019.小説家になろう連載開始一周年記念SS 数年前の扉、今の体温 ~公爵閣下は深夜に悶絶する~
夜半過ぎだった。ヴァレリオ公爵邸の回廊には、ほとんど人の気配がない。壁の魔導灯が淡く揺れ、長い絨毯の上へ静かな光を落としている。
ジュリアン・ヴァレリオは、ようやく帰還したところだった。
数日に及ぶ領地視察、王都へ戻ってからも山積みの政務。騎士団との折衝、税制改革、冬支度の物資調整……さすがのジュリアンも、珍しく疲労を隠せていなかった。漆黒の外套を脱ぎ、小さく息を吐く。
「……遅くなったな」
普段なら、まだ灯りの点いている時間に帰る。リシェルが待っていて、リアンが駆け寄り、アンナが眠たげに抱きついてくる。だが今日はもう、皆眠っているはずだ。
そう理解しているのに、足は自室ではなく、別の方向へ向かっていた。辿り着いたのは───内扉。かつて、彼を散々苦しめた扉。寝室同士を繋ぐ、あまりにも罪深い構造物。
「……」
ジュリアンは無言で立ち尽くした。数年前、結婚したばかりの頃。この扉は、彼の理性を試す過酷な拷問器具だった。向こう側には、愛する妻。けれど触れる勇気はない。近づけば壊してしまいそうで、言葉を掛けることすら恐ろしくて。だから、彼は。
「……数ミリだけ、開けていたな」
ぽつり、と独白が零れる。そして数秒後。
「………………気持ち悪い」
ジュリアンは真顔で、両手で顔を覆った。思い出してしまった。
深夜、呼吸を殺し、扉をほんの僅かだけ開け、リシェルの寝息を確認しては「今日も無事だ、健やかだ」と安堵していた、あの頃の自分を。
「……何をしていたんだ、私は」
低い声で呻く。
「完全に不審者ではないか。いや、不審者そのものだ」
社交界で『氷の公爵』と恐れられた男の実態が、『妻の寝息を盗み聞く男』。救いようがない。情緒が完全に終わっている。
(よく結婚生活が破綻しなかったな……)
むしろリシェルが仏のように優しすぎた。あの頃の自分に言いたい。もっと普通にしろ。いや、彼女が可愛すぎるのがいけないのか。
結局そこに行き着いてしまい、ジュリアンは深々と溜息をついた。だが、その表情はどこか穏やかだった。そっと扉に触れ、音を立てぬよう、慣れた手つきで開ける。
月明かりの差し込む寝室。そこには、川の字になって眠る三人がいた。真ん中にリシェル。左にリアン、右にアンナ。リアンは母親の寝衣の裾を握りしめ、アンナはぬいぐるみを抱えて頬をむにっと潰している。
「……」
胸の奥が、静かに熱を帯びる。数年前は、隙間から眺めることしかできなかった。今は、ここに入る資格がある。堂々と触れていい、愛していい。その事実が、時折まだ信じられないほど愛おしい。
ジュリアンはゆっくりと歩み寄り、寝相の悪いリアンの布団を掛け直し、アンナのぷくぷくした頬を指先でそっと突ついた。「むぅ……」と不満げな声を漏らす娘。……危うい、頬が緩みきる。
最後に、リシェル。柔らかな茶色の髪が枕に広がるその横顔を見た瞬間、蓄積した疲労が霧散した。
「……リシェル」
呼ぶつもりはなかった。けれど、指先が勝手に彼女の髪を梳いていた。
「……ジュリアン様?」
微睡み混じりの声。ゆっくりと瞼が開く。
「おかえりなさいませ……」
眠そうに微笑む彼女を見た瞬間、一年前の自分を再び思い出した。扉の向こうで、寝息だけで満足していた自分。触れることもできなかった自分。
「……ただいま、リシェル」
今は、真正面から言える。
「お疲れでしょう?」
「いや」
「嘘ですわね。目の下に疲れが見えております」
「……君には敵わないな」
昔なら、こんな自然な会話すら難しかった。完璧を演じ、探り合い、必死に格好をつけて。なのに今は、寝起きのまま笑い合える。
「こちらへ。……家族でしょう?」
リシェルが布団を持ち上げると、迷いは消えた。
───数分後。
『氷の公爵』と呼ばれた男は、身動きの取れない「狭さ」の中にいた。リアンが寝返りを打って脇腹に頭突きを食らわせ、アンナが寝ぼけて腕に抱きついてくる。だが───。
「……」
信じられないほど、満たされていた。リシェルが薄く目を開け、囁く。
「眠れそうですか?」
「ああ。……信じられないほど、よく眠れそうだ」
リシェルは満足そうに微笑み、再び眠りへ落ちていく。その寝顔を見つめながら、ジュリアンは思った。
───数年前の私に教えてやりたい。
そんな扉の隙間で震えていないで、早く開けろ、と。その先には、こんなにも温かい未来が待っているのだから。




