第58話:受諾のサイン
暖炉の中で、ナラの薪がパチリと甘やかな音を立てて爆ぜ、オレンジ色の火の粉が煙突の吸気へと吸い込まれていった。
吹き抜けのリビングを満たすのは、パチパチという薪の燃える微かな音と、二人分の重なり合う温かな吐息だけ。
誠一郎の逞しい胸元に顔を埋めたまま、佳乃はどれほどの時間、涙を流し続けていたのだろうか。
七年間、自分に泣くことを禁じていた。
感情を露わにすれば「女の甘え」と切り捨てられ、弱音を吐けば「代わりなどいくらでもいる」と足蹴にされる――そんな冷酷な企業社会の暗闇で、佳乃は自らの心を鋼鉄の殻で閉ざし、痛みにすら微笑みを浮かべることでしか己の尊厳を守れなかった。
だが、今。
誠一郎のアイボリーのタートルネックニット越しに伝わる、狂おしいほど熱く力強い鼓動。
背中を包み込む、骨太で優しい大きな手のひらの重み。
壊れ物に触れるかのように慈しみに満ちたその温もりに包まれながら、佳乃の胸の奥底に溜まり続けていた孤独と悲哀の澱は、とめどない涙とともにすべて洗い流されていた。
「……すまない、佳乃。服を濡らさせてしまったな」
頭上から降ってきたのは、わずかに掠れた、だがどこまでも穏やかな誠一郎のバリトンボイスだった。
誠一郎の指先が、佳乃の前下がりの艶やかな黒髪にそっと触れ、乱れた前髪を愛おしげに耳の後ろへと梳き流した。
佳乃は誠一郎の胸元からゆっくりと顔を離した。
ニットの胸元には、佳乃が流した大粒の涙が、くっきりと濃い染みを作っていた。
「あ……申し訳ありません、誠一郎さん……! 私、こんなに取り乱してしまって……お洋服を汚してしまいました……」
慌てて自らの両手で誠一郎の胸元を払おうとした佳乃の手を、誠一郎がふわりと制した。
「謝るなと言ったはずだ」
誠一郎の唇に、少年のように悪戯っぽく、そして愛しさに満ちた笑みがこぼれる。
「君が私に心を許し、泣いてくれた証拠だ。……この服は、一生洗わずに永久保存したいくらいだな」
「もう……誠一郎さんったら、お戯れを……」
佳乃の頬が、ワインの酔いと恥じらいでカッと赤く染まる。
誠一郎はラグの上に片膝をついたまま、ポケットから取り出した清潔なリネンチーフで、佳乃の濡れた目元と頬を、そっと優しく拭い去った。
チーフ越しに伝わる、誠一郎の指先の温もり。
涙を拭われた佳乃の素顔は、泣きはらした赤みが差してはいながらも、憑き物が完全に落ちたかのように清らかで、息を呑むほど神々しい光を放っていた。
誠一郎はチーフを片付けると、佳乃の左手をそっと両手で包み込んだ。
佳乃の白く華奢な薬指の上で、暖炉の炎を浴びて深藍の閃光を放つ【ロイヤルブルーサファイア】のリング。
誠一郎の切れ長の双眸が、その青い結晶を見つめ、やがて視線を上げて佳乃の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
そこには、先ほど告げたプロポーズに対する、彼女自身の言葉を待つ、男としての切実な緊張が揺らめいていた。
「……佳乃。私の問いへの返答を……聞かせてくれないか」
静まり返るリビング。
暖炉の炎が、二人の影を壁一面に大きく揺らす。
佳乃は深く、静かに息を吸い込んだ。
胸元に手を当て、肺の奥底に溜まっていた迷いの欠片をすべて吐き出すように。
そして――
左手薬指に宿るサファイアの冷たくも誇らしい重みを確かめると、佳乃は背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、顔を上げた。
その唇に浮かんだのは――
これまで七年間の人生で、一度たりとも見せたことのない、生涯で最も晴れやかで、最も美しく咲き誇る一輪の百合のような微笑みだった。
「――鷹司様」
佳乃の澄み切った声が、鈴の音のように響いた。
だが、佳乃はすぐに自ら小さく首を横に振り、切れ長の瞳を優しく細めた。
「……いいえ。誠一郎さん」
「…………っ」
誠一郎の喉が、微かに上下した。
「謹んで……お受けいたします」
佳乃の瞳から、嬉し涙が一筋、きらりと光って零れ落ちた。
「私を暗闇の底から救い出し、一人の人間として、プロフェッショナルとして光の当たる場所へ導いてくださったあなたを……私も、心の底から愛しております。私のこれからの人生のすべてを……誠一郎さん、あなたにお預けいたします」
「佳乃……!」
誠一郎の顔に、歓喜の光が一気に満ち溢れ、抱き寄せようと腕を伸ばしかけた。
だが――。
スッ……。
佳乃は人差し指をそっと立て、誠一郎の逞しい胸元へと宛がって、わずかに彼を押し留めた。
その切れ長の瞳には、愛らしさと知性を同居させた、悪戯っぽい光がチロチロと灯っていた。
「お待ちください、誠一郎さん。……まだ、調印は完了しておりません」
「……何?」
誠一郎が驚きに目を瞬かせ、伸ばしかけた腕を空中で止めた。
世界屈指の投資ファンドの覇王が、完全に虚を突かれたようにポカンと口を開けている。
その珍しい姿に、佳乃の唇の端が、優雅に弧を描いた。
「これほど巨大なディール(取引)です。……タカツカサ・キャピタルのシニア・エグゼクティブ・オフィサーとして、そしてナルカミ・グローバルのCOOとして、無条件での受諾はいたしかねます。……私からも一つだけ、厳格な【契約条件】がございます」
「け、契約条件……?」
誠一郎の眉がピクリと跳ね上がった。
かつて第5話で、自らが佳乃に破格の雇用契約書を突きつけた時のように。
あるいは第8話で、タカツカサの役員たちが佳乃を値踏みした時のように。
まさか、人生を懸けたプロポーズのこの土壇場で、彼女から「条件」を突きつけられるとは思ってもみなかったのだ。
誠一郎は姿勢を正し、試されるような緊張感を帯びた真剣な眼差しで、佳乃を見つめ返した。
「……聞こう。私の有能な秘書殿。……君が望むなら、タカツカサの株式の半分でも、私の個人資産のすべてでも、いくらでも差し出そう。どんな条件を望む?」
莫大な資産の譲渡すら即座に呑もうとする誠一郎。
その不器用で、底なしの過保護さに、佳乃は胸を熱くしながら、小さく首を横に振った。
「そんな金銭や権利など、一銭も要りません。……私が求める条件は、たった一つだけです」
佳乃は両手を膝の上で重ね、誠一郎の琥珀色の瞳を、至近距離から真っ直ぐに見つめた。
暖炉の火の粉が、サファイアブルーのリングを青く煌めかせる。
佳乃の口から紡ぎ出されたのは――
かつて二人が初めて心を交わした、あの日の記憶を呼び覚ます、至高の言葉だった。
「――これから先、どれほど歳をとっても」
佳乃の涼やかな声が、暖炉の温もりの中に静かに溶けていく。
「どれほど世界が激動し、私たちが白髪の老人になったとしても……毎朝、私の淹れる珈琲を、世界で一番美味しいと言ってくださること。……それが、私の提示する唯一の受諾条件です」
「…………っ!!」
誠一郎の呼吸が、完全に止まった。
目を見開いたまま、固まる。
――珈琲。
あの日。
第10話の、あの日の記憶。
タカツカサ・キャピタルに初出社し、真鍋苑子と梶原康平から敵意に満ちた洗礼を受けながらも、わずか三分間のプレゼンテーションで欧州物流買収の致命的欠陥を暴いて見せた佳乃。
役員たちを完全に沈黙させ、CEO執務室に戻った佳乃に対し、普段は他人に決して心を開かない誠一郎が――ジャケットを脱ぎ、自らの手で丁寧にハンドドリップして差し出した、あの一杯の珈琲。
『君に雑用をさせるために雇ったのではない。……期待以上の仕事だった、佳乃』
初めて名前を呼ばれ、初めて自分の実務を最高の形で認めてくれた、あの琥珀色の温もり。
そして今――
佳乃は、その珈琲を、二人の日常の愛の象徴として、生涯にわたる誓いの言葉として差し出してきたのだ。
誰かに命じられて淹れる「お茶汲み」ではない。
愛する男の健康を願い、愛する男の隣で共に朝を迎えるための、対等で、甘美な、世界でたった一つの儀式として。
「…………ふっ」
静寂の後、誠一郎の喉から、押し殺したような笑いが漏れた。
続いて、それは低く、心地よい歓喜の笑い声となって、リビング全体へと広がっていった。
「はは……っ、あははははっ!」
肩を揺らし、心底から幸せそうに笑う誠一郎。
市場から「氷のハゲタカ」と恐れられ、感情を鉄壁の鎧で閉ざしていた男が、これほどまでに無防備に、全身で喜びを爆発させた姿を、世界中の誰も見たことがなかったはずだ。
「やられたな……。完敗だ、佳乃」
誠一郎は笑みを収めると、濡れた瞳で佳乃を見つめた。
その眼差しには、一人の卓越したパートナーへの最大のリスペクトと、狂おしいほどの愛おしさが満ち満ちていた。
「そんな魅力的な条件……断れるはずがないだろう。喜んで、無条件で呑ませてもらう」
誠一郎はラグの上で膝を進め、佳乃の至近距離へと身を寄せた。
そして、彼女の左手を恭しく持ち上げると――
薬指に輝くロイヤルブルーサファイアの宝石の真上へと、自らの唇を、熱く、敬虔に押し当てたのだ。
チュッ……。
プラチナの冷たさと、誠一郎の唇の熱さが、指の背を通じて佳乃の心臓へと直接突き刺さる。
誠一郎は顔を上げると、空いた左手を伸ばし、佳乃のほっそりとした顎を、長い指先でそっと持ち上げた。
「……私の有能な秘書殿。契約は、完全合意に達したな」
「……はい、誠一郎さん。ディール、成立です」
佳乃が艶やかに微笑んだ、その瞬間。
誠一郎の端正な顔が、影を落とすように近づいてきた。
目を閉じる暇すら与えられなかった。
佳乃の唇の上に、誠一郎の熱く、柔らかく、だが激しい情炎を孕んだ唇が、重なり合った。
「ん…………っ」
佳乃の喉から、微かな吐息が漏れた。
最初は、羽毛が触れ合うかのような、優しく壊れ物を慈しむような口づけ。
だが、佳乃が抵抗することなく、むしろ彼の首筋へとそっと両腕を回した瞬間――
誠一郎の腕が佳乃の細い腰を強く引き寄せ、口づけは、一気に深奥へと奪い尽くすような、熱く切実なものへと変わっていった。
触れ合う唇の柔らかさ。
微かに混ざり合う、先ほどの赤ワインの芳醇な香りと、シナモンの甘いアロマ。
そして、誠一郎の熱い舌先が、佳乃の唇の隙間を優しく割り開き、熱を分かち合っていく。
頭の芯が痺れるような甘美な感覚に、佳乃の背筋をカッと電流のような震えが駆け抜けた。
両手の指先が、誠一郎のアイボリーのタートルネックニットの背中を、ぎゅっと強く握りしめる。
二度の口づけ。
三度の口づけ。
吐息が重なり、唇が離れるたびに、微かな水音が暖炉の火の爆ぜる音に溶けていく。
至近距離で見つめ合う二人の瞳には、炎の光が映り込み、互いしか見えない絶対の熱情が燃え盛っていた。
「……佳乃」
誠一郎の低く掠れた声が、佳乃の濡れた唇をなぞるように囁く。
「もう二度と、君を離さない。……この命が尽きるその瞬間まで、君のすべてを、私が愛し抜く」
「はい……誠一郎さん……」
佳乃は潤んだ瞳で誠一郎を見つめ返し、自らの額を、彼の広い額へとそっと押し当てた。
「私も……あなたを、生涯愛し続けます。……私の人生のすべてを懸けて」
暖炉の火が、二人の重なり合う影を、無垢材の壁と床に長く、美しく揺らしていた。
七年間の暗闇。
雨の夜の絶望。
「代わりなどいくらでもいる」と切り捨てられたあの日から始まった物語は、今、至高の愛と信頼という、決して破られることのない永遠の契約へと昇華したのだ。
夜は、静かに、だが甘やかに更けていく。
軽井沢の森を包む満天の星々の下、二人の鼓動は一つに溶け合い、新しい未来への確かな足音を刻み続けていた。




