韓信登場
やっと主役が登場(笑)
韓信の生まれは淮陰という事しかわかっていない。
育ちや家族構成は不明である。
韓信が歴史上、初めて登場するのは司馬遷の『史記』で、淮陰に生まれ、いきなり青年として物語は始まる。
また、この韓信も始皇帝の行列を見ていた。
風の噂では皇帝の暗殺騒ぎがあったらしい。
そのせいだろう、行列の兵士も警護の連中も殺気だってピリピリしてる。
韓信は愛用の長剣を背にかつぎ行列を冷静に観察していた。
(ふーん、これが天下を制した秦の兵か…確かによく鍛えられているようだ。これに勝とうとなると…。)
韓信はもし自分が兵を指揮する将であったら、という視点で行列を眺めていた。
始皇帝という男の存在は強大である。
伝説の中に出てくる何人もの賢王、徳の高い王、有名な王達にも出来ない事を成し遂げたのだ。
だが秦という国は始皇帝次第だと感じていた。
つまり、始皇帝が死んで二世皇帝の代になったら?
一気に弱体化するのではないか?
韓信はそう睨んでいた。
秦の法律は厳しい。しかも罰則が極端なのだ。すぐ死刑にしたりする。
民の不満や息苦しさは足まりに堪っている。
今は始皇帝が健在なので息を潜めているが、
(何かきっかけ次第でこれは、爆発するな…。)
聞くところによると始皇帝は不老不死を求めて方士を重用してるらしい。
が、同時に兵馬俑と後に名前がつく事になる始皇帝陵(お墓)もとんでもない労力をかけて作っている。
(死にたくないのに墓を作っているとはとんちんかんな帝だ。)
つじつまが合わない事も皇帝だからなのだろうか?
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秦の、というよりは始皇帝の大土木事業はすこぶる評判が悪い。
有名な所だと万里の長城、阿房宮、兵馬俑だろうか。
どれも万という人夫を使い何年もかけて工事をしている。
万里の長城は始皇帝が作ったわけではない。
中国の歴史において、北方の騎馬民族との抗争は切っても切れない。
騎馬民族は匈奴や蒙古、北胡、今で言うモンゴル民族のことである。
畑作や稲作が成り立つ中国に対して騎馬民族は放牧で生活していた。
馬や羊のえさとなる草を求めて部族ごと移動していくのである。
彼らは定住をしない、というよりできないのだ。(羊や馬が草を食い尽くしてしまうため)
黄河と長江という世界的にも大きな河がチベットの奥地から何千キロという距離を通り太平洋にそそぐ。
中華の、というより世界の古代文明は大きな河がなくては成り立たない。
大河が氾濫をおこし、肥沃な土壌を下流に運んでくる事で農業が成り立つメカニズムになってる。
モンゴル、特に現代の内蒙古自治区には文明を育むような大きな河川はない。
それどころか今では砂漠地帯になっている。もともと農業に向かない土地だったのだろう。
だから放牧で羊や馬を育てているのだ。
そして馬の最大の利点である機動力を使い、周りの豊かな国を略奪する。
特に文化文明度が高い中国の村や町は格好の標的だった。
一日に何十キロも移動して襲うのだ。襲撃が終わるとまたその機動力でさっと引き上げていく。
極端な長距離強襲型。
守りを固める北方の国境付近では、蒙古の騎馬隊を防ぐため砦や柵を築き、それを長く繋いでいく。
始皇帝も騎馬民族の襲撃には手を焼いていて、各国が作っていた櫓や砦、柵、城壁を全部結んでしまおうと考えた。
ちなみに現在の形の万里の長城が完成するのはずっと後、明の時代になる。
大工事の人夫として罪人も働いているが、ほとんどは全国各地からかき集められた農民や下層の人間である。
不満がないわけがない。ただ秦が恐ろしくてじっと耐えているだけなのだ。
(こりゃ、何か起こるかもしれん…。)
目の前を通り過ぎていく皇帝が乗っているであろう御車を見つめながら韓信はそう考えていた。
韓信のというより、騎馬民族の説明のようになってしまった(笑)
難しいですね(苦)
淮陰ですが、現在だと江蘇省(省都は南京、人口第一の町は上海)の一部になります。
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