侯爵令嬢、殴りこみに行く
イザクは国の元首というだけあって忙しい人だ。シエナもそれは重々理解している。それでもイザクはいつも忙しさを感じさせず、シエナと会う時間を作ってくれていた。それなのにここ二週間、音沙汰がない。
手紙の返事も寄こしてくれない。一週間前など、シエナの館で茶を飲む約束を前々からしていたというのにすっぽかされた。もちろん、それに対しての謝罪もない。
何かが変だ。いつものイザクなら、予定を反故にした際にはえらく丁寧な謝罪の文を寄こしてくるし、気を回して菓子折りだのなんだの贈ってくるというのに。
突然音信不通になったイザクに、シエナは気を揉んだ。
体調不良? 怪我? 視察? ……に行くとは聞いていない。王宮を長く空ける際は、イザクはいつもシエナへ前もって知らせてくれる。もし急きょ決まったことだとしても、筆まめなイザクなら何かしら文を送ってくるはずが、それもない。
シエナはオルゲートにそれとなくイザクの様子を聞き出そうかと思ったが、イザクに気があるのかとからかわれそうなのでやめておいた。
「お花、枯れてしまいましたね」
花瓶の花を抜きとっていたリリーナは、失言に気付いたようにハッとシエナの顔を見た。シエナは気にするなと手を振る。
いつもなら花器に活けられた花が枯れる頃合いを見計らってイザクから新しい花が届き、シエナの部屋の管理を任されているリリーナが花を入れ替えていた。だがイザクからいつも届いていた花もぱったりと止んでしまった。
最後まで食らいつくように咲いていた花も枯れ、とうとうシエナの部屋も広いばかりで味気ない景色に戻ってしまう。研究者の作業場のような部屋の中で、イザクの贈ってきてくれていた花は女性らしさを演出してくれていたというのに。
「へ、陛下はきっと今お忙しいのでしょうね。繁忙期が過ぎたらまたシエナ様を訪ねてこられますわ」
「どうかしら。陛下は私に飽きたのかもしれないわね」
シエナは読んでいた書物を閉じて言った。リリーナがフォローを入れようと口を開くのを手で制す。
リリーナの気づかいはとても有り難いが、シエナの前世から引き継いでいる心は十七歳の乙女ではないのだ。イザクが自分以外の誰かに心変わりしてもおかしくないと冷静な頭が考えている。下手な慰めは不要だと思った。
イザクはもう女を寝所へ招くことをやめたのだろうが、それでも他の貴族が娘を紹介するのを諦めたわけではないだろう。もしかしたら貴族の誰かに押し切られ、試しに会ってみた令嬢がイザクの右目を受け入れてくれる人で、気立てのよい優しい人ならば、イザクの心はシエナからその令嬢へ移っていてもおかしくはない。
シエナにとってイザクが命の恩人で特別な人に変わったように、イザクの中でシエナが特別じゃなくなっても変ではないだろう。人の心は状況次第で移ろうものなのだから。
(ただ、私が不要になったならそう言ってくれればいいのに)
そんな恨めしい想いが湧く。もちろんイザクが心変わりしたと決まったわけではないが、イザクが心変わりしたのでなければ、一体何が理由で連絡がつかないのだろう。
「怪我、とか……病気とか……?」
それならニフやロアあたりが教えてくれそうな気がする。新聞でもそんな記事はちらとも見かけなかったし、(茶の約束をした翌々日の新聞で、イザクが元気そうに政務に励む様子が記事になっていたので、シエナは拗ねてそれから新聞に目を通していない)そもそもニフとロアにもここ最近ずっと会っていない。あの二人こそシエナに妙に懐き、イザク以上の頻度で便りを寄こしてきていたというのに。
「……何なのよ」
シエナの知らないところで何かが起こっているのだろうか。何だか面白くない。シエナがイザクに会いたくない時は、イザクは平気でシエナの元を訪ねてきたのに、自分は何も知らないまま自室でイザクと連絡がつかない理由を逡巡しているだけなんて。フェアじゃない気がした。
「文句の一つでも言いに行こうかしら」
そう言えば、薬草学の本をイザクに貸したままだ。それを返してもらうのを口実に王宮を訪ねてやろうか。そこでもしイザクが女を囲っているようなら嫌味の一つも言ってやる。(もし伏せっているようなら……疑ったことを心中で懺悔し、見舞いの品でも用意しようかな。……怪我や病気じゃないといいけど)
「でも、実際に陛下が他の令嬢といたら私……」
そこまで考えて、胸の内にもやっとした黒いものが渦巻いたのでシエナは首を振った。
(もし陛下に完全に恋してしまったら、陛下の女性問題で一喜一憂するはめになるのかしら……陛下って実は正妃もいるものね……)
長生きすること以外にも関心が向くのはいいことなのかもしれないが、恋に思い乱れて苦しむ自分は想像したくもない。
「……やめやめ。リリーナ、私ちょっと温室に行って薬草収穫してくるわ」
じっとしているからあれこれ考えてしまうのだろうと決め込み、シエナは意識をイザクから遠ざけることにした。
しかしさらに一週間経っても、イザクからは何の連絡もなかった。
こうやって自然消滅していくこと、前世であったなぁと思いながら、シエナは小瓶に薬を詰める。イザクの右目用の薬だ。毎日欠かさず塗っているならそろそろ前に渡した分が底をつく頃だろうと思い、シエナはまた作ってみたのだが、果たしてこれは必要になるのだろうか?
返信がこないのに一方的に文を送るのもよくないだろうと思いつつも、イザクが音信不通になってからシエナは一度だけ手紙を送った。薬の減り具合はどうかとか、息災かというたわいのないものだったのだが、やはり返事はこなかった。
これはもう、飽きられたと見るのが妥当ではなかろうか?
「そもそも私と陛下って付き合ってすらないのよね」
瓶に蓋をしながらシエナが呟く。
もしイザクに別の想い人が出来たなら、彼にとってそれはそれで良いことなのかもしれない。異性からの愛に恵まれてこなかった彼には、愛されてほしいとシエナは思うから。
イザクは自分のことで精一杯のシエナを好きだと言ってくれたが、やはりシエナより愛情を注いでくれる女性が他にいるなら、その女性と共にいた方がイザクにとっては良いに決まっている。
「そうよ……私、陛下には幸せになってほしいもの。もし陛下が心変わりしたなら、それはそれで別にいいのよ……」
口をへの字に曲げて、シエナは一人ごちる。ただ、もしそうなら、シエナに報告してほしいのだ。そうでなければシエナの心の切り替えがつかない。自分だけがこのままイザクのことを好きになってしまったら、一人相撲ではないか。
こんな暗いことばかり考えてしまうのは、ニフとロアからの音沙汰がないせいもあるだろうとシエナは思った。
王のことを第一に考えているニフとロアがシエナを慕っている理由は、イザクの想い人だからというのが大きい。つまりその二人がシエナの前に姿を現さなくなったという事実が、イザクの興味がシエナから消え、双子がシエナを構う理由がなくなったと匂わせているのだ。
「……リリーナ。リリーナ!」
考え出したらたまらなくなって、シエナは声を張り上げた。
「いる? 出かけるわ、車の準備をさせて」
どこからかひょっこりと顔を出したリリーナは、面食らった様子で「どちらへ?」と聞いた。
「王宮よ。陛下へ薬を渡しにいくの」
「えっ。約束も取り付けていないのにですか?」
おろおろしながら言ったリリーナへ、シエナは水の精霊さながらの笑みを浮かべて言う。
「いやねリリーナ。殴り込みにいくのに約束なんて必要?」
「…………シエナ様、実は怒ってらっしゃいますね?」
頬を引きつらせたリリーナは、シエナに陛下に会っても物騒なことはしないと誓わせてから馬車の用意にかかった。シエナは馬車に乗り込みながら、一抹の不安が過ぎった。
(陛下はいつでも会いにきていいとおっしゃっていたし……私、その言葉を信じてもいいわよね……?)
シエナの希望もむなしく、馬車を飛ばしたというのに、案の定王宮の門前でお引き取りを勧められた。リリーナの交渉はあっけなく敗れたので、シエナが馬車から顔を出し、直にお願いする。
「申し訳ありませんがお通しするわけにはいきませんね」
体格のいい門兵ににべもなく言われ、シエナは地味にショックを受ける。シエナが王宮へ顔を出すようになってからこの門兵には何度か顔を合わすことがあったが、その度に彼は、槍を持っている剛毅な見た目に反し大型犬のように懐っこい笑みを浮かべてシエナを迎え入れてくれていたから、ショックは一層大きかった。
「……陛下は、体調が優れないのですか?」
まさか右目の古傷が痛むのだろうか。それに体内に魔力を宿しているだけあって、常人ではありえない負荷が身体にかかっているのでは、とシエナはふと不安になる。
「……そういう訳ではないのですが……シエナ様をお通しするわけにはいかないのです。陛下からそう命を仰せつかっておりますので」
シエナはイザクが伏せっていないことに安堵しながらも、申し訳なさそうに添えられた最後の一言に追い打ちをかけられた。よろめきそうになりながら、シエナは扇で顔を隠し、気丈に振る舞った。
「……陛下は、私にお会いしたくないとお考えですか?」
気品を失わぬよう、なるべく凛とした声を心がけてシエナが問う。門兵は、どう答えたものかと瞳を泳がせながら「ええと、今はお会いする気はないと聞き及んでいます」と控えめに言った。
ピシャーンッと、シエナの背後にマンガのような稲妻が走る。シエナの心境はまさに雷雨だった。
(陛下はやっぱり私に会いたくないとお思いなのね……。オーケー、いいわ、いいわよ。でも、そっちから勝手に妃にと望んでおいて、いきなり訳も言わず音信不通……? いい度胸じゃない……! なら私だって好きにさせてもらうわ……! 何で避けているのか、意地でも聞き出してやる……!)
扇を閉じたシエナの整った顔から表情が消えると、門兵は怯えた顔でのけ反った。シエナはしばらく逡巡してから、馬車を下り、門兵へ向かってこれでもかという程とろけるような笑みを浮かべた。大輪の薔薇のように華麗で、男の心を撃ち抜くような妖しい笑みだ。
門兵も例にもれず、魂を抜かれたようにただただシエナの微笑みに釘づけになった。シエナの微笑みの破壊力はすさまじく、門の周りを警備している他の兵までノックアウトさせてしまうほどだった。
「……私、陛下に薬を渡しに参ったのです。……どうか通してはくださいませんか……?」
シエナは長いまつ毛を伏せ、雪のように儚げな雰囲気を漂わせて囁く。リリーナは呆れたような顔をしたが、門兵たちはいたく心を揺さぶられたようだった。
「そ、それはそれは……! シエナ様が陛下のために薬を持ってこられたと知ったなら、陛下はさぞお喜びになるでしょう……!」
「でも、陛下は私には会わぬとおっしゃったのですね」
「う……、そ、それはそうなのですが……」
「実は陛下へお送りした文も一切の返信がこず、心配しておりましたの。ああ、陛下のお姿を一目見てご無事を確認し、薬をお渡ししたいだけですのに、それもままならないなんて……」
目の端に涙を浮かべながら悲しげに呟くと、門兵は良心の呵責に苛まれたようだった。イザクにはシエナを通すなと言われているが、けなげな侯爵令嬢はそれに心を痛め今にも泣きだそうとしている――……。ああ、自分が彼女をお通し出来たなら……彼女が喜んでくれるなら、此処をお通しし、自分が罰を受けても構わないかもしれない――……。
そんな風に、初な門兵の脳内がシエナには透けて見えるようだった。リリーナからの胡乱な視線を無視し、シエナはもうひと押しして門兵を陥落させようと思った。
しかし――――……。
「お嬢、うちの兵をたぶらかすのはやめてくれませんかねぃ」
天敵ともいえるニフの声がかかって阻まれた。
シエナが声のした方を見ると、ニフとロアが王宮に続く道から、こちらへ向かって歩いてきていた。




