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駅前のビル街の通りは、夕方のこの時間になるとひどく混んでいた。デパートのブランド物のショーウィンドウを見るともなし見ながら通り過ぎて、私はお目当てのビルに向かう。
服とかアクセとかのお店の詰まった明るいオレンジの建物は、私たちが好んでよく通う場所だった。一階のガラス張りのフロアを外から覗きこむ。その直前に、お店の入り口のドアのところに貼られたチラシがまだあることを確認するのも忘れなかった。
夕闇が迫っていても、フロアは天国みたいに明るかった。ヨーコさんみたいな綺麗なOLさんたちが優雅に集って、にこやかにそれぞれの指先を凝視している。そして看護婦さんみたいなピンクの制服を着たスタッフが、彼女たちの手をとって、丁寧にその指先をなぞっていた。
その丹念な作業を見つめているうちに、私は怖じ気づいてしまって、思わず俯いた。すると、自分の鮮やかな指先がまっすぐ目に飛び込んできた。
昨日、徹夜するまでの勢いで完成させた私のマニキュアは、ヨーコさんみたいな幸福な桜色に、爪の先だけを白で縁取った渾身の力作だった。ラメのような曖昧な色で先を染めるのは簡単だけど、白はそうはいかない。少しでもはみ出したりラインがぼけたりすると、一気にみっともない代物に成り下がってしまう。私はそれを両手とも狂いのないよう、特別のブラシで丁寧に仕上げた。左の親指には、白で花びらまで描く気の入れようだ。
こんなこと、誰かに強要されたワケじゃなかった。入り口にあったネイルサロンのスタッフ募集の貼り紙にだって「ネイルアートをしてくること」なんて書かれているワケでもない。これは自分なりのアピールのつもりだった。私がどれほどマニキュアが好きか、畦倉の言葉を借りれば、どれほど真剣になっているかということの証明だ。いたずらに志すワケじゃない。これは私の夢なのだ。何もかもいったんリセットして心を落ち着けてみたとき、ようやく見えてきた、初心とも言える私の望み―――。
もしかしたら断られるかもしれない。「常勤じゃないと困る」とか「高校生は雇えない」とか。それならそれでかまわないと思った。私にとって大事なのは一歩踏み出すこと。リサもユミも、形は違っても夢を追いかけている。畦倉もヨーコさんも、未来が欲しいと願っている。
それはどれもが手放しに褒められる姿ではないのかもしれない。だけどどうしたって流されがちなこの世の中で、それだけ夢中になれるモノ、信じられるモノがあるということは、胸を張って自慢してしかるべきだと思う。きっと以前の私のように何も持たないでいるよりずっと、その生き方には意義があるし、訴えるものがある。
そんな人たちの輝く背中をちゃんと見てきたし、彼らに突き動かされて、私にも沸き起こった究極の夢があった。
いつか絶対、マルガリータの似合う指になってやる。
ヨーコさんのように無理のない姿勢で微笑み、スツールに腰掛け、カクテルグラスに綺麗な指を絡ませながら、畦倉みたいなバーテンダーと小粋な会話を交わすのだ。
そのためにはいいマニキュアをすることが近道なんじゃない。どれだけ自信を持ってそのグラスを持てるかが勝負どころだ。堂々とさえしていられたら、たとえ指先がコンビニのマニキュアで描いたネイルアートだったとしても、それは薄暗い店内で皓皓とした輝きを放つだろう。願わくば畦倉のような存在がプラスアルファでいれば、もっと深い輝きに変化するかもしれない。
ガラスに映った自分と不意に目が合った。不敵に目を光らせる。「ヤレるよね」、唇が強気に問いかけて歪む。
時計を見た。五時半きっかり。意を決して、私は店の扉を推した。
ご愛読ありがとうございました。