七十一段 面影は推し測らるゝ
※ Re★序段の数日後の話です。ちなみに二条先生の名前は吉田兼好が仕えていた二条天皇から。日野君は一条兼良のパトロンだった妖術BBA、日野富子から。
徒然草 七十一段 原文
名を聞くより、やがて、面影は推し測らるゝ心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ、昔物語を聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覚ゆるにや。
また、如何なる折ぞ、たゞ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かゝる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出ねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
人と会うため、地元のT市に来ていた。
折角だから駅前の街並みを見てみたくて、電車に乗ってやって来た。
高校までをこの街で過ごした。学校帰りには駅前に寄って友達と買い食いしたり、あそこのバーガーショップではバイトもしていた。
思い出しながらゆっくりと歩く。
駅前もすっかり変わってしまったというか、寂れてしまったな。カドの煙草屋がなくなっていたり、連絡通路や階段なんかも汚れが目立ってきた。記憶との齟齬に戸惑う。
初めて見るような、でも見た事有るような。
実際ここで暮らして来たのだから見慣れていたはずなのに、既視感が湧いてきて不思議な感じだ。
「卜部? 卜部じゃないか?」
名を呼ばれ振り返る。
ああ、懐かしいな。
「二条先生。ご無沙汰しております」
中学時代の恩師、二条先生だった。
美術教師の二条先生は三年の時の担任で、貧乏だった俺の面倒をよく見てくれた。給食費だって立て替えてくれて、返済しないでいい奨学金も探してくれた。本当に頭が上がらない。
そして、俺が教師を志した理由でもある。
カエラに聞いた事はないが、恐らく彼女にとってもそうではないのかと思う。アイツのPNの一条は二条先生の名前をもじった物だから。
「8年前の成人式以来か? なんだなんだ、すっかり逞しくなったな。以前はヒョロヒョロだったのに」
「あれから鍛えました。先生は逆に太ったんじゃないですか?」
俺にとっての二条先生と言えば働き盛りで、厳しくも優しい愛に溢れた人だった。当時四十才だったから今は五十過ぎか。よく見なくてもお腹が出てきて、皺も増えた。髪は全部真っ白になって、単純に言えば老けた。
だけど、俺に向ける笑顔は変わらない。というか、その笑顔を見た時の、俺の気持ちが変わらないのだ。
「もうすっかりジジイだからな! どうだ、教師生活は?」
先生とは今でも年賀状を送りあっている。その中である程度の近況報告はしていた。
「今年から三年生を受け持つ事になりまして、責任で押し潰されそうです」
「そうか。俺も今年から校長なんてもんをやらされる事になっちまったが、三年生の担任の方が大変だよな」
実際校長は暇なのだ。南部中でも教頭先生はいつも忙しそうに走り回っているが、校長は草取りに精を出している。
「二条先生の様にあろうとは思っているのですが、自分の未熟さを日々痛感しております」
「俺だって毎日悩みながら生徒と向かい合っていたさ。そうだ、今度ゆっくり酒でも飲もうか。何せ積もる話はいくらでもある」
酒の場は苦手だが、二条先生が相手なら別だ。会ったら相談したい事が山ほどあった。二つ返事で快諾する。
「是非。僕も聞いて欲しい事があるんです」
電話番号を交換し、二条先生と別れた。
嬉しいなあ。二条先生は俺にとって目標とする人だった。壁に当たった時にはいつも、二条先生ならどうするだろうか、そんな事を考えて仕事をしていた。
しかし、二条先生も校長か。昔は管理職になんて絶対なるもんかって言ってたのになあ。
――カランコロン――
高校の頃よく通っていた喫茶店のドアを開ける。小気味良い鈴の音が響いた。
この店では一番奥の六人掛けの席が定位置で、部活のメンバーと文学についてあーでもないこーでもないと討論したものだ。
三年の時には同じ部室を使っていた漫研のカエラも加わって、青春と言えばこの店が真っ先に思い浮かぶ。
そんな思い出の詰まったソファに一人で悠々と座る後輩を見つけ、帰りたい気持ちを抑えて俺も向かいに腰を下ろした。
「久し振りですね卜部先輩。もう戸沢先輩にフラれた傷は大丈夫なんですか?」
ったく。開口一番それかよ。
「うるせえブッ飛ばすぞ。アメリカから帰ってくんな」
二つ下の後輩で、カエラの婚約者、日野富雄。
俺と同じN大卒で、最大手の自動車メーカーに技術職として入社し、今はアメリカの拠点に海外赴任中。来年の春に戻って来る予定で、その時にカエラと籍を入れるらしい。一昨日から本社で行われる会議の為に一時帰国しているという。
正直会いたくないが、こんなのでも後輩だ。会いたいと言われたから一応先輩として来てやったのだ。
「とか言って、戸沢先輩にフラれた時に一人になると不安だから泊まってけって二週間も帰してくれなかったのは誰でしたっけ?」
高三の時、同じ学校の彼女が出来た。大学は別だったが名古屋にアパートを借りた時も隣同士の部屋を借りて、ほとんど同棲していた様なものだったが、三回生の時のクリスマスに浮気され見事にフラれた。
その時に慰めてくれたのが日野と、一つ下の自殺した後輩の芦刈だった。理由もなく海に連れ出されたり、二十四時間耐久カラオケしたり、お陰で俺は落ち込む時間がなかった。
「紛れもなく俺だよ。あの時は芦刈のお陰で立ち直れた。あれ? お前いたっけ?」
「いたわ! 車出したのも俺じゃ!」
大学時代、こいつと芦刈と三人でつるむ事が多かった。水と油、顔を合わせればイヤミを言い合う俺と日野を上手いこと中和してくれてたのが芦刈だった。しかし芦刈がいなくなった今は二人とも悪態をつくばかり。
「すまん、もう忘れた。芦刈の墓には行ったのか?」
「ええ。昨日、小夜と手を合わせて来ました。芦刈先輩、卜部先輩の婚約がおじゃんになればいいのにって言ってましたよ」
何故ここまで日野が俺に対してアタリがきついのか、それはカエラが原因の様だ。カエラが高校に入学して漫研に入ってから、俺と話す事が多く、この店でもずっと俺の隣に座っていた。別に男女の関係があった訳じゃないが、日野は当時カエラが俺の事を好きだと思っていたらしいのだ。カエラと婚約した今でも日野にとって俺は憎むべき恋敵らしい。
「言うか! 一番喜んでくれてるのはアイツだよ」
実際、智美が他の男に走った時は本当にきつかったもんな。自分には価値が無いんだと本当に思った。でも芦刈や日野が必死に励ましてくれて俺は立ち直れた。そんな恩のある芦刈の支えになれなかったことが今でも俺と日野の心に重くのし掛かっている。
「俺も喜んでますよ。おめでとうございます卜部先輩」
また嫌みを言うかと思ったら急に祝ってきた。ふふ、相変わらず天の邪鬼な奴だ。
「小夜から彼女さんの写真を見せて貰ったんですが、めちゃめちゃ綺麗な人じゃないですか。本当に良かった。おめでとうございます」
そう言って微笑む日野は何だかずいぶん大人っぽくなって、少し寂しくなった。そりゃもうガキのままじゃいられない。よく見たら日野の頭も目立ちはしないが白髪が増えていて、単純に言えば老けた。慣れない海外で苦労しているんだろう。
「ああ、ありがとう。お互い幸せになろうぜ」
芦刈の分まで、とは言葉にしなかったけど、言わずとも伝わったのか日野は大きく頷く。そしてまた憎まれ口を叩いた。
「らじゃッス。ま、俺の小夜が一番ですけどね。またフラれない様に精々頑張ってください」
「うるせえブッ飛ばすぞ」
俺もそんな風に乱暴に返すけど、嬉しさが込み上げてきてニヤつくのを止められなかった。
『徒然ww 七十一段 面影は推し測らるゝ』
日野と別れた後、ついでに実家に帰ろうとタクシー乗り場を目指した。駅から実家までは二キロ程と歩けない距離ではないけど、日射しが強くて暑さが厳しく、姪っ子に会う前に汗をかきたくなかった。おじちゃん臭いと言われたら泣ける。
しかし、今日は懐かしい顔によく会うなあ。
こんな日はつい昔を思い出してしまう。
勿論、いい思い出ばかりじゃない。中には思い出したくない事もある。特に智美の事を思い出すのはキツい。
戸沢智美は初めて愛した女性だ。
俺の初恋と言えば従姉の雪子姉ちゃんだけど、姉ちゃんは憧れというか、愛した女性かと言われると少し違う。
対して智美は初めて出来た彼女で、心も体もどっぷりとハマった。首ったけになった。アイツの為に生きていけると心から思った。
別れは突然。忘れもしない思い出したくないあの日、クリスマスの日。俺の部屋でお祝いをしようと彼女を待ってたんだけど全然来なくて、夜遅くに智美の携帯から電話が掛かってきた。出たら知らない男からで、一方的に別れを告げられた。俺には復縁のチャンスすら与えられず、あの日以来連絡が取れなくなって会っていない。正直今でも悪い夢なんじゃないかと思う時がある。
忘れたいけどたまに思い出してしまって、その度に気分が沈んだ。
今は抄子ちゃんがいてくれるからふっ切れたけど、抄子ちゃんと出会わなかったらまだ俺の心は囚われたままだったかもしれない。
連絡通路からタクシー乗り場へと降りる長い階段の前で、一人の女性が佇んでいた。お腹が大きいから恐らく妊婦なのだろう、キャスター付きのトランクをどうやって降ろそうか途方に暮れていた。
全く、今日は懐かしい顔によく会う日だ。
「持ちましょう」
「ありがとうございます、エスカレーターが見当たらなく……兼ちゃん?」
智美は俺の顔を見て大層驚いていた。
返事を待たず、トランクを持ち上げ階段を降り始める。看板の前に着くがタイミングが悪く、乗り場にタクシーの姿はない。待たないといけない様だ。
「俺は急いでないから、先に乗っていいよ」
忘れられなかった、忘れたかった人。
二条先生や日野はすっかり老けた。なのに智美は変わった風に見えなくて、お腹も大きくなってるし、髪も短くなってるけど、あのクリスマスの頃のまま、まるで時が止まっていた様に彼女は変わってなかった。
「け、兼ちゃん、ご、ごめんね。私……」
「俺さ」
言いたい事はあった。責めたい気持ちもあった。だけど、その大きいお腹を見たらどうでも良くなった。
智美の言葉を遮って、俺は努めて笑顔で言う。
「来年、結婚するんだ」
だって、止まっていた時間はもうとっくに動き出しているのだから。
徒然草 七十一段 現代訳文
名前を聞けばすぐにその人の面影が心いっぱいに浮かぶのに、実際に会ってみると記憶とは随分違うことに驚く。
昔の小説などを読んで、「ああ、このお話の舞台は私の知っている所だとあそこみたいな街だろうな」とか、「この登場人物はあの人みたいな人物なんだろうな」などと自分の記憶に当てはめてしまうのは誰もがすることだろうか。
また、何かにつけて、たった今、聞いた言葉や見た物であるのに、まるで自分の記憶に中に昔からあった事の様に感じ「あ、デジャヴだ」と思うのだけど、いつだったかは思い出せず、それでも本当に昔あった事だと思うのは私だけの事だろうか。