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第36話:神崎との頭脳戦

東証記者クラブでの敵対的TOB発表から二十四時間。

兜町を震源地とした金融のマグニチュードは、瞬く間に世界中のマーケットへと波及していた。

大東京フィナンシャルグループの九条雅恵副頭取による電撃的な全面支持声明、そしてタカツカサ・キャピタルによる直近株価四十五%プレミアム、総額八百億円という上限なしの全株取得スキーム。

連日のガバナンス不全と社長逮捕の醜聞で泥濘に沈んでいた鳴神物産の株式には、国内外の機関投資家、海外ヘッジファンド、そして個人株主からの買い注文が怒涛の津波となって殺到し、東京株式市場の取引終了後もPTS(夜間私設取引システム)でストップ高の気配値を張り付きのまま更新し続けていた。


だが――

資本主義の深海に潜む肉食獣が、その巨額の獲物をただ指をくわえて眺めているはずがなかった。


翌日、午後一時三十分。

港区赤坂、タカツカサ・キャピタル本社タワー四十六階。

重要ディールの交渉にのみ使用される、防音と電磁シールドを施した特別会議室『スレート』。

床一面に敷かれた漆黒のサイザル麻カーペットの上に、カツン、カツンと、硬質な革靴の足音が響き渡っていた。


「――失礼するよ。お招きいただき感謝する、と言いたいところだが……少々、歓迎の儀礼に欠けているんじゃないかね?」


すりガラスの重厚なドアを押し開けて入ってきたのは、外資系投資銀行『ベーカー&スターンズ』アジア統括マネージングディレクター、リチャード・神崎だった。

サヴィル・ロウで仕立てられたチャコールグレーの三つ揃えスーツ。

彫りの深い端正な顔立ちには、先日の鳴神物産の役員会で見せた冷酷な処刑人の仮面を再び隠し、社交界の寵児特有の、極めて甘美で傲岸な笑みが張り付いていた。

シャツの袖口からは、スイスの至宝パテック・フィリップのグランド・コンプリケーションが鈍い白金の光を放っている。

その背後には、ニューヨーク州弁護士資格を持つ屈強な白人アソシエイト二名が、重厚な革張りのアタッシュケースを提げて無言で控えていた。


だが、会議室のテーブルを挟んで神崎を迎え撃ったのは、タカツカサの総帥・鷹司誠一郎ではなかった。


「席へどうぞ、神崎様。当社のセキュリティプロトコルに従っていただいたまでです。歓迎の儀礼をお求めなら、銀座のクラブへ行かれることをお勧めいたします」


正面に腰掛けていたのは、タカツカサ・キャピタル法務・コンプライアンス統括副社長の真鍋苑子だった。

プラチナフレームの眼鏡の奥から、剃刀のように研ぎ澄まされた双眸が神崎を冷ややかに見据えている。

そして――苑子の隣、上座に静然と着席していたのは、濃紺のテーラードスーツに身を包んだ槇野佳乃だった。


佳乃は机の上に両手を端正に重ね、背筋を寸分の狂いもなく伸ばしていた。

首筋を白く際立たせる前下がりの黒髪ボブ。

感情の波風を一切感じさせないその涼やかな美貌は、まるで静止した水鏡のように、神崎の威圧的なオーラを完全に無力化していた。


「おや……?」

神崎は眉をわずかに持ち上げ、大理石の長テーブルの対面へと優雅に腰を下ろした。足を組み、背もたれに深く体重を預ける。

「鷹司誠一郎代表は不在かね? 名門・鳴神物産の命運を決める最終ディールだ。一介の法務担当弁護士と……おや、そこにいるのは鳴神物産を不当解雇されたと噂の、地味な元秘書室長代理殿ではないか。タカツカサも随分と人材不足のようだ」


神崎の唇から滑り出た、相手を値踏みし、精神的な優位に立とうとする明確な挑発。

だが、佳乃の長い睫毛は微動だにしなかった。

「神崎様。本件バイアウトに関する全権は、代表取締役より私、槇野佳乃に委任されております。法務の最終責任者である真鍋先生とともに、当社を代表して交渉に臨んでおります。……形式的なご挨拶は省き、本題へ入っていただけますでしょうか」


涼やかな、だが一歩の退転も許さない絶対の声音。

神崎の琥珀色の瞳の奥に、わずかな苛立ちの火花が散った。

神崎は鼻先で小さく笑うと、背後のアソシエイトに指先で合図を送った。


バシィン。


テーブルの中央に放り出されたのは、革表紙で綴じられた一通の法的通知書だった。

そこには、英語と日本語の併記で、こう印字されていた。

『担保権実行予告通知書、ならびに第三者対抗要件具備に関する最終告知』。


「単刀直入に本質を突こうか、お嬢さん方」

神崎は口元を三日月のように歪め、身を乗り出した。

「昨日の東証での会見、実に見事だったよ。直近株価に四十五%のプレミアムを乗せ、八百億円の敵対的TOBを発表するとはね。市場の愚民どもは熱狂し、鳴神の株価はストップ高だ。九条副頭取を抱き込んだ手腕だけは、率直に称賛して差し上げよう」


神崎はパテック・フィリップを巻いた左手で、テーブルの通知書をトントンと叩いた。


「だが……鷹司代表も、そして君たちも、致命的な勘違いをしているんじゃないかね? いくら市場の浮動株を買い集めようと、いくら大東京フィナンシャルが味方につこうと……鳴神物産という会社の『心臓』を握っているのは、この私だ」


神崎の口調が、一段と低く、冷酷な色を帯びる。


「鳴神貴之社長が自署捺印したメザニンローン契約に基づき、我がベーカー&スターンズは、第一四半期売上未達に伴う百五十億円の即時償還をすでに通告している。そして金曜日の午後三時、鳴神物産がこれを支払えなかった事実は、すでに確定しているのだよ」


「……ええ。貴方が仕掛けた、悪質な略奪的融資(プレデタリー・レンディング)ね」

苑子が冷淡に切り捨てた。


「合法的なファイナンス契約だよ、真鍋弁護士」

神崎は悪びれもせず肩をすくめた。

「契約書第十六条に基づき、我が社は本日、裁判所の清算手続きを経ることなく、担保権を直ちに実行する。……鳴神物産が保有する銀座一丁目の【本社ビル敷地および建物の一切】、ならびに全社売上の四割を叩き出す優良子会社【ナルカミ・ロジスティクスの全株式】は、本日付で我がファンドが指名するケイマン籍の特別目的会社(SPC)へと完全に名義が移転する」


神崎の瞳が、獲物を仕留めた毒蛇のように細められた。


「お分かりかね? タカツカサが八百億円を投じて手に入れる鳴神物産など……本社ビルを追い出され、物流網を根こそぎ奪い取られた、ただの空き殻だ。残るのは何千人もの余剰人員と、全国に散らばるガラクタのような負債だけ。……そんな死体を八百億で買い取って、一体どうやってファンドの出資者に説明するつもりだい?」


これこそが、神崎の狙いだった。

敵対的TOBを仕掛けてきたタカツカサに対し、標的企業の重要資産を先回りして担保接収することで、買収の価値を無力化する。

そして――


「だが、私は慈悲深いビジネスマンだ」

神崎は極上の笑みを浮かべ、両手を広げてみせた。

「タカツカサがどうしてもあの泥舟を再生させたいというなら、譲歩の余地はある。……本社ビルの敷地権、そしてナルカミ・ロジスティクスの全株式。これらをタカツカサへ無傷で返還してやってもいい」


神崎は身を乗り出し、佳乃の顔を覗き込んだ。


「買い取り価格は――【金、三百億円】だ」


「三百億……」

苑子の眉がピクリと跳ねた。


「そうだ。我が社が貸し付けた元利金百五十億に、我が社の正当なリスクプレミアムと解除手数料として百五十億を上乗せした、極めてリーズナブルなオファーだ。……タカツカサが今ここで三百億円の買い取り協定にサインするなら、私は担保を綺麗に外して撤退してやる。君たちは念願の鳴神物産を丸ごと手に入れ、私はスマートに利益を確定させる。……ウィン・ウィンの素晴らしいディールだろう?」


グリーンツキの変形。

企業買収の急所となる重要資産を人質に取り、買収者に対して法外な身代金を要求する、ウォール街のハイエナたちが好んで使う古典的な恐喝スキームだった。

八百億円のTOB資金に加え、さらに三百億円を強請り取ろうという、途方もない強欲。

神崎は勝敗は決したと信じ切っていた。

タカツカサが鳴神の再生を本気で目指す以上、本社ビルと基幹物流網を奪われては事業が成立しない。三百億円の毒饅頭を呑むしか、選択肢はないはずだと。


「さあ、サインの準備をしてくれたまえ。鷹司代表に電話して決済を取るかい? それとも、そこの元秘書のお嬢さんが、泣いて慈悲を乞うかね?」

神崎は嘲弄を込めて、胸ポケットからモンブランの万年筆を抜き取り、テーブルへと置いた。


だが。


「…………」


静寂が、落ちた。

会議室の空気を震わせたのは、神崎が期待していた怯えの声でも、動揺の息遣いでもなかった。


フッ……と。

槇野佳乃の、花びらのように端正な唇の端が、微かに、涼やかに綻んだのだ。


「……何がおかしい?」

神崎の眉間が、不快そうに歪められた。


佳乃は伏せていた長い睫毛をゆっくりと持ち上げ、その澄み切った秋の夜空のような切れ長の瞳で、神崎の顔を真正面から射抜いた。

その瞳の奥にあったのは、恐怖などではない。

自ら処刑台の罠に足を踏み入れた獲物を憐れむような、底知れない冷徹な光だった。


「神崎様。相変わらず、鮮やかな話術でいらっしゃいますね」

佳乃の声は、静かに、だが部屋の隅々にまで染み渡るように響いた。

「相手の弱みにつけ込み、法的な抜け穴を縫って法外な対価を要求する……香港の大東亜食品の時も、シンガポールのスター・マリタイムの時も、貴方は寸分違わぬ台詞で、経営者を追い詰めてこられました」


「な……っ!?」

神崎の呼吸が、一瞬だけ止まった。

なぜ、この日本の若い元秘書が、自分が数年前に東南アジアで秘密裏に片付けたディールの社名をスラスラと口にできるのか。


佳乃は手元に置いてあった、最高水準の暗号化が施された薄型の専用タブレットへと、すっと指先を滑らせた。

画面が一度、青く発光する。


「神崎様。……二〇二三年四月十二日の午後三時、シンガポールのラッフルズ・プレイスにある法律事務所で交わされた、ある極秘の資金決済を覚えていらっしゃいますか?」


「……何の話だ。私は無数のディールを動かしている。一年前の個別の取引など、いちいち記憶していないね」

神崎は鼻先で笑おうとした。

だが、その声の端が、微かに硬直しているのを佳乃は見逃さなかった。


「では、思い出していただきましょう」

佳乃は手元のタブレットの画面を、神崎の目の前へと滑らせた。

スッ……と、磨き抜かれた大理石の上を滑る液晶画面。


そこに表示されていたのは――

神崎が、生涯において誰の目にも触れさせてはならないと信じ切っていた、漆黒のパンドラの箱の中身だった。


「っ……!? こ、これは……ッ!?」

神崎の琥珀色の瞳孔が、極限まで見開かれた。

椅子の背もたれから背中が浮き上がり、テーブルに両手をついて画面に顔を近づける。その額から、ツーッと一本の冷や汗が音もなく伝い落ちた。


画面の中央に大写しにされていたのは、極めて緻密に解析された、三次元の資金循環フローチャートだった。

最上流に記されていたのは、神崎が実質的に支配するシンガポール法人――『アスター・キャピタル・リミテッド』。


「二〇二三年四月、タイの大手食品商社『サイアム・フード・コーポレーション』に対する買収工作」

佳乃の淡々とした、だが逃げ場を一手ずつ塞いでいく冷徹な解説が始まった。


「当時、貴方はベーカー&スターンズの担当ディレクターとして、サイアム社の財務デューデリジェンスを統括されていました。……ですが、貴方は職務上知り得た『サイアム社の未公開の大型新株発行計画』の情報を悪用し、実質的なインサイダー取引を敢行されました」


「で、でたらめだ! そんな事実はない! アスター社は独立したファンドであり、私とは何の関係も――」


「関係がない、と仰いますか?」

佳乃はタブレットの画面を人差し指で軽くタップした。

画面が切り替わり、何枚もの公的な証明書のPDFが並ぶ。


「アスター・キャピタルの全発行済株式を保有する英領バージン諸島(BVI)のペーパーカンパニー『エメラルド・ホールディングス』。その名義上の受益者(アルティメット・ベネフィシャリー・オーナー)として記載されているのは――神崎様、貴方の実の妹君である、神崎麗奈氏ですね」


「ぐ……っ!」

神崎の喉から、蛙の潰れたような音が漏れた。


「さらに、ご覧ください」

佳乃は淀みなく、冷酷に言葉を重ねていく。

「インサイダー取引によってアスター社が不正に得た約千二百万ドル(約十八億円)のキャピタルゲインは、香港のマネーロンダリング業者を経由し、スイスのプライベートバンク――ロンバー・オディエの無記名暗号化口座へと送金されています。……その口座から、過去一年間にわたり、貴方の愛人たちが住まう六本木や南青山の高級タワーマンションの賃料、ならびに貴方のパテック・フィリップやビスポークスーツの購入代金が、直接引き落とされている決済ログです」


完璧だった。

資金の出所、名義人、マネーロンダリングの経由地、そして最終的な使途に至るまで――

金融犯罪捜査のプロが数年かけても辿り着けないような、完璧な証拠の鎖が、寸分の狂いもなく一本の線として繋がれていた。


「ば……馬鹿な……」

神崎の顔から、完全に血の気が引いていた。

唇が小刻みに痙攣し、整えられていた前髪がハラリと額に落ちる。

先ほどまでの傲慢なエリートの面影は消え失せ、白目を剥き出しにした獣のように、佳乃を凝視した。


「な、なぜだ……!? なぜお前のような、ただの商社秘書が……こんなデータを持っている!? スイスの秘密口座の番号など、私の顧問弁護士すら知らないはずだ!! ハッキングか!? 違法な手段で盗み出したのか!!」


神崎の叫び。

その狼狽に対し、佳乃は静かに目を伏せ、胸元に手を当てた。


「違法なハッキングなど、一切行っておりません。……すべては、先代・鳴神剛造会長が、生前に遺された正当な調査記録によるものです」


「剛造……だと……!?」


「ええ」

佳乃の声は、厳かな祈りにも似た重みを帯びていた。

「当時、鳴神物産もサイアム社の買収を検討しておりました。ですが先代は、突如として市場で跳ね上がった不可解な株価の動きを見逃さず、私に特命を下されたのです。『相手の陣営にいるリチャード・神崎という男の急所を、喉笛から爪先まで徹底的に洗え』と」


佳乃の記憶の奥底。

深夜の会長室で、剛造と二人、何百枚もの海外送金記録と格闘した日々。

社内サーバーには一切残さず、佳乃個人の暗号化ノート――『槇野手帳』にのみ記録され、剛造と佳乃の間でだけ共有されていた、政財界の暗部を射抜くための絶対の武器。

鳴神貴之が「昭和の紙ゴミ」「お茶汲みの雑務」と嘲笑い、シュレッダーに放り込もうとしたその遺産の本質が、今、外資の悪魔の喉笛に、寸分の狂いもなく深々と突き刺さっていた。


「先代は常に仰っておりました。『相手がどれほど綺麗なスーツを着ていようが、金融工学の美名で着飾っていようが、法と信義を踏みにじるハイエナには、いつか必ず天罰が下る』と」


佳乃はタブレットを引き戻すと、画面をオフにし、カチリと音を立ててテーブルへ伏せた。

そして、隣の真鍋苑子へと視線を送った。

苑子は待ってましたとばかりに、冷酷な笑みを浮かべてプラチナの眼鏡を押し上げた。


「さて、神崎マネージングディレクター」

苑子の低く、研ぎ澄まされた声が、凍りついた会議室に響く。


「この取引……日本の金融商品取引法第百六十六条(インサイダー取引規制)違反に該当することは明白ですが、それだけでは済まないわね。シンガポール金融管理局(MAS)の証券先物法違反、そして何より――送金ルートにニューヨークのコルレス銀行(中継銀行)が使用されている以上、米連邦証券取引法、ならびに海外腐敗行為防止法(FCPA)の法域に完全に抵触するわ」


「っ……!」


「米SEC(証券取引委員会)と米司法省(DOJ)の恐ろしさは、ウォール街出身のあなたが一番よく知っているはずよ」

苑子は冷淡に畳み掛けた。

「このデータをワシントンのSEC本部に提供すれば……あなたは即座に国際指名手配。ベーカー&スターンズは巨額の制裁金を科され、あなたは即刻解雇。アメリカ国内にあるあなたの全個人資産は、明日の朝までに完全凍結よ。……三百億円の身代金どころか、あなたは一生涯、連邦刑務所の冷たいベッドで過ごすことになるわね」


完全なるチェックメイト。

逃げ場は、天にも地にも残されていなかった。

三百億円を強請り取るために乗り込んできた男が、逆に自らの全人生と自由を人質に取られ、処刑台の刃の下に首を固定されていた。


神崎の全身から、体温が急速に抜け落ちていく。

握りしめた拳が、カタカタと激しくテーブルを叩いていた。

冷や汗が顎から滴り落ち、サヴィル・ロウの高級スーツの膝の上に、ポタポタと黒い染みを作っていく。


静寂の中、槇野佳乃は静かに立ち上がった。

手にしたファイルから、真っ白な一通の協定書を取り出し、神崎の目の前へと滑らせる。


「……神崎様。これが、タカツカサ・キャピタルからの、最初で最後の【和解条件】でございます」


万能秘書の絶対零度の眼差しが、崩壊寸前のブローカーを無慈悲に見下ろしていた。

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