第35話:敵対的TOBの発表
午後二時五十五分。
日本経済の心臓部、日本橋兜町に佇む東京証券取引所ビル本館。
その一階に位置する『兜記者クラブ』には、日頃の冷静な市場報道の場とは到底思えないほどの、異常な熱気と殺気配が充満していた。
大手全国紙の経済部記者、テレビ各局の経済報道クルー、ブルームバーグやロイターをはじめとする海外メガ通信社の特派員たち――総勢百名を超える報道陣が、すし詰め状態で記者席を埋め尽くしていた。
スチールカメラマンたちは最前列のローアングルに陣取り、大型の望遠レンズを何十台も壇上の演壇へと向けている。各テレビ局の中継車が東証の外周道路を取り囲み、屋上に張り巡らされた中継アンテナが、東京上空へ向けてリアルタイムの電波を放射していた。
「おい、タカツカサが突如として記者会見をセットした理由、本当に誰も掴んでないのか!?」
「午後三時ちょうどの前場・後場の取引終了と同時に発表する、としかリリースが出ていないんだ! 新ファンドの海外募集完了の報告か? それとも大型バイアウトの成立か!?」
「分からない! だが、鷹司誠一郎代表自らが登壇するんだぞ! 普段はめったに公の場に姿を現さない、あの『氷のハゲタカ』がだ! ただの定例発表なわけがないだろう!」
記者たちの囁き合いが、地鳴りのようなざわめきとなって天井の蛍光灯を揺らしていた。
壁掛けのデジタルクロックの赤いセグメントが、無慈悲に時を刻んでいく。
十四時五十九分五十秒……五十五秒……五十九秒。
ゴォォォォン……。
午後三時ちょうど。
東証のメインフロアで、本日の国内株式市場の取引終了を告げる重厚なクロージングベルの鐘の音が、重く、低く響き渡った。
その鐘の余韻が消え去らぬ、まさにその瞬間だった。
ガチャリ。
記者会見場の正面右手に位置する重厚な防音扉が、左右へと静かに開かれた。
その瞬間――
バシャシャシャシャシャシャシャッッ!!
数百発のストロボの光が一斉に炸裂した。白銀の閃光の嵐が、会見場を真昼の太陽のように焼き尽くす。
激しいシャッター音の連打の中、壇上へと足を踏み入れたのは、三人の影だった。
先頭を歩むのは、タカツカサ・キャピタル代表取締役CEO――鷹司誠一郎。
漆黒のスリーピースを完璧に着こなし、長身の背筋を寸分の狂いもなく伸ばした男の顔立ちには、一切の感情の揺らぎがなかった。彫刻のように冷徹で、獲物を屠る猛禽の如き研ぎ澄まされた双眸が、会場を埋め尽くす報道陣を一瞥のもとに圧倒する。
そして――誠一郎のすぐ斜め後ろ、半歩下がった位置に従う女性の姿を認めた瞬間、最前列にいた大手新聞社のベテランキャップが、思わず息を呑んで立ち上がりかけた。
「……っ!? おい、見ろ……! 鷹司の横にいる、あの女性は……!」
「嘘だろ……!? 鳴神物産の……先代会長の、あの槇野佳乃秘書室長代理じゃないか!?」
「雰囲気がまるで違うぞ! あの地味だった女性が、なぜタカツカサの最前列に立っているんだ!?」
ざわめきが、爆発的な波となって記者席を駆け抜けた。
ミッドナイトネイビーの仕立ての良いパンツスーツを完璧に纏い、首筋をすっきりと見せる前下がりの黒髪ボブを揺らして歩む槇野佳乃。
野暮ったい眼鏡を外したその素顔には、息を呑むほどの気品と、神々しいまでの知性の光が満ち満ちていた。
その背後には、腕まくりをしたCOOの梶原康平が、不敵な笑みを口元に浮かべながら書類ケースを抱えて控えている。
誠一郎は中央のマイクの前に立つと、一度だけ短く会釈をし、演壇へと両手を置いた。
佳乃と梶原は、誠一郎の左右の席へと静かに着席する。
マイクのテスト音すら必要としなかった。
誠一郎が切れ長の瞳を上げ、正面のテレビカメラのレンズを真っ直ぐに射抜いた瞬間、会見場の喧騒は、水を打ったように完全に消え去った。
「――お集まりいただき、感謝する」
低く、深く、全方位に染み渡るような冷徹なバリトンボイスが、兜記者クラブのスピーカーから響き渡った。
「タカツカサ・キャピタル代表取締役、鷹司誠一郎だ。……ただ今、午後三時をもって本日の東証の取引が終了した。これに伴い、我が社が本日取締役会において決議した、極めて重大な投資案件について、市場へ向けて公式の声明を発表する」
誠一郎は手元の原稿に視線を落とすことすらなく、正面を見据えたまま、歴史の引き金を引いた。
「当社は本日――東証プライム市場上場、鳴神物産株式会社に対する【株式公開買付け(TOB)】を開始することを、正式に決定いたしました」
――ドォォォォォンッ!!
記者クラブが、文字通り物理的に揺れたかのような錯覚。
次の瞬間、怒号のような歓声と、狂乱のタイピング音、そして怒涛のフラッシュの奔流が会見場を呑み込んだ。
「鳴神物産へのTOBだとッ!?」
「敵対的買収か!? 鳴神の取締役会の賛同はあるのか!?」
「質問! 買い付け条件は!? 買収総額はいくらだ!!」
殺気立つ記者たち。
だが、誠一郎は片手を静かに上げ、その狂乱を一瞬で制圧した。
そして、隣に座る佳乃へと、穏やかな信頼を込めた視線を送った。
「――具体的な買収スキーム、ならびに買い付け条件の詳細については、本買収案件の総指揮を執る、当社シニア・エグゼクティブ・オフィサーの槇野佳乃より説明させる」
総指揮――槇野佳乃。
その紹介に、記者席から再びどよめきが走った。
佳乃は静かに立ち上がり、演壇のマイクへと歩み寄った。
背筋をすっきりと伸ばし、手元のリモコンを操作する。
背後の大型スクリーンに、東証適時開示情報(TDnet)に今まさに送信されたばかりの『公開買付届出書』の概要スライドが投影された。
「タカツカサ・キャピタル、シニア・エグゼクティブ・オフィサーの槇野でございます」
佳乃の声は、驚くほど澄み渡り、記者たちの耳の奥へ寸分の狂いもなく染み入っていった。
「当社が提示する公開買付けの概要は、以下の通りでございます」
スクリーンに、巨大な数字が次々と映し出される。
【対象者】:鳴神物産株式会社(東証プライム・コード:80XX)
【買付価格】:普通株式1株につき、金【千七百四十円(¥1,740-)】
【プレミアム】:直近終値(千二百円)に対し、驚異の【プラス45・0%】
【買付総額】:金【約八百億円(¥80,000,000,000-)】
【買付予定数の上限】:【設定なし(全株取得・完全子会社化を視野)】
【買付期間】:本日より三十営業日
「一株千七百四十円……!? 直近株価の四十五%プレミアムだと!?」
「買付総額八百億円で、上限なしの全株取得……!?」
「完全な……完全なる敵対的買収だ!!」
経済記者たちが息を呑み、血相を変えてタブレットに速報原稿を打ち込み始めた。
四十五%というプレミアムは、通常のM&A市場における相場(二十〜三十%)を遥かに凌駕する、圧倒的な「札束の暴力」だった。
連日のガバナンス不全と社長の不祥事で株価が急落し、含み損に苦しんでいた一般株主や機関投資家にとって、この価格での買い取りは、喉から手が出るほど魅力的な救済提案に他ならなかった。
すかさず、全国紙の大手経済部記者が挙手し、叫ぶように質問を投げかけた。
「槇野さん! 八百億円という巨額の買収資金についてですが、タカツカサ・キャピタル単独でこれほどのキャッシュを即座に手当てできるのですか!? 銀行団からの融資証明の裏付けはあるのですか!?」
佳乃の唇の端に、極めて優雅で冷徹な笑みが刻まれた。
佳乃はリモコンをクリックし、次のスライドを表示した。
「資金の裏付けにつきましては、すでに完全無欠のコミットメントラインを締結しております。……当社の自己資金に加え、本日付で――国内最大手メガバンクである【株式会社大東京フィナンシャルグループ】様、ならびに国内外の主要な機関投資家連合より、総額千五百億円に及ぶ買収資金拠出の確約書を受領しております」
――大東京フィナンシャルグループ。
そのメガバンクの名が会場に響き渡った瞬間、記者クラブは完全に静まり返った。
大東京フィナンシャルといえば、鳴神物産の創業以来のメインバンクであり、先代・剛造の最大の盟友だったはずの銀行だ。
そのメインバンクが、鳴神物産を救済するのではなく――敵対的買収者であるタカツカサ・キャピタルの背後に立ち、八百億円の買収資金の「財布」として全面的に支援している。
「メインバンクが……敵対的買収を後援しているだと……!?」
「鳴神物産は……銀行からも、完全に見捨てられたのか……!?」
戦慄する記者たちに対し、佳乃は一歩も引くことなく、凛とした声で言葉を継いだ。
「鳴神物産の現経営陣は、先代会長の急逝後、わずか一ヶ月の間に重大な法令違反、労務不正、取引先への債務不履行を重ね、創業七十年の歴史あるサプライチェーンを崩壊の危機に晒しております。……当社はこの公開買付けを通じ、鳴神物産の腐敗したガバナンスを一新し、現場の何万人もの誠実な社員、そして日本の基幹物流を、外資系ブローカーによる不当な解体から守り抜く所存でございます」
感情論ではない。
完璧な法的ロジックと、圧倒的な資本力、そして「現場の救済」という大義名分。
会見場にいた誰もが、この買収劇が単なるハゲタカの略奪などではなく、破滅へと向かう巨艦を救うための、緻密極まりない「電撃作戦」であることを確信していた。
◇
同時刻、午後三時二十分。
テレビ東京系列の全国ネット経済報道番組『マーケット・プレイス・ライブ』のスタジオ。
画面のテロップには、緊急の赤帯速報が点滅していた。
『【速報】タカツカサ・キャピタル、鳴神物産に対し敵対的TOBを発表 買付総額800億円・プレミアム45%』
「――さて、兜町から衝撃的なニュースが飛び込んできました」
男性メインキャスターが、興奮を隠せない面持ちでカメラを見据えた。
「名門総合商社・鳴神物産に対し、独立系メガファンドのタカツカサ・キャピタルが電撃的な敵対的TOBを発表しました。この異例の事態について、本日はスタジオと中継を結び、大東京フィナンシャルグループの取締役副頭取、九条雅恵氏にお話を伺います」
画面が分割され、大東京フィナンシャルグループ本部ビルの重厚な応接室から、濃紺の優美な着物に身を包んだ九条雅恵の姿が映し出された。
背筋をピンと伸ばし、冷徹な理知を湛えた眼差しでカメラを見据える財界の女帝。
「九条副頭取、よろしくお願いいたします。……鳴神物産といえば、大東京フィナンシャルグループにとっても極めて関係の深い主力取引先のはずですが、今回のタカツカサ・キャピタルによる敵対的買収について、メインバンクとしてどのように受け止めていらっしゃいますか?」
キャスターの鋭い問いかけ。
市場関係者全員が固唾を呑んで見守る中、雅恵はゆっくりと口を開いた。
その声には、一滴の迷いも、鳴神物産の現経営陣に対する情けも含まれていなかった。
『単刀直入に申し上げます』
雅恵の低く凛とした声が、お茶の間のテレビのスピーカーから全国へと響き渡る。
『鳴神物産の現経営陣によるガバナンス不全、ならびに相次ぐコンプライアンス違反は、もはや上場企業として極めて深刻なレベルに達しております』
――ガバナンス不全。
メインバンクの副頭取が、生放送のテレビカメラの前で、自社の主要取引先を公然と断罪したのだ。
『先代・鳴神剛造氏がご存命であった頃、鳴神物産という企業が持ち得ていた強固な信用……それは、先代の指導力と、そして何より、現場の実務とリスク管理を完璧に掌握していた、かつての会長秘書室長代理――槇野佳乃さんという、卓越したプロフェッショナルの存在があってこそ成り立っていたものです』
雅恵の視線が、画面を通して視聴者を射抜く。
『知性も敬意もなく、その現場の功労者を理不尽に放逐し、無能な愛人を侍らせて放漫経営に溺れるような現経営陣に、私どもが預かる大切なお客様の資金を融資し続けることは、受託者責任の観点からも断じて許されません。……企業の持続的な価値を守り、現場のサプライチェーンを再生させるため、大東京フィナンシャルグループは――タカツカサ・キャピタルの提示したTOB提案を、真摯に、かつ全面的に【支持・評価】いたします』
――全面的に支持する。
それは、鳴神物産現体制に対する、完全なる「死刑宣告」の確定だった。
メインバンクが敵対的買収者への支持を公言した瞬間、銀行団の足並みは完全に揃い、鳴神物産の命脈は公的に絶たれたのだ。
◇
その頃――午後三時三十分。
港区虎ノ門、鳴神物産本社ビル三十四階。
「うわあああああああっ!!」
「おい、日経の速報を見ろ! タカツカサがウチにTOBを仕掛けてきたぞ!!」
「プレミアム四十五%!? 一株千七百四十円!?」
「テレビをつけろ! テレビ東京で九条副頭取が生出演して、ウチの経営陣を全否定してるぞ!!」
オフィスは、まるで直撃弾を受けた軍艦のように、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
フロア中の社員たちが立ち上がり、スマートフォンの画面やテレビモニターを取り囲んで悲鳴を上げている。
電話のベルは百台以上が一斉に鳴り響き、大株主である機関投資家、取引先、そして下請け企業からの問い合わせが怒涛のように押し寄せていた。
「PTS(私設取引システム)の株価を見ろ! ストップ高買い気配だ!!」
「買い注文が殺到して値がつかないぞ! 市場の株主たちが、みんなタカツカサに株を売ろうと殺到してるんだ!!」
「現経営陣は退陣か!? 俺たちの会社はどうなっちまうんだ!?」
その混乱の極みのフロアを、専務取締役の安西源三郎は、静かに腕を組んだまま見つめていた。
安西の胸元には、数日前に佳乃から託された『新生ナルカミ・グローバル再編計画書』のファイルが、しっかりと収められていた。
(……始まったか、槇野君。鷹司代表)
安西の瞳に、静かな覚悟の火が灯る。
泥舟を沈め、現場の命を救い出すための、最後の戦いが始まったのだ。
そして――
最上階・社長室。
「う……あ……ああ……」
昨日のエントランスでの現行犯逮捕の後、顧問弁護士が駆けつけて身元引受人となり、警察署での長時間の取り調べを経て、明け方に這うようにして戻ってきた鳴神貴之。
無精髭に覆われ、目の下にどす黒い隈を浮かべた貴之は、床に膝をついたまま、正面の壁掛け大型モニターを凝視していた。
画面に映し出されていたのは――
東証記者クラブで、無数のフラッシュを浴びながら、堂々と買収計画を語る鷹司誠一郎の冷徹な姿。
そして、その隣で、息を呑むほど凛とした美貌を輝かせ、世界中の投資家を魅了している、槇野佳乃の横顔。
『……タカツカサ・キャピタルの提案を、全面的に支持いたします』
テレビのスピーカーから流れる、九条雅恵の無慈悲な引導の言葉。
「嘘だ……嘘だろ……」
貴之の指先が、ガタガタと激しく痙攣した。
口の端から涎が垂れ、喉が引き攣る。
「敵対的……TOB……? タカツカサが、俺の会社を……買い叩く……?」
視界が真っ赤に染まり、頭蓋骨の内側で警報が鳴り響く。
「佳乃……! お前、俺の会社を奪う気か!? 俺を……俺を社長の座から引きずり下ろす気なのかあああああっ!!」
狂乱の叫び声が、誰もいない社長室に虚しく木霊した。
だが、その叫びに応える者は、世界中のどこにもいなかった。
資本主義の巨大な歯車が、情け容赦のない轟音を立てて回転を始めていた。
鳴神貴之という無能な暴君を処刑台へと送り届けるための、完全なる包囲網が――今、完璧に閉じられたのだった。




