Act.5:汚れるネコ
――ルーチェ。
「ん……?」
誰かに呼ばれた気がして、ルーチェは目を開けた。
朝の光がカーテン越しにルーチェの部屋を照らしていて、いつのまにか眠ってしまったのだと理解する。
時計を見ると、7時少し前。いつも7時に目覚ましを掛けているルーチェは、大きなあくびをして起き上がった。うつ伏せで寝ていたせいで首が痛い。
「あれ? オロ?」
昨夜、隣で眠ったはずのオロの姿がなくなっていてルーチェは布団を捲った。中にもいない。
とりあえず目が覚めたようなので良かったけれど、どこへ行ったのだろう。
いつもルーチェに抱きついて眠っていて、ルーチェと共に起き、朝食を食べに一緒にリビングへ行っていたのに。
ルーチェは大きなあくびをして、ベッドに開いたままだった新聞ファイルを閉じた。
エミリー女王だったか……ルミエール王国の政治の話を読んだのは覚えているのだが、正直、何がなんだかサッパリだった。軍の縮小をするとか、貧富の差をなくすための経済政策とか……まぁ、そんな感じだったと思う。
7時ピッタリに鳴りだした目覚ましを止め、ルーチェはファイルを取って立ち上がった。後でまた続きを読もうと思いつつ、ルーチェはそれを机に置いて着替えを済ませてリビングへと向かう。
「おはよう」
「「おはよう、ルーチェ」」
リビングに入ると、すでに朝食を終えたグラートがコーヒーを飲みながらソファでテレビを見ていた。ブリジッタは娘たちの朝食を用意している。いつもと変わらない朝食の風景だ。
テーブルの下、ルーチェの席の近くに置かれたオロの皿を見て、彼女は椅子を引いた。
「お母さん、オロは?」
「あら、あの子なら私たちと一緒に起きてきて、ご飯を食べたらどこかへ行っちゃったみたいね」
体調は大丈夫なのだろうか。いや、そもそも何が原因で倒れたのかもよくわからない。
「獣医に行くかって聞いたが、嫌がってな」
グラートはそう言ってテレビを消した。
「ご飯もいつも通り食べていたし、元気そうだったわよ」
「そっか……」
ルーチェはトーストにクリームチーズを塗りながら2人の話を聞いていた。これとブルーベリージャムの組み合わせが最高なのだ。
「ルーチェは、今日は研修するのか?」
「えっと……今日は調べ物があるからしない」
そう言うと、グラートは「そうか」とだけ答え、診療所へ階段を降りて行った。
***
朝食の後、部屋に戻ったルーチェは、昨日借りた新聞ファイルを開いた。
「えーっと、どこまで読んだっけ……」
政治経済の話はザッと読んだと思う。当たり前かもしれないが、ネコに迫る内容はなかった。
ルーチェは再び文章を目で追って行き、『知られざる王室の確執』というところで目を留めた。
王家というのも華やかなだけでは語れないのだな、なんて考える。マーレ王国の国王や王子たちはとても優しそうで国王と王妃の仲も良さそうだけれど……
それは外面というやつなのだろうか?
特にネコについてわかるような内容ではないだろうけれど、ルミエール王国について書かれている記事も少ないのでなんとなく読み流していく。
『正妃イザベル様の息子ロラン王子と、側室アンナ様の息子ユベール王子との確執は、公に語られたことはなかったが、ルミエール王国内では有名な噂であった。だが、先日ロラン第二王子の起こした暴動により、もう1人の王子の存在が判明。ダミアン前国王と側室との間に生まれたというジュスト第三王子である。彼は――…』
どうやらルミエール王家は権力争いで揉めたらしい。ブリジッタが好きな雑誌の中の話でもあるまいし……
ルーチェは頬杖をついて続きを読んでいく。
「眠り王子、ねぇ……」
ジュスト第三王子は生まれたときから眠ったままで、何人ものクラドールが魔法治療を試みたけれど目を覚ますことはなかった。そして、ロラン第二王子に殺められるという何とも悲惨な形でその生涯を終えてしまったらしい。
その事件後、王位継承の儀でユベール王子が継承権破棄を宣言。荒れに荒れてエミリー女王がトップに立ったということになる。
第一王女も第二王女もすでにルミエール王国内の貴族に嫁いでおり、第三王女は1度嫁いだものの離縁されたショックで療養中だとか。
「それで4番目の王女様がねぇ……」
なんだかお城の生活も大変そうだ。
「っていうか、王家のゴタゴタはどうでもいいのよ! ネコについて教えなさいよ!」
新聞記事に当り散らしながら、ルーチェはまた違う日付の新聞を探していく。
だが、それ以前の記事は紛争の話、それ以後はエミリー女王の改革の話。ネコどころか動物の話など一文字も出てこない。
ルーチェは大きなため息をついてファイルを閉じた。
「ダメだぁ」
そもそも新聞にネコ――しかも他国のネコ――の情報が載るわけがないのだ。ルミエール王国に知り合いがいるわけでもないルーチェはお手上げ状態である。
オロについてわかることといえば、ルミエール王国から来た金色のネコで、魔法が使えるらしいということくらい。ああ、あとは小悪魔なバラルディ家のアイドルということも付け足しておこう。
そんなどうでもいいことを考えつつ、ルーチェは昨日ファイルと一緒に借りてきた資料を開いた。今日は研修をやらない分、試験問題の復習を済ませてしまおうと思って……
***
――キィっと微かにドアが開く音がして、ルーチェは振り返った。
かなり集中してしまっていたらしく、時計を見ればとっくにお昼の時間を過ぎている。
「にゃぁん」
「オロ! って、ぎゃあああ!」
可愛らしい鳴き声と共に部屋に入ってきたオロを見て、ルーチェは思わず叫んだ。慌ててオロを抱き上げると、彼はゴロゴロと喉を鳴らしてルーチェにピッタリとくっつく。
「にゃ、にゃっ」
「ちょ、ちょっとそんなに擦り付けないで!」
ルーチェは胸に擦り寄ってくるオロを掴んだまま、腕を出来る限り伸ばして遠ざけた。オロが真っ黒になっていたからだ。
毛を染めた――わけではなさそうだ。
「あぁ……もう、なんでこんなに汚れてるの?」
ルーチェは嫌な予感がしてドアを開けた。
案の定、廊下の床にはネコの足跡がプリントされていて、階段からリビングへ、おそらく玄関まで続いているだろう。
「にゃー」
「何してきたのよ?」
毛が汚れているのもそうだけれど、なんだかボロボロに見える。朝いなくなって帰ってきたらこんなに泥だらけで……一体、どこで何をしてきたというのか。
「とにかくお風呂に入らなきゃ」
ルーチェはオロを抱いたまま部屋を出てお風呂場へと向かった。
「にゃうん」
泡だらけになりながら、オロは気持ち良さそうに鳴く。ルーチェはそんなオロにお湯をバシャッと掛けた。
「もう、オロってば……汚れてたら中に入ってきちゃダメだよ。掃除が大変なんだから」
「にゃぁ?」
ぶるぶるっと身震いしてオロはお湯を弾く。
「わっ!? もう、ちゃんと拭いてあげるから水を飛ばさないで」
ルーチェはオロを抱き上げて脱衣所へ出ると、タオルに手を伸ばしてオロの身体を拭いた。ようやくオロが元の色に戻る。
「ほら、ここに乗って」
ルーチェは床にタオルを引いて、オロを座らせた。引き出しからドライヤーを出して弱めの風で乾かす。オロの毛はそんなに長くないのですぐに全身が乾いた。
「これでよし」
「にゃー」
ルーチェがそう言うと、オロはルーチェの膝に前足を載せた。彼女は彼を抱きかかえて脱衣所を片付ける。
オロは綺麗になった身体をルーチェにピッタリと寄せて、甘えたそうに頬を胸に擦り付けた。
「もう、何よ? さっきからくっついて」
確かにオロはルーチェに頬を摺り寄せたり顔を舐めたりすることも多いが、今日はなんだか一段と甘えている気がする。
「にゃー、にゃー」
「掃除するから、オロは部屋で待ってて」
しかし、ルーチェはオロを引き剥がして自分の部屋へ入れ、ドアを閉めてしまう。オロは中で鳴いていたけれど、ルーチェはそれを無視して足跡掃除に勤しむのだった。
その日の夜。
夕食やお風呂を済ませて寝仕度を整えたルーチェがベッドに入ると、オロももそもそと布団にもぐりこんでルーチェの隣に顔を出した。
琥珀色の瞳がじっとルーチェを見つめている。
「寝るよ?」
「にゃー」
オロはYESと鳴いたけれど、それは少し寂しそうな鳴き方だった。ルーチェはオロを優しく引き寄せて胸に抱いた。そして背中を撫でてあげる。
「今日は甘えん坊で変なの……」
でも、たまにはこういうのもありかな、なんて思うのはどうしてだろう。
いつもオロが助けてくれるからだろうか。彼が寂しそうにしているときは抱きしめてあげたいと……そんなことをネコに対して思うルーチェの方が変なのだろうか。
「にゃうん」
オロはひしっとルーチェの胸元にくっついて。ルーチェもオロの高めの体温を抱きながら、ゆっくりと夢の世界へ誘われていった。
――――…
細身の男の子がルーチェの視線の先、ずっと遠くに立っている。明るい茶色の髪の毛がふわりとなびいているようだ。
何度も「ルーチェ」とどこからか声が聴こえてくる。
自分が進んでいるのか、それとも彼が後退してきているのか……だんだんと近づいてくるのに、その男の子が振り返ることはない。「ルーチェ」と呼ぶ声は近くなることなく、その男の子が発しているのかも定かではない。
そして、ルーチェの目の前に彼の背中が大きく映って――
…――――
――ルーチェ。
急に大きく響いた声に、ルーチェはパッと起き上がった。
「あ、れ……?」
なんだか変な夢を見た。時計を見ると、7時少し前。
「誰だろ……」
夢に見た男の子――見えたのは後姿だけだったが、会ったことはないと思う。
それに、ルーチェを何度も呼ぶ声。あれは、あの男の子の声だったのだろうか。少し高めの少年の声だった。なんとなくどこかで聞いたことあるようなトーンに感じたけれど、どこで聞いたかは思い出せない。
「オロも、またいないし」
昨日抱いて眠ったはずのオロの姿がなく、ルーチェはため息をついた。昨日と同じでどこかへ出かけたのだろうか。
また汚れて帰ってこないといいが……
ルーチェはもう1度ため息をついて、ちょうど鳴り出した目覚ましを止めてベッドを降りた。
***
それから1週間。
オロは毎日のように泥だらけで帰ってきた。初日にルーチェに注意されてからは、玄関の前で鳴いて迎えを待つようにはなったのだけれど、一体何をしてこんなことになるのかが謎だ。
ルーチェは毎日オロをお風呂に入れ、オロは更にルーチェに甘えるようになって……そして、ルーチェは少年の夢を見続けている。
眠れていないわけではない。むしろ、ぐっすり眠れているのに夢を見る。
いや……夢を見ているということは眠りが浅いということのはずなのだけれど、不思議とスッキリ目が覚める。
もっと不思議なのは、声がだんだんとハッキリしてきていることだ。今はもう、ルーチェを呼ぶのは彼だと確信している。
だが、なぜ……?
ルーチェは彼を知らない。ならば、少年がルーチェを呼ぶのは彼女の願望? それとも、古い迷信のような――少年がルーチェを想っているから夢に出てくるとか。
「……なわけないよね」
はぁっとため息をついて、ルーチェは調合していた薬の火を止めた。
ブリジッタやグラートに、最近変な夢を見ると話したこともある。しかし返ってくるのは「疲れているんじゃないか」というような言葉ばかり。
確かに、オロが光ったとか魔法を使えるとか、知らない少年が夢の中でルーチェを呼ぶとか……ルーチェ自身、変だと思う。
でも、事実なのだ。ルーチェが自分の目で見て、耳で聞いて。すべてが現実なのに。
「現実っていうか、夢? うーん、でもオロは実在してるし……あぁ、もう! 集中しなきゃ」
ルーチェはパンッと両手で頬を叩き、薬草を刻み始めた。
あとはこのオーメンタールを入れてよく混ぜれば、今作っている薬は完成する。オーメンタールは小さな可愛らしい白い花をつける薬草で、魔法や薬の吸収を促進し、効果を高めてくれるものだ。
「温度は……うん、これなら大丈夫」
オーメンタールは調合の最後、火にかけたままで葉をそのまま入れるクラドールも多い。しかし、葉に含まれる効果促進作用成分は、人肌くらいが一番溶け出しやすいようなのだ。それで、ルーチェはいつも少し冷ましてから鍋に刻んだ葉を入れることにしている。
薬の調合は、基本の煎じ方はマニュアルがあるけれどクラドールによってアレンジを加えることがある。特にオーメンタールのような、直接病や傷に働きかけるものでないメインの薬草を助ける働きをする薬草についてはクラドールの力量が問われるところでもある。
基本の煎じ方さえ押さえていれば、定められた効果は出るようになっている。その効能をどこまで高められるか――クラドールの腕や診療所の評判にも影響するくらいだ。
特にこのマーレ王国は、国民のほとんどがそういった知識を持っているためにチェックも厳しい。
「できた!」
ルーチェはできあがった薬を小瓶に分け、棚に綺麗に並べた。
これで今日の研修は終わりだ。
使った器材を丁寧に洗って消毒し、薬草なども保存用と捨ててしまうものを分け、すべての片づけが終わったところで調合室を出た。
「あ、お姉ちゃん!」
廊下に出ると、アリーチェに呼び止められた。
「オロ、今日も泥だらけだったよ? お姉ちゃん、なかなか調合室から出てこないから、私がお風呂に入れてあげたからね」
「そっか。ありがと」
オロはいつもより早い時間に帰ってきたらしい。ルーチェはアリーチェにお礼を言って階段を上ろうとする。
だが、アリーチェは少し真剣な顔をしてルーチェを再び呼び止めた。
「ねぇ……オロ、帰りたがってない?」
「え……?」
その言葉に、ルーチェの心臓がドクンと嫌な音を立てた。
「オロ、最近寂しそうにしてるの、気づいてるでしょ?」
「う、うん……でも、それは…………」
そこまで言って、ルーチェは言葉に詰まった。それは――?
確かにオロは最近妙に甘えていて、いわゆるホームシックのようなものなのだろうと軽く考えていた。
でも、オロは自力で泳いできた。それは、帰ろうと思えばルミエール王国へ自力で帰れるはず。そんな風に都合よく解釈していたが、もし流されてきただけだったら……?
何も言えなくなってしまったルーチェを見て、アリーチェはフッと息を吐く。
「まぁ……帰るならお別れ会くらいはするし、急にいなくならないでって言っておいてね」
「……うん」
アリーチェなりの気遣いなのだろうけれど、ルーチェの心には重く石が落ちてきたみたいに、わだかまりが残った。
ルーチェが部屋に戻ると、オロはベッドの上にいた。窓に前足をかけて遠くを見つめている。
その姿を見て、ルーチェはチクリとした痛みを感じた。
オロはよく窓の外を見つめている。ルーチェには懐いてくれているようだけれど、やはりアリーチェの言うように元いた場所へ帰りたいのではないだろうか。
そう思うと、なぜか胸が苦しくて。ルーチェはフッと息を吐いてベッドに座った。
「にゃうん」
オロはベッドが沈んだことでルーチェに気がついたらしく、窓から離れてルーチェの膝に乗った。
「にゃっ、にゃっ」
ルーチェの胸に前足を添えて身体を支え、じっと琥珀色の瞳でルーチェを見上げるオロ。
ルーチェが首を傾げると、その瞳が揺れた気がした。寂しそうに……
「オロ……帰りたいの?」
思わずそう問いかけた。
「にゃぁ」
すると、オロは頬をルーチェの胸に摺り寄せて抱きつこうとする仕草を見せた。「帰らないよ」と、言っていると思っていいのだろうか。ルーチェは堪らずオロを抱きしめた。
「ねぇ……私、研修も頑張るから、だから……」
帰らないで――そんな風にネコに言うのは変なのかもしれないと頭の隅で思いながら、オロは不思議なネコだからルーチェも不思議な気分になるのかもしれないと変な理由をつける。
「だから、そばにいて」
「にゃー」
そのルーチェのお願いに……オロがYESと鳴いてくれたことがとても嬉しかった――