8話 異世界side 覚醒
村の外れの民家に逃げ込んだ優汰と莉子は、奥にある石造りの倉庫へと身を隠した。
日が射さない場所のせいかとても寒い。おそらく冷蔵庫代わりに使われていたのだろう。
2人は箪笥に入っていた毛布を取り出し、一緒にくるまって暖めあった。それでも身を切るような冷気が徐々に体温を奪っていく。
「莉子」
「わたしは、へいきだから……しんぱいかけて、ごめんね……」
暗闇の中で、優汰は莉子の身体をそっと抱き寄せた。安心させようと莉子は笑顔を作るが、それは無理をしているのだと一目で解かる。息が浅くて荒い。身体は冷え切っていて、それなのに汗がずっと流れ続けている。
こんな弱弱しい彼女は初めて見た。小さな頃からずっと一緒だったが本当に初めてだった。
連れてくるべきではなかったと、優汰は今更ながらに後悔する。
あんな危険そうな奴が出てくるなど予想外だった。見学のつもりでいいと言っていたし、それにヴァイスやルリララや、兵士がたくさん一緒なのだから恐れるものなど何もない――。
全部言い訳である。どうして莉子のことを最優先に考えなかったのかと、優汰は自分を責めている。
「ヴァイスとルリララは……」
「あいつらは強いんだ」
強いから大丈夫だろう、黒騎士というのがどんな奴かは知らないが、待っていればきっとヴァイスかルリララが迎えに来る。
優汰はそう呟いた。それは莉子へ向けた言葉というより、自分自身に言い聞かせているかのようだった。
しばらく沈黙が続く。
数分が経った。
静かだ。密閉空間だから、外からの音は全く聞こえてこない。
莉子はずっと押し黙っている。優汰は会話の糸口を見つけることが出来ないでいた。
「(俺は莉子の、何を見てたんだろう)」
物心ついたときには、もう莉子は幼馴染みだった。
いつも自分のそばにいて、明るくて元気で喋るのが大好きな莉子。優汰はそんな莉子のことしか知らなかった。
ふと優汰は考える。自分は莉子の、都合のいい部分しか見ていなかったのではないかと。
「なあ莉子、俺は……」
優汰は何かを言いかけたその瞬間、
とつぜん壁が破られた。砕かれた無数の破片が2人へと押し寄せる。
『――――見ツケタ』
ひときわ大きな瓦礫が飛んできた。とっさに莉子を背中にかばう。優汰の額に直撃して、一筋の血が流れた。
収まってから顔を上げると、向かいの壁一面が丸々消失していた。剣撃の風圧だけで吹き飛ばしたのだと、優汰には俄かに信じられなかった。穿たれた壁跡から倉庫の中へ、急速に外気が入り込んでくる。冷たく乾いていた空気が、血と死臭が溢れる惨劇へと侵されていく。
『見ツケタ。手間ヲ掛ケサセテクレルナ』
鳥肌が立った。耳に響く、聞き覚えのあるおぞましい低音。
立ち込める砂埃の中から現れたのは、優汰にとって認めたくない現実だった。陽光の輝きを真っ向から否定し嘲笑する、圧倒的な漆黒がそこに現れていた。
肩に背負う大剣には、真新しい血がこびり付いている。ルリララとヴァイスがあれからどうなったのか、優汰に考える余裕はなかった。
逃げないと。ゲラゲラ笑う膝に活を入れて必死に立ち上がる。恐怖のあまり失禁したのか、莉子のズボンからは黄色い液が滴り落ちている。
「ゆ、優汰……」
怯える莉子を優汰は強く抱きしめる。
脳を錯綜する焦り。逃げないと、逃げ切らないと。空回りする優汰の眼に倉庫の出入り口が飛び込んできた。
幸いにしてドアはまだ壊れていない。莉子の手を引いて全力で走りだす。莉子を連れて逃げ切らなければならない、それだけしか優汰の頭には無かった。
『無駄ダ』
巨大な風切り音が発生する。黒騎士が大剣を振りかぶっているのだ。
不意に過去の思い出がフラッシュバックする。その光景には、いつも莉子が佇んでいる。
「駄目っ!」
間に合わない。そう優汰が思った。瞬間、腕にしがみついていた莉子が黒騎士の刃へと飛び込んでいった。
アッ、と優汰は叫んだ。
優汰にはその光景が、ひどくスローモーションに見えた。
真っ暗な絶望へと、手を広げて自らを差し出した莉子。
レザーアーマーは易々と斬り裂れ、皮膚へ到達する。莉子の身体に、黒騎士の大剣が深々と抉り込んでいく。
肉が骨が内臓が、破れ裂かれていく絶叫。大輪の紅い薔薇が咲き乱れて、倉庫の壁や床や天井、あらゆる場所に散った。
「莉、子……」
優汰は茫然と呟く。
返事は無かった。血に塗れた莉子の身体が、無言で床に伏した。
――――俺、死んじまいてぇよ。
彼はそう言った。
――――なあ。どうやったら誰にも迷惑を掛けずに死ぬことが出来るんだ?
電車に飛び込む?
赤信号に突っ込む?
マンションから飛び降りる?
――――生きて!
そう彼女は言った。
――――生きる?
そう彼は問うた。
こんな屑が生きてて、誰が得をするんだ。
死にてえよ。お前を護れない俺なんか、消えちまった方がいいんだ。
彼女は言った。
私は――――
ドクン。
鼓動が鳴り響く。
それは心臓の脈動。惨劇を目の当たりにして、優汰の体内で血脈が弾けた。
ドクン。
優汰がのろのろと顔を上げる。そして背中に背負っている槍を引き抜いて、一歩一歩ゆっくりと黒騎士のほうに向かっていく殺ス。
『ホウ』
黒騎士はそんな彼を感慨なさげに眺める。標的である勇者パーティのうち、まだ残っているのは眼前の1人だけ。この優汰とやらを斬り伏せれば全てが終わる。大切な仲間を失って自暴自棄になったのだろう彼を、黒騎士は淡々と迎え撃った。
トクン。
トクントクン。
トクントクンドクンドクンドクン殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス。
理性が崩壊して、筋肉が膨れ上がる。
「ア、アアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!」
突如血走った声で優汰が吼えた。
一気に天井近くまで飛び上がる。三角跳びの要領で天井を蹴飛ばし、スピアを振り上げ、切っ先を全力で振り下ろす。
黒騎士は優汰の行動を冷徹に見据えつつ、その一撃を大剣の刃で悠々と受け止める。
『何ト!』
黒騎士は感嘆の声を上げた。悠々と受け止められるつもり、だったのだろう。2倍以上の身長差があり体格も腕力も圧倒的。パワーで押し負ける筈がない。
だが押し負けた。黒騎士はよろめいて数歩たたらを踏む。体勢を維持できない。
焦ることなく大剣を片手持ちにし、小手に覆われた拳を優汰の脇腹にぶち込んだ。
勝敗は決まった。黒騎士の圧倒的な腕力の前では、レザーアーマーなど紙切れ同然。激しく壁に激突して即死。年端の行かぬ新米勇者はかくして短い一生を終えるのだ。
勇者といえども人の子である筈だ。終えなければならない筈。
この状況では、それが最も自然で当然の結末である。なのに。
……全く応えていない。優汰はびくともしなかった。
人間は生命の危機を感じると、能力以上の力が発揮できるという。
だが今の優汰は、そんな程度ではなかった。目には狂気を宿していた。優汰の双眸は金色に輝き、瞳孔がぱっくりと開いていく。筋肉は不規則に盛り上がり、化け物じみたシルエットに変貌していく。
『?』
黒騎士の胸中にある焦燥が生まれた。
それが死の恐怖から来るものだと、気付くのにさほど時間は要しなかった。
なおも黒騎士は2発、3発と拳を繰り出しつづける。だが優汰は喰らいつき、決して離れようとはしない。それどころかますます力を漲らせていく。
これがあの優汰なのか。ヴァイスにからかわれ、ルリララに平和を説いて、そして莉子が誰よりも愛している、あの優汰なのか。
――――いや違う。
「ガアアアアアアアアアアァァァァァァァ!!!!!!!!!」
黒騎士は後退る。魔獣のような咆哮を上げる優汰を、もはや人間の範疇で語ることは許されない。もし第三者がこの場にいたら、優汰を指差し恐怖するに違いない。
表裏一体なのである。光と影、正と負、現と夢、太陽と月。どれもが全く違うようでいて、本質は似ている互い同士。
果たして勇者と悪魔将の違いとは何なのだろうか。莉子を斬られた怒りに我を失い、狂った破壊衝動に侵され理性を失った優汰を、果たして誰が勇者だと気付くのだろうか。
「――っ、――!」
――――透き通った美しい声が、優汰の耳をそっとつんざく。
聞き慣れたその声。優汰の瞳に理性が戻っていく。
「ルリ、ララ……?」
「――――優汰っ、莉子!」
黒騎士が破壊した壁跡の、向こう側に彼女が立っていた。
それは優汰がこの世界で遭遇した、初めての幻想的な風景だった。沈みゆく太陽を背にした少女は、うっすらと紅い燐光を帯びて佇んでいる。それはまるで花園で優雅に舞うフェアリーのように儚げで繊細で、この世に戯れで降り立ったエンジェルのように神秘的で幽玄で。
否。儚げで繊細で、神秘的で幽玄?
そんな形容詞は些ともこの少女に似合わない。
少女は牙を剥いて尖った骨を突き出す。相手を射抜く瞳、可愛らしい口元から覗く鋭い八重歯。その肢体は紛れもなく獲物を狙う肉食獣だ。誰よりも凶暴で獰猛で、武骨で野性的で力強くて荒々しくて。
だからこそ、目の前の少女ルリララは、凄絶に美しい。
『タッ!』
隙をついて、黒騎士は優汰の身体を蹴りあげる。今度こそ吹き飛ばされる優汰だったが、同時に黒騎士にも隙が生まれる。
「覚悟しろビチクソ!」
超加速。悪態と共にルリララが飛びかかる。黒騎士は即座に反応するが、それよりも素早く接近し、電光石火の勢いで鎧をよじ登っていく。
そして肩の関節部分の隙間に、尖った骨を突き刺してゴリッとひねり上げる。鎧の内部で尖った骨が、ばきりと音を立てて折れた。
『ヌッ!』
黒騎士はルリララを振り払おうとする。だが腕が上手く動かせていない。肩の関節に入り込んだ骨の欠片が阻害しているのだ。その隙にルリララは、黒騎士の首まで登り、太腿と腕で挟んで締め上げた。
それと同時に、剣を携えたヴァイスが突入した。あちこちローブが焼け爛れているが、身体には全く異常が無い様子だ。
「やれヴァイス!」
ルリララが叫び、間髪入れずヴァイスが風の魔法剣を放つ。回避しようと黒騎士はもがくが邪魔されてしまい身動き出来ない。
ズガァン!
凄まじい爆音と共に、黒騎士の右腕が吹き飛ばされる。ぐらついていた肩にまともに直撃し、その衝撃で外れてしまったのだ。不気味な黒いエネルギー体が、壊れた肩先から溢れて弾ける。
おそらく全身鎧そのものが、黒騎士の本体なのだろう。ルリララは飛び退いて、素早く床に着地し構えの体勢を取った。2本目の尖った骨を取り出し、黒騎士をじっと睨みつける。
『マサカコノ儂ガ、後レヲ取ルトハ、予想シテナンダ。主ラハ中々ドウシテ強イナ』
ルリララ達には一切の隙が無い。自嘲気味に敗北を認めた黒騎士は、大剣を鞘に戻して、懐から何かの装置を取り出す。
『次ニ会ウ時マデ、ソノ命預ケテオコウ。人間ヤ動物ヲ侮ルノハコレッキリニスルヨ』
そう言い残して黒騎士は装置を握り潰した。黒騎士の姿が闇に包まれ、そして一瞬のうちに落とした腕もろとも消失した。
「莉子!」
逃走した黒騎士には目もくれずルリララは、血溜まりに倒れ伏している莉子に駆け寄って手首をとる。
ルリララの表情が絶望に染まった。脈も呼吸も、既に無い。
「くっ……ヴァイス馬車を出せ! 優汰も早く! アタシは莉子の手当てをするから、急げ!」