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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
番外編

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130,000PV突破記念SS 紅蓮の騎士と沈黙の蕾 ~始まりの縁談~


 これはジュリアンがリシェルと出会う数年前の出来事───。


 執務室には、紙を捲る音だけが静かに響いていた。昼下がり、ヴァレリオ公爵家当主ジュリアンは、手元の書状に視線を落としたまま、傍らに控える男の名を呼んだ。


「レオン」

「はい」

「お前に縁談が来ている」


 その瞬間、護衛騎士として完璧な不動を保っていたレオン・ディアスの眉が、ぴくりと跳ねた。


「……は?」


 ジュリアンは淡々と一通の釣書を差し出す。


「フェリシテ子爵家の長女。クロエ・フェリシテ」


 レオンがそれを受け取った瞬間、珍しく、本当に珍しく、彼の視線が泳いだ。ジュリアンは冷徹な瞳でその動揺を見逃さない。


「覚えがあるようだな」

「……まあ。……まさか、あのお嬢様が」


 レオンは観念したように息を吐き、一年前の、あの熱い夜を思い出した。




 クロエ・フェリシテ。


 蜂蜜色の髪を編み込み、スミレ色の瞳を持つその令嬢は、社交界では「冷たい令嬢」と誤解されていた。感情を表に出さず、夜会でも常に壁際に控えているからだ。だが事実は違う。彼女はただ、内気で、そして頑固なまでに真っ直ぐなだけだった。


 そんな彼女が、一年前の夜会で、一生に一度の恋をした。

 王城の庭園、初夏の夜。シャンデリアの残光が届く庭園は、華やかな喧騒に満ちていた。だが、重いドレスとコルセットに締め付けられたクロエにとって、そこは呼吸さえ困難な場所だった。


「……っ」


 限界だった。視界が滲み、身体がふらりと傾く。


 ───その時、夜風を切り裂くような力強い腕が彼女を支えた。


「おっと。……顔色が悪いですね」


 低い、けれど驚くほど澄んだ声。見上げれば、赤みがかった茶髪を揺らした騎士がいた。鋭い眼差しの中に宿る、場にそぐわないほどの優しさ。レオンは騎士としての的確な判断で、クロエを軽々と抱き上げた。


「……っ!?」

「ベンチへ移動します。少し我慢してください」


 人目に触れぬベンチへ彼女を運ぶと、レオンは即座に近くのメイドへ鋭い指示を飛ばした。


「水を。それから、人目のない場所を確保しろ。コルセットを緩める必要がある」


 無駄のない所作、騎士として当然の義務。彼にとっては、数ある任務の一つに過ぎなかった。だが、朦朧とする意識の中でクロエが見たのは、自分を支える大きな手の熱と、燃えるような髪色だった。


(……ああ。なんて、温かい手なの)


 その後、介抱されたクロエは礼を述べるのが精一杯だった。レオンもまた「無理をなさらず」とだけ告げ、背を向けようとした。


 けれど、その刹那。


 クロエは、彼の袖をぎゅっと掴んでいた。驚いて振り返るレオンに、彼女は何も言えない。ただ、潤んだスミレ色の瞳で、彼をじっと見上げた。


 言葉にならない沈黙。けれどその指先には、確かな熱がこもっていた。彼女の恋は、その瞬間に、沈黙の中で芽吹いたのだ。




「……それで?  お前はどうする」


 現在の執務室。ジュリアンの問いに、レオンは頭を掻きながら苦笑した。


「参りましたね。あのお嬢様、そんな風に思ってくれていたとは」

「彼女はお前を名指しで望んでいる。裏はない。……あの日から、お前だけを慕っているそうだ」


 レオンは窓の外へ目を向けた。


「……俺は、家も継げないただの剣馬鹿です。格上の令嬢を幸せにするような身分も、器もありませんよ」


 命を懸けるのは慣れている。だが、誰かの人生を背負うのは、重みが違いすぎた。


「レオン」


 ジュリアンが静かに書類を閉じる。


「器を測るのは、お前ではない。───彼女だ」


 その言葉が、レオンの胸に深く突き刺さった。


 あの日、震える指先で自分の袖を掴んだ、あの少女の覚悟。数秒の沈黙の後、彼は苦く、けれどどこか吹っ切れたように笑った。


「……分かりました。一度、お会いしましょう」


 その返答に満足げに頷くジュリアン。だがレオンは不敵に付け加えた。


「ただし公爵様。俺が婿入りしても、あんたの護衛は辞めませんからね。……あんたの溺愛っぷりを見張る奴が必要でしょう?」

「……好きにしろ」




 ───数年後。


「クロエ、また無理をしたな?  刺繍は一日一時間だと約束したはずだ」


 フェリシテ子爵邸。レオンの小言に、クロエは困ったように、けれど幸せそうに微笑む。


「……少し、貴方の剣を縫うのが楽しくて」

「少しじゃないだろ。顔色が白い」


 呆れながらも、その肩を抱き寄せる手は驚くほど優しい。

 レオンのアンダーシャツの裾には、常に一振りの「赤い剣」が刺繍されている。彼にとって、どんな勲章よりも誇らしい宝物だ。戦場で死を恐れなかった紅蓮の騎士は、今や妻の微かな溜息一つに右往左往する、立派な愛妻家へと成り果てていた。

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