韓信懐かれる
あれからすっかり桃花は韓信に懐いたようだった。
基本どこにいる時でも韓信の側にいる。
韓信自身には特に何かをしたという自覚はないのだが、桃花の方が韓信を気に入ったのだろう。
まあ、桃花は初めて出逢った時とは違い、身なりを清潔にしているので印象はまるで違っているが。
韓信は最初本気で小僧だと思っていた。
今は着ている物こそ庶民の服だが、顔と雰囲気は名前の通りに桃の花のような可愛らしい少女であった。
真っ白な肌に少し差したようにかかる血管の青がそこはかとなく色香のようなものを感じさせる。
まだまだ子供であると思っているのだが、ふとした瞬間瞬間にドキッとするような大人びた表情を見せる事もあり、韓信も気を抜くと意識を持っていかれそうになる。
韓信はよく桃花のさらさらの髪をなでた。
そう言えばこれも初めは髪がごわごわしていた。
桃花の方も猫が喉をなでられる様に目を細めて気持ち良さげにしている。
変れば変るものである。
思うと桃花はわざと汚らしい格好をしていた節がある。
家族を盗賊に殺され身寄りがない中で桃花自身も危険を感じていたのであろう。
村長すらも人攫いに攫われても守ってやれない、と言っていた。
だから少しでも自分が目立たないように、不穏な輩から目を付けられないようにと考えてあのような格好をしていたのだろう。
それは一つの知恵である。
韓信もそれに騙されていたのだから桃花の目論見としては成功であろう。
韓信は頭の回転が早い人物が好きだった、男でも女でも。
自分自身も知力で、知恵で勝負したい性質なので桃花のようなハンデを抱えながらも何とか生き抜いてやろうとする精神はとても好ましく思えた。
しばらくして、鐘離眜が商人を送り届けてから村へと戻ってきたが、韓信が桃花を連れているのを見てびっくりしたようだ。
今まで他人に興味らしい興味を持たなかった友人が少女を連れていて、しかも少女の方が韓信に懐いている雰囲気だったのだから。
盗賊を退治して自分が村に戻ってくるまでに何があったのか大いに興味をそそられる鐘離眜だった。
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鐘離眜が村に帰ってきて数日してから会稽への旅を再開した。
桃花の荷は小さな袋包みを首に結わえているだけで、家を出る者としてはかなり少ないように思えた。
桃花曰くあの村から持って出るようなものは何もない、だそうだ。
自分の家もそのままだし、そのうちに壊されるか誰かが住み着くかだろうという事だった。
意外とのんびりに見える韓信達の旅であったが、それにはもちろん理由があった。
会稽の項梁軍はまだ軍事行動をしていないのだ。
また、する予定も聞こえて来ない。
韓信と鐘離眜の見通しではしばらく急な動きはない、と判断しての旅であった。
だから安心して韓信の治療を続けていたというのもある。
ただ韓信たち以外に出発した淮陰の人達はもうすでに着いているであろう。
二人ともだからといって自分達の旅のペースを変える気はなかった。
そして韓信は残りの旅の間に一つやろうと決めていた事があった。
それは桃花が、口は利けないが耳は聴こえて言葉も理解しているので文字を教える事であった。
筆談ができれば何かの役に立つかもしれない。
この時代に限らず近代以前はどの国も識字率は低い。
文字の読み書きが出来るというのは大きなアドバンテージを得られるので、桃花のハンデを少しでも埋められればと考えての事だった。
とりあえず会稽に着くまでにできるだけの事はやろうと考えている。
教える時間は夜の見張りの時間などだ。
動物除けの焚き火の明かりを照明にして、地面に文字を書いて簡単な字から教えていった。
桃花は飲み込みが早く、すぐに名前などは書けるようになった。
日常の生活に困らないレベルまでは届かなかったが、会稽に着いてからも出来るだけ教えてあげようと韓信は考えるのだった。
その間鐘離眜は興味深く二人の様子を見ていた。
一緒に旅をする同士だが鐘離眜と桃花は特別に仲が良くなるという事はなかった。
何か用事があれば鐘離眜が口頭で桃花に伝え、桃花から用事があれば地面に文字を書いて伝える表面的なコミュニケーションだけだった。
鐘離眜はそれについて特に思う事もなく淡々としたものだ。
どちらかというと友人が少女の世話を一生懸命している姿をおもしろがって眺めている風であった。
会稽に着くころには少しであるが桃花の身体がふっくらしてきたような気がする。
とは言っても同じ年頃の少女の平均と比べるとまだまだ細くて小さいのだが。
韓信は旅の間、食事の量だけは目いっぱい食わせていた。
こうして会稽までの残りの旅は比較的平和に過ぎていくのだった。
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