01 友人との想い出
ときどき見る夢がある。
誰かが泣いている。そんな夢だ。
朝に起きると夢の内容は忘れてしまう。
それでも。その人は悲しそうだった、ということだけは覚えている。
深いフードを被り、いつも顔は見えない。
足元の花びらに、ぽつりぽつりと雫が落ちる。
それをみて、ああ泣いているのかと、気づく夢だった。
決まってその夢を見たあとは、自分も涙を流して起きることになる──
「────痛っ!」
ごつん。鋭い痛みを感じて、ゼノは目を覚ました。
「こら、ゼノ。お勉強中ですよ」
頭をさすり、顔をあげれば、友人のシオンが分厚い本を持って自分を見下ろしていた。
アイスブルーの瞳に黒の短髪。
王子らしい身なりのこいつは言うまでもなく本物の王子だ。
シオン・ソラス・ユーハルド。
本人はこの国、ユーハルドの第三王子だと言っていた。先月、十二歳の誕生日を迎えたばかりのゼノの友人だ。
そのシオンが、むっとした表情で自分を見つめている。
(そうだった……)
ここは城の書庫で、いまはシオンから勉強を見てもらっていたのだ。
目の前に置かれた分厚い絵本。
内容はフィーティア神話という、この大陸に伝わる古いおとぎ話だそうだ。
「あ、悪い。……で、どこまで読んだっけ?」
あくびを噛みしめ、机の上に頬杖をつけば、シオンが呆れたようすで息をついた。
「はぁ……。どこも何もまだ冒頭です。読み始めてからまだ十分も経っていないのに。どうしてゼノはこう、いつもいつも……」
「わかったよー。それよりも早く続きを教えてくれ」
苦言をさえぎり、先を促す。シオンは再度ため息を吐くと、隣の椅子に腰かけ、開かれた絵本の上に指を這わせた。
「ここから読んで下さい」
「かつて、せかい、は……ひとつ、だった?」
「はい、次の行。──色とりどりの花が咲き乱れ、散ることのない穏やかな楽園。そこには、三匹の竜たちがいた」
シオンが挿絵を指でさす。青と緑と黄色の竜が描かれていた。
「続きを」
「──ある、とき。りゅうたちは、けんかを、する。じぶんたちの、中で、だれがいちばん……強い、のかと」
「そうです。──その喧嘩は次第に苛烈を極め、美しい空は陰り、大地は燃え、青き海は朱へと変わった。これを嘆いた楽園の王は争いをとめ、世界を三つに分けた。竜たちが二度と争わないようにと」
シオンがページをめくる。
「以降、三つの世界が交わることはなく、再び大地に平和が戻った。──ここからどうぞ」
「そして、王は、うしなわれた、らくえん。い……」
「異郷」
「いきょう、にて、今でも、りゅうたちを、見守って……いる」
「フィーティア神話、序章。──はい、よくできました」
ぱたんと絵本が閉じられた。
「まあまあですね。書くのはまだ難しいようですが、読むぶんにはなんとか……」
机に散乱した練習用の紙を眺めて、シオンが言った。
「どうです? こちらの生活にはもう慣れましたか?」
「慣れたっていうか、もう二年になるんだぞ? 流石に色々覚えたよ」
「それならいいのですが。先日もナイフとフォークを逆さに持っていましたし、お酒とジュースを間違えて酔いつぶれていましたし。うーん……、やっぱりまだちょっと心配ですね……」
「それは単なるうっかりだ」
「何を言いますか。貴方の養父、アウル殿はしょっちゅうだと話されていましたよ?」
「う……」
シオンが憐れむような眼差しを向けてきた。
「あの時はその……少し考えごとをしてたんだよ」
「考え事?」
首を傾けるシオン。話そうかどうかと悩んだが、「続きを」と目で促されて、ゼノは自分の手のひらを見つめた。
「………二年前」
ぽつぽつと言葉を零す。
「山の中で倒れていたオレをアウルは本当の家族のように迎えてくれた。それから結構経つけど、いまだに何も思い出せないし、自分のことがよくわからない。アウルもケイトさんも気にするなとは言ってくれるけど……、このままずっと世話になってていいのかなって、たまに思うんだ」
「ゼノ……」
シオンが悲しげに呟いて、うつむく。
(………………)
二年前。自分は崖の下に血まみれで倒れていたそうだ。
偶然、山に来ていたシオンとアウルという壮年の男に助けられ、目を開けたときにはもう、何も覚えていなかった。
名前も言葉も、自分が誰でどこから来たのかも。
ゼノという名前は、身に着けていた星の首飾りに書いてあった文字を、シオンが読んで教えてくれたものだった。
そんな状態だったから、当然行くあてもなく、これからどうしたらと途方に暮れていた時。アウルが言ってくれたのだ。
『うちに来りゃあいい』
太陽のような笑顔を向けて、彼はゼノに手を差し伸べてくれた。
命の恩人でもあり育ての親のアウル。さらにその妻ケイトも、ゼノのことを温かく迎えてくれた。
だからふたりには迷惑をかけたくない。
そういう理由もあって、シオンに頼んで文字の読み書きを教えてもらっているのだ。
(うん。はやく覚えて、仕事のひとつでも出来るようになろう)
幸い、このユーハルドという国では小さな子供でも仕事にありつける。文字の読み書きができれば職の幅も広がる。頑張ろう。
改めて心の中で気合を入れると、シオンがゆっくりと顔をあげた。
「あの……あんまり思いつめると、将来ハゲますよ?」
「誰がハゲるかっ」
「あははっ」
シオンが笑う。
人がせっかくやる気を出したのに。ひどい奴だ。
「──さて、絵本の朗読も終えたところですし、今度は国の歴史についてお勉強しましょうか」
「えー、嫌だよ。いまの変な神話でこりごりだ。それよりも外に行って遊ぼうぜ?」
「駄目ですよ。私は貴方の勉強を見るよう、アウル殿にも頼まれているのですから。ちなみにこのあとの予定は歴史と算学です。みっちり叩き込んで、ゼノの頭を良くして差しあげますから、覚悟してくださいね?」
「うげ……」
自分は読み書きだけ教えてくれと頼んだはずだが。変に張り切るシオンにうめいて、ゼノは窓の外に視線を向けた。
「……あ、光蝶だ」
呟けば、シオンの表情がぱっと輝いた。
「え! 本当ですか⁉」
「うん、あそこ」
書庫の窓にとまる、いっぴきの光蝶を指でさす。
半透明の羽。淡い金色の光を発しながら、ひらひらと飛び立った。
「もう、どっか行ったよ」
隣でぱちぱちと瞼を動かすシオンに告げれば、「えー」と残念そうな顔をされた。
「いいなー、ゼノは相変わらず、光蝶が見えて」
「そうか? あいつら人の邪魔しかしないけど」
「それでもです」
シオンがぴしりと人差し指を立てる。
「魔法の適正がある人だけが見ることのできる特別な存在。それが光蝶。いまはもういない、古い時代の『蝶』という生物に似ているそうです。彼らは妖精。数多のおとぎ話に出てくるあのっ、妖精だと、言われています!」
「う、うん……」
鼻息を荒くしながら解説するシオン。ちょっと怖い。
「それは何度も聞いたけど……本当に妖精なのか? あれ」
正直、ピンとこない。
普通に考えて妖精など物語の中の存在だろう。
確かに光蝶はシオンには見えないし、なんだかよくわからない生物だけど、妖精とは何か違う気がする。
再び窓辺に訪れた光蝶を見ながらそう返せば、シオンは深く頷いた。
「もちろん!」
しかし、すぐにうなだれる。
「……と、言いたいところですが、まぁ……確証はありませんね」
「だろ? お前は本の読みすぎなんだよ」
「それを言うなら、ゼノはもっと本を読んだほうがいいですよ? お馬鹿なんですから」
「余計なお世話だ!」
それた話題をシオンが戻す。
「──ですが。ごくまれに、王家にも光蝶を視る者が生まれますよ。そういう子どもは総じて高い魔力を持つと言われていますし、妖精の愛し子とも呼ばれています」
「妖精の愛し子? ああ……、うちの国が妖精国って言われてるから?」
「それもありますが。単純に光蝶、つまり妖精から祝福された子という意味ですね」
「ふーん」
興味がない。ゼノは、あくびを噛み締めながら書庫の壁に貼られた地図に目を向けた。
エール大陸西部に位置するユーハルド王国。
建国以来、千年以上も続く、大陸屈指の古い歴史を持つ小国だ。
人口は数十万人程度。
シオンが言うには、農業しか取り柄のない田舎国。
そのため作物は抜群にうまい。
この国は、なぜか他国から〈妖精国〉と呼ばれていて、いちおう歴史書によると、宝剣クラウスピルに導かれた緋竜王こと、初代リーゼ王が精なるものと契約して作った、悠久の繁栄を約束された王国なのだという。
だからこんなに長く国が続いているのだとシオンは話すが、まあ八割くらいは話が盛られていると思う。
ゼノは地図から視線を切って、左腕の腕輪をこつこつと指で叩いた。
綺麗な銀細工の腕輪。
きらきらと輝く緑の宝石が中央の台座に埋め込まれており、腕輪の内側を覗けば、なにかの文字が刻まれている。
養父のアウルから貰った『風の腕輪』だ。
「妖精はともかく、魔法ならこれがあるだろ? 魔導品は誰にでも扱えるわけだし、光蝶が見えるとか、そんなのどうでもよくないか?」
「全然よくないですよ。確かに魔導品を使えば、適正に関わらず魔法を行使できますが、それはあくまで道具の力によるものです。使い方も限定的ですし、私が言いたいのはそうではなくて……もっとこう、純粋な力といいますか」
シオンが悩むように口ごもる。
顎に手をあてながら、「うーん、ゼノにでもわかる説明かぁ……」とか呟いているが、流石にひどい気がする。
ゼノはため息を零すと、シオン手製の教科書に目を落とした。
「まあ、なんでもいいよ。妖精とか信じてないし。それに魔法がどうのって言われたところでオレにとっては、こっちを覚えることで手一杯だ」
「ゼノ……そうですね。お勉強に戻りましょうか」
「それは嫌だ」
べっと舌を出したところで、書庫の入り口から壮年の男が顔を出した。