★六十八段 深く信を致しぬれば
徒然草 六十八段 原文
筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづゝ焼ききて食ひける事、年久しくなりぬ。
或る時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来りて、囲み攻せめけるに、館の内に兵二人出いで来て、命を惜しまず戦ひて、皆追ひ返してんげり。いと不思議に覚えて、「日比こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼みて、朝な朝な召つる土大根に候う」と言ひて、失せにけり。
深く信を致しぬれば、かゝる徳もありけるにこそ。
あなたに神はいるだろうか?
俺はずっと無神論者だった。神なんていない、そう思っていた。そんな存在があるなら何故うちはこんなにも貧乏なのかと小さい頃は神を憎んだりもしたものだ。
しかし、過去形だ。
毎日、朝食の前にするルーティーンがある。それは休日の土曜であっても実践しなければならない。
今朝のメニューはフレンチトーストだ。酒を飲まない代わりに甘いものはよく食べる。部屋中に広がるバターの香ばしい匂いが空きっ腹を刺激するが、いただきますの前に俺はロフトに上がる。抄子ちゃんに見つからない様にとロフトの隅に隠し扉を仕掛けてある。ガコンと力を入れて板を外す。
そこには神棚がある。
ホームセンターで木材を買ってきてDIYした簡素な物だが、なに、信仰はお金じゃない。大事なのは気持ちだ。
「今日も世界中のモテない男子にラッキースケベが起きますように」
神棚に鎮座する御神体に祈る。
どうも、おっぱい教の信者の卜部兼好です。
敬虔な信者である俺は毎朝こうして抄子ちゃんのブラジャーに祈りを捧げているのだ。
今日も真っ赤な御神体は妖艶で綺麗で、何よりデカい。例えるならスイカを運ぶネット、巨人の水中眼鏡、祝福の聖杯。
去年、抄子ちゃんと初めてキスをした日の事だ。
結婚式の帰りに酔い潰れてうちに泊めた。ドレスが汚れてしまったから俺のTシャツやジャージを着させて彼女を家まで送った。そして部屋に戻り、寝直そうとベッドに潜り込んだら抄子ちゃんのブラジャーが布団から出てきたのだ。寝ている間に無意識に外してしまったのだろう。「ブラジャー忘れてたよ」なんて中々言えなくて返すタイミングを無くしてしまい、こうして神棚に奉っている。
これはもう俺のものだ。俺のブラジャーだ。もう返さない。
――プルルルル、プルルルル――
「もしもし? 紫ちゃん?」
スマホの呼び出し音の主は抄子ちゃんの妹、紫ちゃんだった。今日は紫ちゃんとデートの約束をしているのだ。
「あ、そうなの? 仕事ならしょうがないよ……大丈夫、じゃあ一時間半遅らせようか……うん、じゃあ現地で」
十一時にいつも抄子ちゃんを拾うコンビニで待ち合わせだったのだが、急な仕事のトラブルで会社に行かなくちゃならなくなったらしい。待ち合わせ場所へ現地集合することにした。
抄子ちゃんは昨日から文科省の講習会の為に東京に行っていて、今日の夜に帰ってくる。鬼の居ぬ間に妹の紫ちゃんとデートしよう、そういう訳だ。
父親似で可愛い系の抄子ちゃんと違いお母さんに似た紫ちゃんは鼻筋がはっきりと通った美人系。税理士として働いていてるバリバリのキャリアウーマンで、女性が憧れる女性といった感じだ。抄子ちゃんも「紫は自分と違ってしっかりしてる」とよく自慢している。
うーん、一時間空いてしまった。どうしようかな。今日は筋トレの日ではないし、一時間じゃロードバイクに乗るには時間が足りない。
「そうだ、公園に写真でも撮りに行こうか」
抄子ちゃんとの思い出を綺麗な形で残そうとしっかりとしたカメラを買った。高画質な動画も撮れるお高いヤツだ。試しに何枚か風景を撮っているのだが、これが意外に奥が深く面白い。今日は天気もいいし、写真日和だろう。ヨシと心の中で頷いて、ヨーロッパの有名な自転車メーカーのロゴが入ったボディバッグにカメラを入れ、準備万端だ。
「……せっかくだ。御神体も持っていこう」
思えば御神体はずっとこの部屋に籠りっぱなしだ。たまには陽の光を浴びさせた方がいい。
「これでカンペキ、と」
形を崩さないように慎重に御神体をしまい、公園へと向かった。
『徒然ww ★六十八段 深く信を致しぬれば』
町役場の目の前にある大きな公園には日本の有名な建造物や名所を真似て小さくしたモニュメントがいくつかある。その中の一つ、ミニ太陽の塔の胸の部分に御神体を供えてシャッターを切った。
「いいよ、最高だ……綺麗だ……その表情グッとくる……」
パシャリパシャリと御神体のお姿をカメラにおさめていく。
ああ、何て神々しいんだろうか。真っ白なボディーに装着された赤いブラジャーはまるであどけなさの残る幼い顔に引かれた大人びた口紅の様で、ミニ太陽の塔の無機質な顔が色恋を覚えたばかりの乙女の様に色付いて見えた。
「ママー、あの人ブラジャー写真に撮ってる」
「コラッ、見ちゃいけません!」
好奇心溢れる男の子の目を手で覆い、母親がそそくさと場を離れていく。
女性にはわかるまい。
しかし男性は皆おっぱい教の信徒なのだ。
そもそもおっぱい教の歴史は古い。
かの邪馬台国の女王、卑弥呼の弾圧によって一度はこの島国から絶滅しかけたおっぱい教は女性の目を盗みひっそりと信仰されてきた。
1181年に日本を襲った大飢饉では女性の胸が栄養不足で大きくならず、男達が嘆き悲しんだというのは有名な話だ。俺はこれを当時の元号から「1181揉めずに養和の大飢饉」と語呂合わせで覚えていた。ちなみにテストには出ない。
ミニ太陽の塔をあとにして、次はミニ富士山の麓に御神体をお供えし、写真を撮っていく。
これも有名な話だが、富士山のFはFカップのFだ。
おっぱい教の神の山として富士山は信仰の対象になっている。冠雪の万年雪は母乳ともいうし、大きいは正義だ。
いいな。雄大な富士に妖艶なブラジャーが美しい。
やっぱりブラジャーって凄い。機能こそのデザインというか、単純におっぱいを崩さない為だけに存在する物なのに、それこそが男子からの憧れにもなっている。夏の透けブラはエナジードリンクだ。
「いつもありがとう神様」
神の山と神の器に手を合わせ感謝する。
いいな。こういうの。信じる物があるというのはそれだけで生きる意味がある。
――タンタララン♪タラララララン♪――
役場から流れるメロディーが十二時を告げる。正午の放送と言えば輝ける聖光XXだが、山田は元気にしているだろうか。
「っと、もう十二時か。急がないと」
楽しい時間はあっという間に過ぎる。御神体をボディバッグにしまい、待ち合わせ場所へと向かった。
とある結婚式場、その一室で紫ちゃんとランチを楽しんでいた。テーブルの上にはフランスの二ツ星レストランで修業したというこの式場自慢のシェフが腕を振るった料理が次々と運ばれてきて、紫ちゃんはだらしなく頬っぺたを落としっぱなし。
「美味しーい! ランチでこんな豪華なんだから披露宴の料理はもっと凄いんでしょうね! 式が楽しみだなあ」
こうして見るとやっぱり姉妹なんだなあと思う。顔は似ていないが、表情の変化というか、感情表現の仕方がそっくりだ。
「抄子ちゃんがそこは妥協出来ないって言って、料理が決め手でここを選んだぐらいだからね。本番の料理も期待しててよ」
正直に言うと俺はそこまで結婚式にこだわりはない。引き出物にしても披露宴の内容にしても抄子ちゃんの言いなりだ。こういう事は彼女の希望を最大限叶える様にしておけば間違いはないだろう。
「お食事中に申し訳ありません。打ち合わせをさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
俺達の担当女性プランナーの定岡さんがテーブルにやって来て頭を下げる。紫ちゃんが慌てて立ち上がり同じ様に腰を折った。
「とんでもないです! 私が遅れたせいだから気にしないでください」
本来なら打ち合わせをした後にランチの予定だったのだが、紫ちゃんの仕事が遅くなり食べながらの打ち合わせになってしまった。
「ゆっくりお時間が取れればいいのですが、午後から他のお客様との予定がありまして、申し訳ございません」
真っ直ぐ九十度にお辞儀をしたまま定岡さんは再度謝る。接客業というのは本当に大変だ。客の都合でも相手に気を使って、本当に頭が下がる。教師というのも接客業みたいなものかもしれないが、親にはともかく生徒に対しては教師と生徒という立場が確立しているから気を使うにしても種類が違う。客と店という枠には当てはまらない。
「いえ、定岡さんにはいつも迷惑をおかけして申し訳ない。時間も無いようですから、打ち合わせしちゃいましょう」
謝罪合戦を続けても仕方が無い。俺の言葉に定岡さんもテーブルに着き本題に入る。
「……で、妹様にはキャンドルサービスの間に準備して頂こうと予定しております」
「わかりました。じゃあキャンドルサービスが終わったら私の出番、って事ですね」
実は紫ちゃんから「結婚式でお姉ちゃんにサプライズでお祝いしたい」と相談を受けた。足が悪くて来られない県外のお祖母ちゃんや学生時代の恩師達の所を回ってお祝いのビデオレターを撮影し、それを上映して最後に手紙を読み上げたいのだと言う。
勿論これを俺は二つ返事で快諾。抄子ちゃんには内緒で計画を進めているという訳だ。
姉妹っていいよな。うちの兄貴がサプライズなんてやったら気持ち悪いだけだもの。
「……わかりました、ではその様に手配しておきます。また何かありましたら新郎様を通してでも、直接私に言って頂いても構いませんので」
「はい、独断でやるのはあれなんで、卜部さんを通してまた連絡するかもしれません」
「かしこまりました。では妹様の件は終わりまして、新郎様。お写真のデータをお預かりしてもよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
披露宴で流すスライドショーで使う写真のメモリーカードを持ってくる約束をしていた。カメラから取り外して手渡すと、定岡さんがタブレットにメモリーカードを繋いでデータを取り込んだ後、俺に返却してくれた。
「今日はこれで全て終わりですね……あ、そうだ」
定岡さんはタブレットに視線を落とし写真を確認していたが、何かを思い出した様に顔を上げた。
「新郎様、今日は新婦様に連絡がつきますでしょうか? 衣装担当の者からサイズを確認したいと言われていまして」
来週にウェディングドレスの試着を予定していた。レンタルにしようか悩んだが折角だしオーダーで作る事にしたのだ。ドレスと言えば女性の憧れだろうし、そこぐらいは贅沢してもいいだろう。逆に俺の衣装は誰も興味ないだろうからレンタルで済ますつもりだ。
「彼女は出張中で、夜にならないと連絡つかないんです。急な用事だと言えば出てくれるでしょうが、急ぎますか?」
抄子ちゃんは学生の頃全国大会に出場した事もあり、水泳部の顧問の中でも県の教育委員会の代表として文科省に出張している。ダイエット部なんて訳のわからない俺とは違い責任があるのだ。出来れば仕事の邪魔はしたくない。
「そうですか、今日中に確認出来れば一番スムーズなんですが……試着用のドレスを作るのに胸周りのサイズが不安らしくて。流石に新婦様のバストサイズなんてわからないですよね?」
散々揉みしだいているが数字なんてわかるはずもない。手で「これぐらいです」とおっぱいの形を作って見せても伝わらないだろうし、明日また連絡して貰おうか……あっ、待てよ。
「そうだ、今日持ち歩いてたんですよ。抄子ちゃんのブラジャー!」
良かった良かったと呟きながら笑顔でボディバッグから御神体を取り出してテーブルの上に置いた。いやあ、こういう偶然ってあるんだなあ。
「卜部さん、それは……まさかお姉ちゃんの……?」
「いやあね、まさかこういう形で役に立つとは思わなかったよ! きっと乳神様の思し召しだ! やっぱり信じてると救われるんだ……ね……あれ?」
二人からの冷たい視線が突き刺さる。そりゃそうだ。彼女のブラジャー持ち歩いてる奴なんているかよ。しかもそれを嬉々として人前に出すな。
「ち、違うんです! 抄子ちゃんがウチに忘れていったんです! 返そうと思ってたまたま……」
「たまたま、の割には随分とアーティスティックなお写真をお撮りな様で……」
「な、何これ? 何で富士山の麓にブラジャーが置いてあるの?」
定岡さんが俺とは目を合わせない様に紫ちゃんにタブレットを見せる。そこにはさっき撮った御神体のポートレートが写っていた。
しまった、定岡さんに渡すメモリーカードに御神体の写真を撮ってしまっていたようだ。
死のう。
「あはは、そ、そうだった、保健体育の授業で使おうと思って! ブラジャーはとても神聖な物で決してイヤらしい目で見るんじゃないという事をですね、このアート作品で伝えようと」
バカかよ。そんな授業やったら教育委員会がすっ飛んでくるわ。
「な、なるほど。授業なら仕方ないですね!」
「そ、そうだよね。し、仕事で使うならしょうがないよね」
話に乗って俺をフォローしてくれる二人。いっそ思いっきり罵倒してくれ。
「うん、仕方ないんだよ。あは、あはは……」
しばらく室内には俺の乾いた笑いが空しく響き、どうか義兄としての尊厳が無くならないようにと神に祈るが、そんなのとっくに一ミリも残ってねえよジーザス。
徒然草 六十八段 現代訳文
九州のあるところに某という押領使(昔の役職で軍隊をまとめる兵隊長のようなもの)がいた。彼は大根を万病に効く薬と信じていて、毎朝二本の大根を焼いて食べる事を長年の習慣としていた。
ある日、屋敷の警備が手薄な時を狙って敵が攻めてきた。彼は敵に囲まれて絶体絶命、死を覚悟するが、どこから来たのか二人の屈強な戦士が現れ命を惜しまぬ程の戦いっぷりを見せて敵を全て撃退してくれた。見ず知らずの恩人を不思議に思い、「ありがとうございます。見知った間柄でしたら大変失礼ですが、あなた方は一体どちら様でしょうか?」と聞いた。戦士達は「あなた様が毎日食べている大根の妖精です」と言ってたちまちに消えてしまったという。
どんな事でも深く信じていればひょんな時に救われるのかもしれない。