20 迫る影
ざわめきの中、二つの影が石畳を渡っていった。
粗末な外套に身を包んだ旅人たちだ。しかし、その立ち居振る舞いには隠しきれない気品がある。
小麦と灰の香るパン屋の扉を男たちがくぐった瞬間、通りの片隅で黒いフードの影が小さく息をのんだ。
「……はぁああ……フリードリヒ様、最高ですわ」
ため息とともにうっとりと身をくねらせたのは、ウェンロウ国第二公女・カランだ。白い手を胸にあて、真珠のような瞳を輝かせている。
「姫様っ! もうおやめ下さい! これは……婚約者の域を超えています! つきまといです、つきまとい」
隣で青ざめた声を上げているのは、家臣のルークだ。初老の紳士だが、黒衣の肩に手を当て、必死に制止している。
「だって、未来の王太子とそのご友人よ? 未来の妻が観察をして、何か、いけないことがありまして?」
「いけないことしかございません、姫様!」
姫は首を傾げ、通りの灯に照らされた窓をうっとりと見つめる。
店の奥では、庶民の衣をまとった王太子フリードリヒが、楽しげにパンを選んでいる。
傍らでは、公爵カイルが気取った仕草で硬いパンを試し割ろうとして、指を痛めているようだ。
「ああ……フリードリヒ様のあの玉のような美しさ! 眼福ですわ……!」
「姫様、お願いです、今すぐ城へお戻りを」
「ルーク。あなたには情緒というものがないの?」
「情緒より常識を優先して頂きたいのです!」
姫はふんわりとスカートの裾をつまみ、囁くように言った。
「確かに……お城の籠の中におられるフリードリヒ様も、それはそれは麗しいけれど――」
彼女の視線の先、パン屋の窓越しに、リアナが素の表情で笑っている。
「こうして街に出て、友と肩を並べておふるまいになるお姿……! ああ、生きていらっしゃるわ。尊い」
ルークは額を押さえた。
「はぁ……春祭りの招待から、姫はどうかされておる。これはもう恋というより信仰ですな……」
だが次の瞬間、公女の目がさらに輝きを増した。
「あら? お隣の殿方は……まあっ! なんて麗しいの!」
「姫様、お願いですから増やさないでください、崇拝対象を!」
「何と言うお方かしら。フリードリヒ様とは違うタイプですわね。あの切れ長の目、どこか陰のある知性……何よりも色気がすさまじいわ。隣を通ったパン屋の女将がずっと口を開けているもの。絶対にいい匂いがする男ね」
「姫様! はしたのうございますよ!」
「……まあっ! この距離、この空気……なんて尊いの!」
「姫様、声をお抑え下さい!」
「あなたの方が大きな声よ。見てごらんなさい、ルーク。あの男、あんなに優しくフリードリヒ様の手を取って」
「手を取っておりません! パン屑を払っただけです!」
「違うわ、あれは『触れたいけれど触れられない』逡巡」
セレスティナの頬は紅潮し、目はうるんでいる。
窓の中では、リアナが堅焼きパンを割ろうとして力を入れ、カイルが思わず支えているだけなのだ。
が、姫には違って見えるらしい。
「ほら、見て! あの瞬間の息の合い方! なんという運命の調和!」
「姫様、ただの共同作業でございます!」
「ルーク、あなたにはこの美が見えないの? あれは友情を超えた何か――そう、魂の絆よ!」
店の中でフリードリヒがパンを口にし、笑った。
カイルもつられて微笑む。
その光景に、公女は両手を胸にあててふるふると震えた。
「……はぁ……心が洗われますわ……」
「姫様、なぜ涙を……?」
「知らなかったの。愛には、いろいろな形があるのね……。ああ、なんて崇高なの……!」
路地裏に、新しい世界が開かれた音がした。
昔から、わがままではないが、非常に自由な公女なのだ。
哀れな家臣ルークは頭を抱えたまま、空を仰ぐしかなかった。




