19 お忍び
カイルはそれには答えなかった。
ただ静かに微笑っていた。
「気づけば君に何もないようにと祈っているんだ」
「それは……ありがとうございます」
「俺自身も戸惑ってるんだ。自分の変化に」
面白そうにカイルは言った。
通されたカイルの部屋は調度品はあれども、整然としていた。
この人は何が好きなのだろう。
どんな生き方をしてきたのだろう。
リアナは部屋以上に整ったカイルの機嫌の良さそうな横顔を見ながら思った。
「焦がれてはいけないと思えば思うほど、想ってしまう」
何かの詩のようだ。
リアナは壁にかかっている黄金の額縁をそっと見ていた。
ものすごく高そうだ。
ぼうっとしていると、気付けばカイルの顔が間近に迫っていた。
「わっ?
「聞いている?」
「もちろん聞いてま……聞いているよ」
「ぼうっとしているようだった。何を考えていたの?」
子犬のような、赤ん坊のようないたいけな表情になる。
あの金ピカの額縁を売り払ったら、パンやのおかみさん何人分の生涯年収になるかを考えていました、とは言えるはずもない。
焦りながらリアナは言葉を探した。
「えーと、えーと……パン……あっ! 城下のパンやを知ってる? あの堅焼きパンのことを考えていたんだ」
我ながら良い思いつきだった。
リアナはうまくごまかせたのを確信しながら、瞠目するカイルに視線を合わせた。
「パン」
「石炉亭という店があって……そこの名物の堅焼きパンがとても美味しくって」
「食べたことが?」
カイルにそう言われて、リアナはハッと気付いた。
王族が庶民の大衆飯を知っていてはいけない。
「えー……っと、侍女のマティルダが言っていたような気がする!」
勝手に名前を出して申し訳ないが、マティルダのおかげでなんとかお茶を濁せた。
城下町の通り、職人通りの靴屋や鞄屋の中に、庶民の味方というていでどしんと建つ石造りの店だ。
リアナが路上劇でトライア劇団として生計を立て始めた頃、団長たちと一緒に何度もお世話になった。
「名物が堅焼きパンと言われるハードブレッドなんだけど、石かと感じるくらいに固いんだ。だけど、ナイフで切ればパリッといい音をたてて、たちまち小麦の香りがして、もちもちした生地が出てくるんだ。そこにハムの切れ端と余ったチーズを載せてガブッとやると、もう最高」
「へぇ? とても美味しそうだね」
リアナは再び我に返った。
「……と、マティルダが! 言っていたんだ」
何度も本当に申し訳ないが、マティルダがいてくれて良かった。
すると、カイルがにこっとして、丸いアンティークなカフェテーブルに置いてあった銀色のベルをチリンと鳴らした。
「悪いんだけど、いくつか衣装をとってきてくれ。こちらの…こちらの方の分も」
お出かけだろうか。
リアナは少し後ろ髪をひかれるおもいでいた。
「それなら私はそろそろお暇を……」
「待って。君がいなくちゃ仕方ないだろう。これから行こう」
「行くってどこに?」
「石炉亭だよ。君のおすすめの堅焼きパンを買いに行こう」
「えっ? だって、それは」
「もちろん公爵と王太子じゃ大変なことになるから、忍んで行くんだよ。ほら、侍従が衣装を持ってきてくれた。どれにしようか」
カイルはにこにこと大きな箱をもった侍従たちを指し示した。A、B、C……なんとDまである。
この公爵、忍び慣れている。
改めてただものではなさそうだ。
「ちなみにAは旅の商人風。Bは巡礼者と護衛。Cは道化師だ。えーとDは何だったかな……ああ、思い出した。熊の着ぐるみだ」
とりあえず、熊だけは無い。
*
公爵邸の裏口から、昼間の陽光の中に二つの影が滑り出た。
一人は煤けた外套をまとい、腰までの髪を粗縄で束ねた若者。もう一人はそれより小柄で、大きくダボダボの旅人風の衣服を身につけている。
「馬車で行くわけにもいかないからね。歩いて行こう」
一応はカイルが「剣を研ぎに行く」と口実を作ってくれたのだ。
だが実際の目的地は、堅焼きパンなのだ。
リアナは勝手知ったる街が見えてきて喜んでいた。
寄ったのは都でも指折りの鍛冶屋だった。
外からでも炉の熱気が伝わる。
店主の頬は煤けていて、腕の筋肉は岩のように固い。
リアナは少し気圧されながら、黙って後ろに立った。
親方がカイルに気付いて、ふと手をとめる。
「おお、カイル様。できてますよ。いやあ、何度見ても美しい刀身! いいものを見させてもらっております。珍しいですな。普段は自分で手入れなさるのに」
店主の言葉に、リアナは思わず目をしばたたかせた。
公爵が自分で剣を研ぐ――。
そんな姿、想像したこともなかった。
そんな鍛冶場を訪れたリアナとカイルを、遠巻きに見守る黒いローブの影があった。




