第4章:言えなかった夏
目黒駅の外へ出ると、朝の街は薄い雲の下で色を抑えていた。夜のうちに冷えた手すりには淡い水滴が残り、地下から上がってくる人の衣服に湿りを含んだ風が静かにまとわりついていた。
世織は人の流れから外れ、白金台へ続く坂道の入り口に目を向けた。街路樹の根元にはまだ乾ききっていない葉が数枚張り付き、交差点の向こうを行く白いシャツの群れだけが朝の明るさを遮っていた。
悠澄の姿は見当たらなかった。
待ち合わせる時刻を決めたことも、毎朝ここで会うと明確に取り決めたこともないのに、数日続いた気配が欠けるだけで、坂道は窓だけを残して室内を失った建物のように見慣れた釣り合いを崩していた。
世織はすぐに歩き出さず、交差点を渡ってくる背中を一つずつ確かめた。肩の傾き、鞄を持つ手、信号が変わった後に踏み出す速さまで目で追ったが、覚えた歩幅はどこにもなかった。
左手の親指が人差し指の爪に近づいた。触れる前に、駅のほうから歩道を強く踏む音が近づいてきた。振り返った世織の視界に、肩で息をする悠澄が入ってきた。
「ごめん」
悠澄は目の前で足を止め、額に浮かんだ薄く汗を拭い、息を整えながら片方の肩からずれかけた鞄の紐を掛け直した。
「走ったの?」
「少しだけ」
「少しには見えない」
世織が答えると、悠澄は深く息を吐いた。いつもの穏やかな笑い方ではなく、間に合ったことに安堵したように、張り詰めていた呼吸だけが先に解きほぐれていく。
「待たせたと思って」
「待っていないよ」
「探していたでしょう」
「道を見てただけ」
「俺がいる場所を?」
言葉に詰まり、世織は坂の先へ視線を逸らした。雲を透かした光はまだ弱く、建物の壁や植え込みの葉を平らに照らしていた。しかし、悠澄のいなかった景色だけが、他よりも鮮明に胸に刻まれていた。
「今日は遅かったね」
世織は話をそらした。
悠澄は手にしていた小さな紙袋を持ち上げた。焼けた生地と柑橘の皮を思わせる香りが、駅前に残る湿気に鮮やかに混じった。
「これを買ってた」
「また朝ごはん?」
「世織の分」
「今日は食べてきたよ」
悠澄の表情が固まった。驚いた後、疑うように世織の顔を見た。
「本当に?」
「ヨーグルトを少し」
「少しなんだ」
「何も食べないよりはいいでしょう」
「それはそうだけど」
悠澄は袋を引っ込めなかった。世織の手元まで差し出された紙袋には、焼き上がってからそれほど時間が経っていないため、温かさが残っていた。紙袋を受け取ると、香りがさらに近づいてきた。
「昼に食べればいいよ」
「毎朝買うつもり?」
「毎朝食べてこないつもり?」
「今日は食べたって言ったでしょう」
「少しだけ」
世織は言い返すのを諦めて紙袋を鞄にしまった。悠澄は、その様子を見届けてから歩き始め、隣に並んだ。走った後の体温が、触れていないはずの肩先まで伝わってきた。
「走らなくてもよかったのに」
「世織が先に行くと思ったから」
「行かないよ」
答えた後で、言い切った自分に驚いた。悠澄もわずかに目を見開き、朝の白い光を映した瞳に隠しきれない喜びを浮かべた。
「待っててくれた?」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
世織は歩きながら言葉を探した。悠澄が来なければ仕事へ行けないわけではなく、遅れるまで立ち尽くすつもりはなかった。しかし、すぐに歩き出せなかったことだけは否定できなかった。
「少しくらいなら待つと思う」
「少しくらい?」
「長かったら連絡する」
「連絡してくれるんだ」
「番号を知っているんだから」
世織がそう言うと、悠澄は小さく息を漏らした。その音が朝のざわめきに溶け込み、誰かを待つことが自然になり始めた自分を、世織は少し離れたところから眺めるように意識した。
坂道には昨日より多くの足音が響いていた。仕事に向かう靴が乾いた舗道を擦り、遠くでは配送車の扉が鈍い音を立てていた。植え込みの土から立ち上る匂いには夜の湿りと新しい熱が混じり始めていた。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
世織が尋ねた。
「眠れたよ」
「本当に?」
「世織に言われたから」
「私に言われなくても寝て」
「難しいな」
「何が?」
「世織と話した後はいろいろ考えるから」
悠澄の声は穏やかだったが、その穏やかさは感情の薄さではなく、相手を困らせないために整えられたものだということが、世織には少しずつ分かってきた。
「何を考えたの?」
「昨日の電話のこと」
「会いたいって言ったこと?」
自分から口にすると頬の内側が熱くなり、悠澄は世織を見つめてすぐには視線を外さなかった。
「それも」
「ほかには?」
「卒業の日のこと」
歩幅が少し乱れた。世織は、舗道の細かな亀裂に目を落として、昨夜自分が伝えた言葉を思い返した。
怖かったことは言ったが、何を恐れていたのか、核心だけはまだ明かしていない。
「あの日のこと、まだ考える?」
「考えるよ」
「何年も経ったのに?」
「何年経っても、変わらないことはあるから」
悠澄は前を見たまま答えた。街路樹から落ちた影が横顔を短く横切り、すぐに朝の白さに戻った。しかし、鞄の持ち手を握る指には、まだ薄く力が入っていた。
「悠澄は、何を言いたかったの?」
世織は思い切って尋ねた。
「卒業の日に?」
「うん」
風が建物の間を抜け、髪を頬へ運んだ。悠澄の手は動かず、世織も自分で髪を払わないまま相手の言葉を待った。
「行かないでほしいって」
世織の足が止まった。
通り過ぎる人の流れだけが先へ進み、背後から吹いてきた風が衣服の裾を揺らした。悠澄も数歩先で立ち止まって振り返った。
「どこへ?」
「俺の知らない場所へ」
声は低かった。
「仕事を始めて、新しい人に会って、俺がいなくても平気になるのが怖かった」
世織は何も言えなかった。悠澄はいつも誰かの自由を尊重し、相手が選ぶ方向を静かに見送る人だと思っていたからこそ、その言葉は胸の奥底に響いた。
「言えばよかったのに」
ようやく出た声は、相手よりも自分を責めているように聞こえた。
悠澄は困ったように笑った。
「言ったら、世織の邪魔になると思った」
「ならないよ」
「当時は分からなかった」
「聞けばよかったでしょう」
「怖かったから」
悠澄は視線を落とした。弱っている姿を見せない人が、自分の恐れを朝の空気に差し出していることに気づくと、世織は責める言葉を続けられなかった。
「何が怖かった?」
知っているような気がしながら、もう一度尋ねた。
悠澄はしばらく黙った。坂の上から吹いた風が街路樹の葉を裏返し、光の色を細かく変えていった。
「世織に、そんな風に思ったことはないって言われること」
夏の風が急に冷たく感じられ、世織は左手の親指で人差し指の爪をなぞって小さな癖を隠す余裕さえ失っていた。
「私は……」
声が続かなかった。
あの日、別れたくなかった。
胸の奥には何年も形を変えずに残っている言葉があったが、今口にすればよかったのに、喉の手前まで上がった言葉は過ぎた時間の重みに押し戻された。
「まだ言えない?」
悠澄の声に責める響きはなかった。
世織は小さくうなずいた。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
「でも、悠澄は言ってくれたのに」
「俺が言いたかったから言っただけ」
悠澄は静かに笑った。
「世織にも同じ速さを求めたら、また勝手に決めることになるでしょう」
その言葉は世織を救うと同時に、苦しくもさせた。待ってくれる優しさに甘え続ければ、卒業の日と同じように相手が察してくれることだけを望んでしまうかもしれない。
「待たなくていい」
世織がそう言うと、悠澄は眉を寄せた。
「どういう意味?」
「私が話すまで、何も変えずにいる必要はないということ」
「世織は変えたい?」
「分からない」
「じゃあ、待つよ」
「悠澄」
「待つことを選ぶのは俺だから」
穏やかだが譲らない声だった。世織はその強さに触れ、胸の内側が小さく震えるのを感じた。
「ずるいね」
「何が?」
「私が断れない言い方をする」
「断りたい?」
世織は答えなかった。答えないことが何より正直な返事になっている気がした。
止まっていた歩みを進めると、悠澄も隣に並んだ。朝の人波は先ほどより厚くなっていたが、肩先に感じる気配は見失わなかった。
「今日、現場?」
悠澄が尋ねた。
「うん、改装中の住宅」
「窓が多い家?」
「覚えてたんだ」
「昨日、話してたでしょう」
世織は悠澄を見た。会話の端に何気なく置いた言葉まで、相手は昔から大切なもののように覚えていた。
「外からの視線を遮る方法を考えるの」
「窓は残す?」
「残す。光まで閉じたくないから」
「世織らしいね」
「どうして?」
「隠したいけど、閉じたいわけじゃないところ」
世織は足を止めかけた。仕事の話をしているはずなのに、自分の内側を言い当てられたように感じた。
「私の話?」
「家の話?」
「本当に?」
「半分くらいは」
「残りは?」
「言ったら困るでしょう」
「また勝手に決める」
「じゃあ、言っていい?」
世織は少し迷ったが、それでも頷いた。
「言って」
悠澄は呼吸を整えるようにゆっくり息を吸った。
「世織は、見られるのが怖いんだと思う」
「何を?」
「大切にしてるものを」
歩道の端を自転車が通り過ぎ、短い風を残していった。世織は何も返せず、鞄の持ち手に指をかけ直した。
自分の感情が見られるのが怖い。
好きだと気づかれることも、離れたくなかったと知られることも、相手に弱い場所を預けることだから、世織は長い間、言葉になる前の感情を隠してきた。
「見られたら、どうなると考えている?」
悠澄が尋ねた。
「分からない」
「壊される?」
「そうかもしれない」
「俺が?」
世織は顔を上げた。
悠澄の目には隠しきれない痛みが浮かんでいたが、すぐに穏やかな表情に戻ろうとした。しかし、今度はその変化を見逃さなかった。
「悠澄に限らないよ」
「でも、俺にも見せない」
「怖いから」
「俺も怖いよ」
その言葉は風よりも小さく、世織は聞き返さずに次に続く言葉を待った。
「世織が何も思ってなかったらどうしよう、って今も思う」
悠澄は前を見た。
「再会して、毎朝会えて、食事までして、それでも昔の親友に戻っただけだったらって」
胸の奥が痛んだ。悠澄も同じように何も保証されない場所を歩きながら世織の言葉を待っていた。
「親友に戻りたい?」
と世織は尋ねた。
悠澄は迷わず首を横に振った。
「戻れないよ」
「どうして?」
「世織に触れたいと思ったから」
世織の呼吸が止まった。
朝の街はいつもと変わらず動いていた。車の音も、歩く人の話し声も、植え込みを揺らす葉擦れの音も消えていないのに、耳に残ったのは悠澄の声だけだった。
「触ったでしょう」
世織は、頬に落ちた髪を意識した。
「髪だけ」
「同じじゃないの?」
「違うよ」
悠澄の声が少し掠れた。
「もっと近くにいたいと思うことと、髪を直すことは違う」
世織は視線を落とした。歩くと、舗道に落ちた影が重なり、触れ合っていない肩先の距離が急に縮まったように感じられた。
「私も、前とは違う」
ようやく言った。
悠澄の足取りが緩んだ。
「何が?」
「触れられるのを待っていた」
口にした瞬間、頬の熱が一気に上がった。朝の風では冷ませず、世織は相手の表情を見ないようにして、歩調を少し速めた。
悠澄はすぐに追いつき、小さく息を漏らして笑った。その笑い声は、嬉しいときの癖が今までより深い安堵を含んだものだった。
「笑わないで」
「笑っていない」
「笑ってる」
「嬉しいだけ」
いつもの返事だったが、世織はもう否定しなかった。恥ずかしさの内側にそれ以上の喜びがあることを、認め始めていた。
「世織」
「何?」
「もう一度触ってもいい?」
「今?」
「今じゃなくてもいい」
世織は前を向いたまま考えた。朝の人波の中で立ち止まる勇気はないが、また今度と曖昧に逃げることもしたくなかった。
「誰も見ていないところなら」
声は小さかった。
悠澄は少し息を飲んでから、静かにうなずいた。
「分かった」
「そんなに嬉しそうにしないで」
「無理だよ」
肩先を抜ける風が先ほどより温かく感じられ、分かれ道が近づくにつれて、世織の胸には今朝交わした言葉の重さと夜まで会えなくなる寂しさが同時に膨らんでいった。
「夜は会える?」
悠澄が尋ねた。
世織は、目元に残る薄い疲れを見た。走ってきたせいだけではなく、昨日までの忙しさがまだ抜けていないことが今なら分かった。
「今日は休んだ方がいいんじゃない?」
「平気だよ」
「平気なふりをしてる?」
悠澄は一瞬だけ黙った。
「少し眠い」
「少しじゃないでしょう」
「分かる?」
「今は分かる」
世織ははっきりと答えた。
「今日は会わない」
悠澄の目元が曇った。胸が痛んだものの、世織は言葉を変えなかった。
「帰って休んで」
「世織に会えば元気になる」
「そういうことじゃないよ」
「分かってるけど」
「無理して会っても嬉しくない」
悠澄は視線を落とした。しばらくして静かにうなずくと、その素直さが夜まで会えない現実を急に近づけた。
「分かった」
世織は鞄の持ち手を握り直した。
「でも、連絡して」
悠澄が顔を上げた。
「いいの?」
「会わないことと何も話さないことは、違うでしょう」
「電話でも?」
「眠る前に少しだけ」
「世織の声が聞けたら眠れないかもしれない」
「じゃあ、文字にする」
「冗談だよ」
悠澄は慌てたように笑った。
「電話がいい」
世織も少しだけ笑った。会わないという選択が拒絶ではないと、伝えられた気がした。
「元気が残ってたらね」
「残しておく」
「だから無理しないで」
「難しいな」
「何が?」
「世織に会いたいのを我慢すること」
返す言葉が見つからなかった。困るはずの言葉なのに、胸の奥では静かな喜びが広がり、世織は足元に落ちた影を見つめた。
分かれ道に着くと、朝の光が雲を抜け始めていた。建物のガラスに空の白さが映り、歩道の端には街路樹の影が濃く落ちていた。
「紙袋、忘れないで」
悠澄が言った。
「入れたよ」
「昼に食べて」
「わかった」
「写真を送って」
「どうして?」
「本当に食べたかどうか確認する」
「信用がないね」
「世織の朝食に関しては、ない」
悠澄の笑いにつられ、世織の胸の重さも少し軽くなった。過去の話で揺れた後にも、こんな何気ない言葉を交わせることがうれしかった。
「じゃあ、夜に」
「うん」
「世織」
「何?」
悠澄は少しだけ迷った。
「今朝、話してくれてありがとう」
「私はほとんど何も言ってない」
「触れられるのを待っていたと言った」
世織は、頬が熱くなるのを感じた。
「忘れて」
「無理だよ」
「忘れて」
「忘れたくない」
穏やかな声だった。だからこそ、拒む言葉は出なかった。
「また明日」
世織がそう言うと、悠澄は少し驚いた顔をした。
「夜に話すでしょう」
「それでも、また明日」
約束を先へ置きたかった。今日の夜を越えた後にも会う朝があることを、言葉にして確かめたかった。
「また明日」
悠澄も同じ言葉を返した。
世織は角を曲がり、事務所へ続く道に入った。少し進んで振り返ると、悠澄は同じ場所にまだ立っていた。目が合うと、どちらからともなく小さく手を上げた。
事務所に入ると、木材と紙の乾いた匂いが世織を迎えた。窓辺には朝の光が斜めに差し込み、机に置かれた素材見本の表面を淡く照らしていた。
世織は鞄から紙袋を取り出し、机の端に置いた。椅子に座ってもすぐには図面を開かず、朝に口にした言葉を胸の中で繰り返した。
触れられるのを待っていた。
あれは恋を認めたことになるのだろうか。まだ違うと逃げることもできるし、懐かしさや再会の高揚に名前を置き換えることもできた。
しかし、悠澄が他の誰かに同じように笑いかけて触れようとする姿を想像すると、胸の内側が急に締め付けられた。その感情を友情と呼び続けるのはもう無理があると、世織自身が一番分かっていた。
紙袋を開けると、薄く砂糖をまとった小さなパンが入っていた。生地には細く刻まれた柑橘の皮が練り込まれており、ひと口かじると甘さの後にかすかな苦みが残った。
今朝の会話に似ていると思った。
嬉しいだけではなく、過ぎた時間への悔しさやまだ渡せない言葉の痛みが混じっている。それでも嫌な味ではなく、苦みがあるからこそ甘さが輪郭を持って舌に残った。
世織はパンの写真を撮り、悠澄に送った。
「食べた」
すぐに返事が届いた。
「早いね」
「朝ごはんの続きだから」
「おいしい?」
「好きな味」
入力したあと、指が止まった。
悠澄が選んだからかもしれない。
そこまで書いて消して、代わりに短い礼を送った。すると、すぐに既読がつき、また買うという返事が返ってきた。
「毎朝買わなくていい」
「じゃあ、一緒に食べる?」
駅前で待ち合わせて坂道の途中に座り、朝食を分ける時間が思い浮かんだ。仕事へ向かうだけの道に、少しずつ別の意味が加わっていく。
「たまになら」
と送ると、返事が来るまで少し間があった。
「たまにを増やしたい」
胸の内側が温かくなった。
世織は返信せずに端末を伏せた。これ以上文字を交わすと、仕事に戻れなくなりそうだった。
図面を広げると、道路に面した大きな窓が紙の中央にあった。依頼主は、光を取り入れたいと思いつつ、通行人の視線が家の奥まで届いてしまうことを懸念している。
世織は格子の間隔を見直した。
光は通し、人影だけを曖昧にする、何も見せない壁を置くのではなく、見せる範囲を自分で選べる境界が必要だった。
人の心にも同じものがあるのかもしれない。
すべてを閉ざせば傷つかずに済むが、光も入らない。開きすぎればまだ触れられたくない場所まで見られてしまい、自分でも守り方が分からなくなる。
悠澄を完全に遠ざけたいわけではなかった。
むしろ近づいてほしいが、一度にすべてを渡すのは怖い。そのための細い格子を世織は長い時間をかけて心の内側につくっていた。
鉛筆を持ち、図面の線を少しだけ広げた。見える範囲を自分で選べるなら、いつか核心の言葉も渡せるかもしれない。
あの日、別れたくなかった。
その言葉を過去への告白だけで終わらせず、これから離れたくないという願いに変えられる日が来るかもしれない、と。世織は図面に向かいながら、その可能性を初めて怖がらずに思い浮かべた。
街の光が強さを増すころ、世織は現場へ向かった。外へ出ると、朝の雲は薄くほどけていた。建物の間に現れた青空から夏の日差しが鋭く舗道に落ちている。
地面から立ち上がる熱気が足元に絡みつき、車が通るたびに乾いた風と排気ガスの匂いが頬を撫でた。植え込みから聞こえるセミの鳴き声は、一つひとつ聞き分けられないほど重なり合って、街の空気そのものを震わせていた。
改装中の住宅は、静かな通りの奥にあった。
室内に入ると、切った木材の粉と塗料の湿った匂いが混じっていた。養生された床には窓の形をした光が落ちており、その白い輪郭だけが何も置かれていない部屋を鋭く切り取っていた。
世織は窓際に立ち、道路から室内がどこまで見えるのかを確かめた。家具も生活用品もない今は見られて困るものがないが、暮らしが始まれば窓辺に置かれた本や脱いだ上着、誰かを待つために用意された椅子まで外にさらされてしまう。
光を受け入れるには、守られている感覚が必要だった。
世織は格子を設ける位置に手を添え、木の細い線が視線を分け、室内の輪郭を柔らかくする様子を想像した。
隠すことは拒絶ではない。
大切なものを傷つけずに見せるための方法でもある。その考えが浮かんだとき、今朝の悠澄の表情が思い起こされた。
何も思われていなかったら怖い。
悠澄も自分の感情をすべて見せているわけではなく、穏やかさの内側に細い境界線を置き、弱さを少しずつ世織に分けている。
それでも今朝は、怖かったと言った。
ならば自分も、すべてではなくていいから少しずつ渡せばいいのだ。世織は格子の位置を示す印を見つめながら、言葉を閉じ込めることと、話せるまで大切に守ることとは別なのだと思った。
現場を出ると空気はさらに重くなり、日差しを受けた石壁からは乾いた匂いが立ち上り、手を触れなくても表面の熱が伝わってくる。
世織は日陰を選んで歩いた。
スマートフォンが震え、昼を食べたか、という悠澄のメッセージが表示された。思わず笑って、これからだと返すと、少しして同じだという返信が届いた。
「一緒だね」
と入力してから、世織は少し照れた。
離れた場所で同じ頃に食事をするだけなのに、その偶然を共有したくなったのだ。送信すると、悠澄からは「嬉しい」と短く返事が返ってきた。
飾りのない言葉が、昼の熱よりも強く胸に残った。
世織は小さな店で食事を済ませ、事務所へ戻った。窓の外では夏の雲が白く膨らみ、その底に落ちた影が街の一部を覆い、遠くの建物だけが一時的に色を失っていた。
午後の仕事に向かい、格子に使う木材の色を比べた。淡い木目は光を柔らかく反射し、濃い色は視線をしっかりと遮る。
世織は中間の色を選んだ。
守ることと閉ざすことのあいだ。
今の自分が立っている場所に似ていた。
指先で木目をなぞると、滑らかに見える表面にも細かな凹凸が感じられた。人の感情も、遠くから見れば整って見えても、近づいてみれば簡単ではなく、触れた人にしか分からない歪みや傷が残っている。
悠澄は、弱っている姿を誰にも見せないと言った。
しかし、世織には少し違うかもしれないとも言っていた。その言葉を信じていいのかと考え、すぐに、信じるかどうかは自分で決めるべきだと思い直した。
世織は信じたかった。
平気なふりをしているときに気づいて、「休んで」と言える距離にいたい。悠澄が弱さを見せたときに、困らずに受け止められる人になりたい。
それは友情でもできることかもしれない。
けれど、会えない夜を寂しいと感じ、誰も見ていない場所なら触れられてもいいと答える感情は、すでに別の段階に進んでいる。世織は、その事実を今度こそ見ないふりをしたくなかった。
午後の光が机の端に移るころ、世織は鉛筆を置いた。窓の外には薄い風が戻り、雲の影が建物の壁をゆっくりと横切っていた。
悠澄は仕事を終えただろうか。
会わないと決めたのは自分だった。それでも夜に近づくにつれ、肩の横に気配がないことが現実味を帯びてきて、世織は何度もスマートフォンに目をやった。
連絡は届いていなかった。
休んでいるなら、それでいい。そう思いながら画面を伏せるまでに、少し時間がかかった。
仕事を終えて外に出ると、空には夕暮れの色が薄く広がっていた。雲の縁は桃色に染まり、建物のガラスに柔らかな光を残していた。
昼の熱気がまだ舗道にこもっているが、首筋に触れる風には夜の冷たさが混じり始めていた。世織は一人で坂道に出て、朝に並んだ場所を逆向きに歩き始めた。
隣に足音がないだけで、道幅が広くなったように感じられた。
昨日まで世織は、この道を一人で歩いていた。窓を見てカーテンの揺れを追い、仕事のことを考えながら駅へ向かい、それで足りていたはずだった。
今は、肩の横にある空白ばかりが気になる。
数日で誰かの存在が日常になるとは思えない。たぶん大学時代に途切れた日常が形を変えて戻ってきただけなのだろう。
身体のほうが心よりも早く思い出し、隣の歩幅を必要としている。
街灯が一つずつ灯り始めた。まだ空に青さが残っているため、光の輪は薄く、歩道に落ちる影も輪郭を決めかねている。
世織は一つの街灯の下で足を止めた。
白い光が髪と肩を照らす。昨夜、悠澄の指が髪に触れた場面が、感触を伴って蘇ってきた。今朝、もう一度触れてもいいかと尋ねられ、誰も見ていないところならと答えた。
誰も見ていない場所で、悠澄は一体どこに触れるつもりなのだろう。
そう考えた瞬間、胸の内側が熱くなった。世織は、自分の想像から逃れるように歩き出した。
スマートフォンが震えた。
「もう帰ってる?」
悠澄からだった。
「今、坂道」
「一人?」
短い質問に世織は周囲を見回したが、行き交う人はいるものの、尋ねられている意味とは異なる。
「一人だよ」
そう送ると、すぐに着信が入った。
世織は歩道の端へ寄って通話を始めた。
「もしもし」
「まだ坂?」
悠澄の声は少し掠れていた。朝よりも疲れがひどく、顔が見えない分、呼吸の浅さまでよく分かった。
「うん。悠澄は?」
「帰ったところ」
「ちゃんと休んでた?」
「少し横になった」
「少しだけ?」
「眠れなかった」
「どうして?」
通話の向こうで短い沈黙があった。
「世織に会いたかったから」
世織は街灯の下で目を閉じた。離れた場所から届く声は、隣で聞くよりも近く感じられ、耳元に触れる相手の呼吸の温度まで感じられそうだった。
「会わないって決めたでしょう」
「分かってる」
「無理をしないために」
「うん」
「それでも会いたかった?」
「会いたかったよ」
迷いのない答えだった。
世織は鞄の持ち手を握って胸の奥で膨らんだ感情を落ち着かせるように息を吸った。
「私も」
声は小さかった。
「何?」
「私も会いたかった」
通話の向こうが静かになった。声が届かなかったのかと思ったが、やがて悠澄が深く息を吐き、安堵を隠せない様子が耳に届いた。
「今から行っていい?」
「駄目」
世織はすぐに答えた。
「今日は休む日」
「でも」
「明日の朝に会えるでしょう」
「長いな」
「一晩だけ」
「一晩が長い」
悠澄の声には笑いが混じっており、世織も小さく笑った。会えない寂しさを同じように感じていることが嬉しかった。
「眠れば短いよ」
「眠れるかな」
「眠って」
「世織がもう一つ言ってくれたら」
「何を?」
また沈黙が訪れた。
街灯の周囲を小さな虫が飛び、白い光の中を不規則に横切っていた。遠くでは、電車の振動が建物の壁に低く伝わっていた。
「明日も会いたいって」
世織は目を開けた。
胸の奥にある言葉は今朝よりも近い場所まで上がってきた。逃げようと思えば「また明日」とだけ言うこともできたが、今日は自分で選びたかった。
「明日も会いたい」
と、はっきり伝えた。
悠澄の呼吸が止まり、それからゆっくりと解きほぐれていった。
「ありがとう」
「どうしてお礼を言うの?」
「聞きたかったから」
「聞かないと不安?」
「不安だよ」
悠澄は静かに答えた。
「世織が俺と同じ気持ちだって、まだ決められないから」
世織は歩みを再開した。
夜に向かう坂道で、街灯の輪を一つずつ通り過ぎていく。肩の隣には誰もいないが、耳元にある声が歩幅を支えていた。
「私も不安だよ」
「何が?」
「悠澄が、昔の私を好きなだけかもしれないって」
と言ってから、自分が「好き」という言葉を使ったことに気づいた。悠澄も気づいたようで、すぐには返事をしなかった。
「昔の世織も好きだった」
低い声だった。
「でも、今の世織を見てる」
胸の奥が静かに揺れた。
「仕事の話をしてる時も、食べるのを忘れるところも、困るとすぐ窓を見るところも」
「爪じゃなくて?」
「それも」
悠澄は小さく笑った。
「今の世織を見て、近くにいたいと思っている」
世織は返事を探した。
簡単な言葉では表現できないほど嬉しく、だからこそ曖昧なままにはしたくなかった。
「私はまだ分からないことが多い」
「うん」
「自分がどうしたいのかも、全部は分からない」
「うん」
「でも、悠澄がいない朝は嫌だった」
電話の向こうで息を吸う音がした。
「今日、数分いなかっただけなのに」
「世織」
「何?」
「それで十分だよ」
その言葉に世織は足を止めた。
十分ではないと思った。
悠澄は長く待っていた。世織が何も言えなかった年月を忘れようとしていたのに、数分探しただけで十分だと言う。
「十分じゃないよ」
世織が答えると、悠澄は黙った。
「まだ言えないことがある」
「うん」
「でも、言えないまま終わらせたくない」
声が震えた。
風が坂の上から下りてきて、頬に触れた。世織は立ち止まったまま、続きの言葉を急がずに探した。
「あの日のこと、いつか話す」
「分かった」
「いつかで逃げてるわけじゃない」
「分かってるよ」
「本当に?」
「今の世織は、逃げるならこの道を歩いていないって言ったでしょう」
朝、自分が口にした言葉を悠澄は覚えていた。世織は目を閉じ、胸の奥に残っていた緊張を少しだけ吐き出した。
「全部覚えてるんだね」
「全部は無理でも、大事なことは覚えている」
「忘れてほしいこともある」
「たとえば?」
「触れられるのを待っていたって言ったこと」
「それは無理」
悠澄が笑った。
世織も笑った。
通話越しの笑いが重なり、会えない夜の距離が少しだけ縮まった。
駅の入り口が近づくにつれ、人の流れが増え、靴音と話し声が重なった。悠澄の声が周囲に埋もれそうになったため、世織は端末を耳に近づけた。
「もう駅?」
「うん」
「じゃあ、今日はここまでにする?」
「眠るの?」
「帰ったら」
「本当に?」
「世織に確認されるから」
「確認するよ」
「電話で?」
「文字で」
「厳しいな」
悠澄が困ったように笑った。
その声には朝よりも少し疲れが薄れていた。世織は、悠澄に無理をさせているのではなく、休む場所に戻してあげられているのだと思いたかった。
「悠澄」
「何?」
「あまり無理をしないで」
「うん」
「平気じゃないときは、平気って言わないで」
「難しいけど、やってみる」
「私には言って」
声に出したあと、世織は自分の言葉を聞き返した。
ほかの誰かではなく、自分へ弱さを渡してほしい。そんな望みを口にすることが怖かったが、同じくらい嬉しかった。
「世織になら言うよ」
悠澄は静かに答えた。
「まだ上手くできないけど」
「私も同じだから」
「何が?」
「見せるのが苦手」
「知ってる」
「そこは知らないって言って」
「知ってるよ」
世織は笑った。
「また明日」
「また明日」
通話が終わると、街の音が一気に戻ってきた。電車の振動、人の話し声、改札へ急ぐ靴音が夜の東京を満たす。世織は暗くなった画面を見つめた後、鞄にしまった。
隣に悠澄はいない。
それでも、一人で歩いている感じはしなかった。
帰宅した部屋には昼の熱が薄く残っていた。窓を開けると、夜風がカーテンを大きく持ち上げて床にたまった熱を外に押し出していく。
遠くを走る車の音とどこかの部屋で閉まる扉の音が暮らしの静かな層をつくっていた。世織は照明をつけ、淡い光が壁に広がる様子を見つめた。
窓ガラスには一人で立つ自分と、その背後に残された空間が映っていた。以前なら気にならなかった余白なのに、今夜は悠澄がいないことを意識させていた。
孤独とは少し違っていた。
会える人がいるからこそ形を持つ不在だった。
世織は簡単な食事を用意し、冷えた水を飲んだ。喉の奥に一日の熱が流れていくと、朝もらったパンの柑橘の香りがまだ指先に残っているような気がした。
スマートフォンが震えた。
「帰った。食べて、もう休む」
悠澄からだった。
世織はすぐに返事を打った。
「わかった。おやすみ」
送信する前に指が止まり、もう一文を加えた。
「明日も会いたい」
今度は迷わず送った。
既読はすぐについた。
「俺も。おやすみ、世織」
名前を呼ばれるだけで、部屋の静けさがやわらぐ。世織は端末を伏せて窓辺に立った。
東京の夜空には無数の明かりが浮かんでいた。白い窓、橙色の窓、薄いカーテンを透かしてにじむ光の奥で、それぞれの暮らしが眠りへと向かっている。
そのどこかに悠澄の部屋がある。
数年間、すぐ近くで同じ風を受けていたかもしれない。雨の日には同じ雲を見上げ、夏の夜には同じ熱を抱えながら、それでも会わなかった。
時間は戻らない。
けれど、戻らないからこそこれからを選ぶ意味がある。世織は左手の親指を人差し指に近づけたが、爪をなぞる前に手を下ろした。
言葉にできないものばかりではなくなった。
会いたいという気持ちも、明日も歩きたいという願いも、弱いところを見せたいという望みも、声にすれば悠澄に届く。
それらはまだ恋の結論ではない。
けれど、結論より前にある感情を世織は、以前のように見えない場所へ押し込めたくなかった。見せる範囲を選びながらでも少しずつ、悠澄へ渡したかった。
窓から入る夏風がカーテンを室内に膨らませ、白い布が戻るたびに床の光が揺れた。世織は、そのゆるやかな呼吸を見つめながら卒業の日の自分へ遅すぎる言葉を渡した。
あの日、別れたくなかった。
まだ悠澄には言えない。
それでも胸の奥で初めて、逃げずに認められた。それは、過去に戻るためではなくこれから離れないために必要な言葉なのだと今夜は思えた。
夜の向こうには目黒駅から白金台へ続く坂道がある。朝になれば悠澄がそこで待ち、世織も同じ場所へ向かう。
言えなかった夏を胸に残したまま、今度は同じ風のなかから離れないために。




