006.愛する妻へ
山々の稜線が淡く煙る早春の朝、ヴァレリオ公爵家の馬車が、一台だけひっそりと並木道を進んでいた。屋根に家紋はなく、御者台にも家令の姿はない。ただ一人の男が、澄んだ空気のなかで手綱を握っている。
ギュスターヴ・ヴァレリオ。ジュリアンの父にして、先代のヴァレリオ公爵である。
領地での所用も、政務も、跡を継いだ息子に一任し、今では「放蕩中」と称して旅を重ねる毎日だ。しかし、旅に出る前と戻った後、必ず訪れる場所があった。彼の人生において、決して揺るがない、魂の拠り所とも言える場所。
その墓は、王都から南東に小一時間行った、花に囲まれた丘の上にひっそりと立っていた。小さな礼拝堂の裏手にある、その墓石にはこう刻まれている。
「アメリア・ヴァレリオ
享年二十八
静寂のうちに、愛しき者たちを見守る」
ギュスターヴは馬車を停め、手にした白い花束を抱えて降り立った。朝露を吸った草の香りが、ひんやりと鼻腔をくすぐる。
彼はゆっくりと墓石に向かい、軽く手を振った。その仕草に、かつての威厳ある公爵の面影はなく、ただ一人の男としての穏やかさが滲む。
「……よ、来たぞ。アメリア」
風に溶けるような、それでいて確かな声が、静寂の中に響いた。
「また旅に出る前にな。お前にだけは、ちゃんと報告しとかんと、落ち着かん」
彼は膝をつき、丁寧に花束を墓前に供えた。純白のバラが、朝日に照らされてわずかに輝く。リボンの結び目を指でそっと整えながら、ギュスターヴはしばらく目を閉じた。瞼の裏に、愛しい妻の面影が鮮やかに蘇る。笑い声、怒った顔、そして何よりも、彼の隣で幸せそうに微笑む姿。
「お前がいなくなって、もう十七年か……」
ぽつりと、再び声が落ちる。十七年。それは、あまりにも長く、そしてあまりにも短かった。失った悲しみは、時が経っても決して癒えることはなかったが、その悲しみは彼の心の一部となり、彼を形作る大切な要素となっていた。
「最初はな、正直どうしていいかわからなかった。ジュリアンは七つで、泣きもしなかったが……あいつなりに、全部飲み込んだんだな。あの子は昔から、お前に似て、よく見てる」
ギュスターヴは、遠くの山々を見るように目を細めた。七歳のジュリアン。母親の死を理解しながらも、涙一つ見せず、ただじっとその事実を受け止めていた息子。その姿は、幼いながらに彼自身の悲しみを押し殺し、強くあろうとしていたかのようだった。アメリアの面影を色濃く残すジュリアンは、母親のように周囲の些細な変化にも気づく、繊細で感受性豊かな子供だった。
「……可愛いものが好きだった。お前が縫ったリスのぬいぐるみを、ずっと抱えて寝てた。お前がいなくなってもな、捨てなかった。いや、捨てられなかったんだろうな」
アメリアがジュリアンのために縫った、少し不格好なリスのぬいぐるみ。アメリアが亡くなった後も、ジュリアンは肌身離さずそれを抱きしめて寝ていた。それは単なるぬいぐるみではなく、母親との絆、愛情の象徴だったのだろう。手放すことができないほど、その小さな心に深く刻み込まれていた。
風が、草花を揺らし、遠く鳥の囀りが聞こえる。丘の上の空気は澄み渡り、まるでアメリアが彼の話に耳を傾けているかのようだった。
「だから、あいつが“可愛いものを捨てた”時、わかったんだ。……お前に似たものを、見ないようにしてるって。守るために、強くなろうとしてるって」
ギュスターヴの言葉に、深い痛みが滲む。いつかの日、ジュリアンが大切にしていたうさぎのぬいぐるみを、自らの手で捨てるのを見た時のこと。あの時のジュリアンの瞳に宿っていた、幼いながらの決意。それは、愛しいものを失う悲しみに二度と囚われないように、そして自分自身を守るために、心を閉ざすという選択だったのかもしれない。アメリアに似た、感受性豊かな面を隠し、冷徹な仮面をかぶることで、彼は自らを守ろうとした。
ゆっくりと立ち上がると、ギュスターヴは懐から小さな絹の布を取り出した。端には、丁寧な刺繍で“A.V.”の文字。それはアメリアのイニシャルだ。褪せた布地は、長い年月を物語っている。
「お前のハンカチだ。……いまだに捨てられん。儂はなかなか切り替えができんタチでな」
苦笑混じりに、ギュスターヴは石に布を添える。彼もまた、アメリアを失った悲しみから完全に立ち直ったわけではない。彼女の面影は、彼の人生のあらゆる瞬間に存在し、彼の行動、思考、そして感情の根底に深く根ざしていた。彼の「放蕩」という旅もまた、アメリアを失った喪失感を埋めるため、あるいは彼女の面影を追い求めるための、終わりのない旅路だったのかもしれない。
「……でもな、アメリア。安心していい。ジュリアンは、ちゃんと幸せになってる」
その言葉には、確信があった。彼の旅は、決して無意味ではなかった。ジュリアンの成長を遠くから見守り、彼の幸せを願う日々の中で、ギュスターヴは確かな兆しを見つけていたのだ。
「リシェルって子だ。お前が見たらきっと『あらまぁ』って目を丸くするだろうな。子リスみたいな見た目で、まん丸の目をしてて、なにより気丈だ。芯がある。しかも、とんでもなく可愛い」
ギュスターヴの目に、わずかないたずらな光が宿る。リシェルという名前を口にするたびに、彼の顔には自然と笑みがこぼれる。ジュリアンが選んだ伴侶は、アメリアとはまた違う、けれど人を惹きつける魅力に満ちた女性だった。彼女の容姿、そして何よりもその内面の強さに、ギュスターヴは魅了されていた。
「可愛いんだよ、ほんとに。……お前がいたら、ふたりでどっちが可愛いか競いそうだ。いや、勝てる自信あるか? あの子、なかなかだぞ」
そう言って笑ったあと、ふと目を伏せた。彼の心には、アメリアとの楽しかった日々が鮮やかに蘇っていた。アメリアもまた、負けん気の強いところがあった。もしリシェルと出会っていたら、きっと楽しい火花を散らしただろう。そして、リシェルもまた、アメリアに劣らず人を惹きつける魅力を持っていた。
「でも、ジュリアンには手強かったみたいだ。……今でも時々、顔を真っ赤にしてる。触れたくて触れられなかった時間が長かったからな」
ギュスターヴは、ジュリアンの不器用な恋の顛末を知っていた。アメリアを失った経験から、ジュリアンは「可愛いものに触れると、また失うのではないか」という思いに囚われていた。その呪縛は、彼を愛から遠ざけ、心を開くことを躊躇させていた。リシェルへの深い愛情がありながらも、その感情を素直に表現できないもどかしさ。その葛藤を乗り越えるには、ジュリアン自身の力だけでは足りなかっただろう。
ゆるやかに吹いた風が、枝葉をそよがせる。木々の葉擦れの音が、彼の言葉に静かに寄り添う。
「お前のことがあったから、あいつは“可愛いものに触れると、また失うんじゃないか”って思い込んだままだった。でも、リシェルはそれを、優しく解いた」
ギュスターヴの声が、少し掠れる。リシェルは、ジュリアンの心の奥深くに根差した悲しみと恐怖を、持ち前の優しさと真っ直ぐな愛情で、ゆっくりと解き放っていった。彼女の存在は、ジュリアンにとって、凍りついた心を溶かす温かい光だったに違いない。
「優しい子だ。あの子なら、ジュリアンをちゃんと救ってくれる。——儂ができなかったことを、してくれる」
彼の言葉には、深い安堵と感謝が込められていた。アメリアを失った時、ギュスターヴは幼いジュリアンを悲しみから救い出すことができなかった。いや、正確には、彼自身もまた深い悲しみに囚われ、息子を導く余裕がなかったのかもしれない。その罪悪感が、彼の心の片隅に常に横たわっていた。しかし、リシェルがその重荷を、彼の代わりに背負ってくれた。ジュリアンの心を癒し、彼を真の幸せへと導いてくれたのだ。
少しだけ沈黙が落ちた。鳥のさえずりと、風の音が、その静けさを満たす。
「それだけじゃない」
と、ギュスターヴは続けた。彼の顔には、誇りと喜びが混じった表情が浮かぶ。
「ジュリアンは、もうあいつを“手放さない”と決めてる。見てるとわかる。愛してるなんてもんじゃない。……儂が、お前に感じた想いと同じくらい、いや、それ以上に……あいつは、あの子に夢中だ」
ジュリアンのリシェルに対する愛情は、かつてギュスターヴがアメリアに抱いた愛情と、いや、それ以上かもしれないほどの、深く、そして揺るぎないものだった。彼の目には、リシェルへの揺るぎない決意が見て取れる。二度と大切なものを失うまいとする、その強い意志。それは、過去の悲劇を乗り越え、未来へと力強く歩み出す、ジュリアンの新たな一歩だった。
「リシェルも、あの子なりに全力で応えてる。少し遠慮がちだが、全身でジュリアンを受け止めてる。……あれは、いい夫婦だよ。いい夫婦に育った」
リシェルもまた、ジュリアンの愛情に真っ直ぐに応えていた。控えめな性格でありながらも、ジュリアンの全てを受け入れ、彼を支えようとするその姿は、まさに理想の夫婦像だった。彼らは互いを尊重し、深く愛し合い、共に未来を築こうとしていた。静かに、墓石に手を当てる。ひんやりとした石の感触が、彼の掌に伝わる。
「だから、安心してくれ。儂はもう、心配せんでいい。……ジュリアンは、ちゃんと幸せになった。今度こそ、失わない幸せを手に入れた」
この言葉は、アメリアへの報告であり、そして何よりも彼自身の心への宣言だった。長年抱えていたジュリアンへの心配、そしてアメリアを失ったことへの後悔が、この瞬間、少しだけ軽くなったように感じられた。ジュリアンが真の幸せを手に入れたことで、ギュスターヴは心の底から安堵することができたのだ。
しばしの沈黙の後、ギュスターヴは手を合わせ、祈りを捧げた。その横顔には、長い旅路を経てなお変わらない、深く、そして普遍的な愛情の面影があった。それは、アメリアへの愛であり、ジュリアンへの愛であり、そして人生そのものへの愛だった。
馬車へと戻るとき、ギュスターヴは足を止め、もう一度丘の上を振り返った。朝日はすでに高く昇り、花々に囲まれた墓は、穏やかな光の中にあった。まるでアメリアが、彼の言葉に満足げに微笑んでいるかのようだ。
「アメリア。また来る。旅に出る前も、帰ったあとも……儂は、必ずお前に会いに来る」
そして、少しだけ照れくさそうに笑った。
「たまには夢の中で、儂の愚痴も聞いてくれ」
そうして手綱を握ると、ギュスターヴの乗った馬車は再び静かに走り出した。車輪の音が、静かな並木道に響く。
彼の背には、旅の道のり。
胸には、過去と、未来と、いまも確かに生きる愛があった。失われたもの、そして新たに芽生えたもの、その全てが彼の人生を彩り、彼を前に進ませていた。
そして、彼が知っているのは、愛は決して変新たな愛を生み出す。その連鎖こそが、人生の真髄なのだと、ギュスターヴは静かに悟っていた。彼の旅は続く。アメリアとの絆を胸に、そしてジュリアンの幸せを喜びながら。




