30 悪夢・アニエス
闇に沈むような静けさの中、アニエスは、目を開けた。
そこは見慣れたはずの謁見の間だった。
天上から光が降り注ぎ、人々が彼女を取り囲み、こうささやいている。
「聖女さま……なんて神々しい……完璧な星印……まさに選ばれし者……」
アニエスは微笑んだ。そうよ、私こそが本物。
この均整の取れた、美しい星印こそが女神の証。
彼女はずっとそう考えてきた。不完全なものには、価値がないと。
「欠けた星印なんて、ただのガラクタ。あんなもの、聖女の証じゃない」
「真実は、完璧なかたちの中にしか宿らないのよ」
レティーナの手に刻まれた、あの欠けた星を思い出す。
何度も蔑み、笑い、否定した。
星印が歪んでいるのに、聖女を名乗るなんて滑稽だと。
でも、今、その言葉が、返ってきた。
ささやくような声。くすくすと笑う人々。
アニエスが振り向くと、さっきまでの敬意は嘲笑へと変わっていた。
「よくできてる星印ね」
「ほんと、そっくり……形だけは」
「聖女を模した人形のようね。中身は空っぽなのに」
「儀式で失敗したんでしょ? 星印の力が出なかったって聞いたわ」
「そう、星の形が完璧なだけで、本物だと勘違いした子」
周囲のまなざしが、ひやりと冷たい。
まるで、アニエスが“欠けた心の持ち主”であるかのように。
アニエスは一歩後ずさった。その瞬間、前方に鏡が降りてきた。
そこに映っていたのは、歪んだ自分の笑み。
それは、レティーナを見下したときに浮かべていた冷笑そのもの。
あざけり、見下してきた、その顔。
その顔が、今、張りついて、可愛く笑ってみても変化しない。
「いやよ……そんなの、これは私じゃない……!」
「私は完璧な星印を持ってるのよ! だから本物で……本物で……!」
必死に叫んでも、誰も耳を傾けない。
聞こえてくるのは、あの日、自分が心の中で笑ったような声。
「おかわいそうに」
「ねえ、レティーナ様の欠けた星のほうが、ずっと綺麗だったわよね」
レティーナの名が出た瞬間、アニエスの胸がチクリと痛んだ。
――あんな欠けた印が、綺麗なはずなんてない。
「違う。私の方が、本物なんだから!」
否定するように、アニエスは駆け出した。
逃げ出す先も考えず。
ただ、追いかけてくる嘲笑から逃げるように。
気がつくと、アニエスは別の場所にいた。
舞踏会の広間。照明がきらめく中、彼女はひとり、立ち尽くしていた。
周囲には人々が笑い、談笑し、音楽が流れている。
でも、誰も彼女を見ない。
声をかけようとしても、声が出ない。
ドレスの裾を踏まれても、謝られることすらない。
(なんで……私が、レティーナみたいに……)
気づけば、その視線の高さは、かつてレティーナが見ていた景色。
お茶会で席を与えられず、誰にも話しかけられなかったあの時間。
アニエスが“かわいそう”と笑いながら見下ろしていたあの孤独――それが、今、自分の身に降りかかっていた。
最後に、闇の中から誰かの声が響く。
「あなたが与えてきたものが、返ってきただけです」
瞬間、星印が焼けるように熱くなり、アニエスは叫び声をあげて目を覚ました。
辺りを見回せば、そこは火を噴く王都。
逃げ惑う人々の悲鳴が、あちこちで響いていた。
……そうか、私は儀式を失敗したのね……。
でも、それは私のせいじゃないわ。ちゃんと星印の使い方を教えてくれなかったあいつらが悪いのよ。
ちゃんと教えてくれておけば、儀式は成功したのに。
でも、レティーナがスペアの役目を果たさなかったのが一番悪いわね。
あの子のせいで、国が滅びたんだ。私はこんな荒れ果てた国で生きていかなきゃいけないの?
アニエスの独り言に呼応して、辺りの景色がもう一段、暗くなった。




