣へと駆けて行く。
馬に続いて黥布はひらりと船から飛び降り盾ごと秦軍の兵士にぶちかます。
そのまま押し込んで行き、戟に持ち替えた。
「将軍をお助けしろ!!」
と、黥布の後に船が続々と岸に着く。
矢で負傷している兵士や馬はいるが被害はそこまでではないようだ。
川岸は大混乱の様相を呈してきた。
黥布は当たるに幸いとちぎっては投げ、ちぎっては投げ、暴れている。
その様子を遠巻きに見ていた司馬欣と董翳は
「あの将は誰か?」
「はっ、楚の副将黥布にございます」
「楚には項羽の他にあのような勇猛な将がいたのか……」
「弓隊はそのまま船に向かって矢を射かけよ!岸に近づけさせるな!!」
「よし!我らは黥布を止めるぞ!」
副将二人が黥布へ向かって飛び出した。
(…このままでは後続を渡す事が出来んな……)
黥布は暴れながらも周りを冷静に見ていた。
船は一回渡して終わりではなく後何往復か必要なのだが、この現場の混乱具合では兵や馬を降ろして帰っていく事すら困難なようだ。
後から来る船とぶつかったりして更に手間がかかっている。
黥布はまず弓隊の矢を止める事を決めた。
「楚の兵よ!俺に続けーー!!」
近くにいた馬にむりやり飛び乗り秦軍の前衛に守られている弓隊目がけ馬を走らせる。
「おおーー!!」
黥布を先頭に楚が一丸となって前衛に襲い掛かる。
前衛は黥布の突撃を止めようとするが簡単に破られた。
黥布はそのまま弓隊へと肉薄する。
近接戦闘になると弓は使えない。
弓隊も敵将が突っ込んでくるのを見て指揮官が叫ぶ。
「抜刀!!」
と弓を置き剣を抜いて黥布を迎え撃とうとする。
だが全く歯が立たずどんどん切り殺され、あっという間に陣形が崩れてしまった。
その隙に楚軍は船から岸辺に上がり黥布が作ってくれた機会を生かそうとする。
「くっ!!」
司馬欣と董翳は流れが敵側に傾いている事を認めながらも何とか食い止めようと馬を走らす。
「そこに見えるは敵将黥布だな!!俺は秦の将!司馬欣!!」
「同じく董翳だ!!その首もらった!!」
「ほう…?!項羽将軍に手も足も出なかった二流か。お前らでは俺の相手にならん、大将を連れて来るんだな」
「なんだと?!」
「おのれ!言わせておけば!!」
頭に血が昇った二人は一直線に黥布に飛び掛る。
「ふんっ!!」
黥布は大きく戟を振りかぶり思いっきり横になぎる。
ガツーン!!と金属同士のぶつかる音が派手に辺りに響き渡る。
「ぐっ!!」
司馬欣は今の黥布の一撃で手が痺れてしまい得物を落としそうになるが何とか踏みとどまった。
「司馬欣!!」
と董翳が司馬欣を庇う様に黥布の前に出る。
「そら、今度はお前だっ!!」
ブォンと空気を切り裂く音と共に戟が飛んでくる。
司馬欣が受けるのを見ていた董翳はまともに受けるのは不利と悟り、避けようとするも後ろに司馬欣がいる為に下がれない。
ガツっと何とか戟の軌道を逸らす事に成功する。
が、黥布はそのまま持ち手を変え、刃が付いてない石突の部分が跳ね上がり董翳は驚く。
ぎりぎり上体を反り返る事で避けたが石突が冑に引っかかってしまった。
そのまま冑は空中に飛んでいく。
董翳 は冑を無視して戟を突き入れる。
戟の刃を黥布の石突で絡め取られ戟ごと引っ張られた結果、董翳は体を前のめりに崩される。
「董翳!!」
司馬欣は董翳が斬られるすんでの所で弓をつがえ黥布に向かい矢を射掛ける。
「ふん!!」
間単に矢をかわされるもその隙を突いて司馬欣と董翳は馬を反転させ逃げていた。
「将軍!追いますか?」
雑兵が黥布に問いかけるが
「いや、放っておけ。我らの部隊は本隊をこちらの岸へ無事に渡す事だ。
ここら一帯に陣を張るぞ!!これで後続も安全に渡れるだろうよ」
戦闘の余韻に浸ることなく直ぐに陣の構築を始めた。
一方、前線を離脱した司馬欣と董翳は
「二人で掛かってたった数合しか打ち合えずに逃げる事になるとは……」
と悔しさに顔を歪め秦本陣へと駆ける。
楚軍は黥布の活躍で黄河を無傷で渡る事が出来た。
だが、黥布が身体を張って秦軍と戦っていた頃、本隊の総大将である項羽はとんでもない命令を全軍に下すのだった。




