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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第2章 溺愛が昇華するまで

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56.奇跡

 春の陽射しが、石造りの回廊に柔らかな影を落としていた。窓から差し込む光は、公爵邸の冷たい石壁にも温かなぬくもりを与えている。いつもはどこか厳かで冷たい空気が流れる公爵邸にも、いまは希望に満ちた、温かい風が吹いているようだった。通りすがる者たちの表情は明るく、口元には微笑みが浮かび、使用人たちの声もどこか弾んでいた。その理由はただ一つ。――リアン・ヴァレリオの誕生である。公爵家の新しい命は、邸全体に喜びと活気をもたらしていた。


「ふふ……かわいい寝顔」


 リシェルは木漏れ日の差す寝台で、腕に抱いた小さな命をじっと見つめていた。その表情は、深い愛情と幸福感に満ちている。


 生後三日目。リアンは一日の大半を眠って過ごしていたが、その顔立ちは日を追うごとに鮮やかに整いはじめていた。銀糸のような柔らかい髪が額にかかり、くるんと巻く長い睫毛。そして瞳は、深い夜のような漆黒――まさにジュリアンの面影そのものだった。その小さな顔立ちには、すでに公爵家の血筋を感じさせる高貴さが漂っている。


(でも、鼻の形は私に似てるかも。それから、口元も少し……)


 そっと指でなぞりながら、リシェルは微笑む。声を上げて泣いたかと思えば、眉をしかめて小さくあくびをする。何もかもが愛おしく、その小さな命から目が離せない。息をするのも忘れそうになるほど、リアンの存在に引き込まれていた。


「――まるで宝石ですね。光を受けて、きらきらと輝いているようです」


 窓辺に控えていた侍女エミリアが、感嘆の声を漏らした。彼女の瞳にも、リアンに対する深い愛情が宿っている。


「ええ。……まさに、私たちの宝石です。かけがえのない、大切な宝物」


 リシェルは頷き、そっとリアンの柔らかな頬に唇を寄せる。温かい感触が伝わってくる。柔らかな頬に触れた瞬間、リアンはきゅっと小さな拳を握って眉をしかめた。まるで、何かを訴えているかのようだ。


「ふふ……ごめん、起こしちゃった?  それとも、キスは嫌だったかしら?」


 リシェルが優しく語りかけると、エミリアがくすりと笑った。


「いや……たぶん、怒ってるんじゃなくて、甘えてるんです、奥様。旦那様も、奥様に甘えるとき、ああいう顔をなさいますから」


 エミリアの言葉に、リシェルは思わず考え込んでしまった。


「……確かに、ちょっと、似てるところ、あるかも」


 リシェルはくすりと笑った。夫婦の間にしかわからない、ささやかな共通点。それが、今、小さな我が子にも見られることが、何よりも嬉しかった。


 そのとき――扉が静かにノックされた。その音は、まるでこの穏やかな空間に、そっと溶け込むようだった。


「リシェル、入っても?  リアンの様子はどうだろうか?」


 ジュリアンの声は、普段の厳格さを潜め、優しさと心配が入り混じっていた。


「もちろん。入って、ジュリアン様」


 リシェルがそう言えば、ジュリアンは寝不足で目の下にほんのり影を落としながら、けれど柔らかい微笑を浮かべて現れた。彼の顔は、疲れよりも、幸福感で満たされている。


「どう?  よく眠ってたかい?  途中で泣いたりしなかったか?」


 ジュリアンは、心配そうに尋ねた。


「うん、でも今、あなたが来たことで起きちゃった。あなたの声がしたから、きっとわかったのね」


 リシェルは、リアンの小さな手をそっと握った。ジュリアンは歩み寄ると、そっと我が子の小さな頭を撫でた。まるで触れることすら恐れるような、繊細な、そして愛おしい動きだった。その指先には、深い愛情が込められている。


「こんにちは、リアン。……君に会えて、本当にうれしい。私たちの元に来てくれて、ありがとう」


 ジュリアンの声は、震えていた。その瞳には、すでに涙が滲んでいる。


「……うれしそうね、ジュリアン様。いつもよりも、何十倍も」


 リシェルが、優しくからかうように言った。


「当たり前だ。リシェル……私はいま、これまでの人生で一番、幸せを感じている。君とリアンが、私の傍にいてくれることが、何よりも尊い」


 その言葉はまっすぐで、まるで祈りのようだった。彼の心からの言葉が、リシェルの胸を温かく満たした。

 午後になると、客が次々と訪れた。リアンの誕生を祝うために、多くの人々が公爵邸を訪れたのだ。


 まずはリシェルの両親、アルバートとセレスティアが、エルノワーズ領から馬車を飛ばして駆けつけた。彼らの顔には、喜びと、そして安堵の表情が浮かんでいる。


「リシェル……!  よく頑張ったわね!  無事で、本当に良かった……!」


 セレスティアが真っ先に抱きしめたその瞬間、リシェルの目に涙がにじんだ。母親の温かい抱擁は、何よりもリシェルの心を癒した。


「お母様……お父様……来てくれて、ありがとう……」


 リシェルは、震える声で感謝を述べた。


「お前が無事で何よりだ。そして、こんなに元気な孫まで……。本当に、感謝しているぞ、リシェル」


 アルバートも、リシェルの肩を優しく抱きしめた。


「この子が、リアンなのね……まぁ、なんて愛らしいのでしょう……!」


 赤子を見た瞬間、セレスティアは両手を口元に当てて、わずかに震えた。ジュリアンに瓜二つの容姿を見て、彼女はふっと微笑む。その微笑みには、何かを思い出したような、懐かしい感情が込められていた。


「ふふ……やっぱり、そうなるのね。まるで、あの頃のアルバートを見ているようだわ」


 セレスティアが、ジュリアンに向かって言った。ジュリアンは、少し困ったような顔をしている。


「え?  お母様、どういうことですか?」


 リシェルが、不思議そうに尋ねた。


「私がリシェルを産んだときも、そわそわしていて落ち着きがなかったのよ、お父様が。それはもう、見ていられないくらいにね」


 セレスティアが、楽しそうに過去を語った。


「そ、そうだったか?  私は、冷静だったつもりだが……」


 アルバートは、少し慌てた様子で言った。


「ええ、でも成長するにつれて、リシェルは私のように気が強くなっていったわ。そして、今はジュリアン様の手綱をしっかり握っている。血は争えないものね」


 セレスティアが、リシェルを見て微笑んだ。


「……本当にね」


 ジュリアンが苦笑して呟いた。


「ちょっと!  聞こえてるんですけど!  私が気が強いですって?!」


 リシェルが頬をふくらませた。その様子は、まさにセレスティアの言う通りだった。


「はは、それが証拠だ」


 アルバートが笑い、セレスティアも肩をすくめる。家族の温かい笑い声が、部屋中に響き渡った。やがて赤子の手が小さく動き、拳が空を切った。その仕草に、大人たちの顔が自然とほころぶ。小さな命の存在が、皆の心を温かく包み込んでいた。




 その後も、執事長セドリックやメイド長マルグリット、厨房のジャンや新人メイドたちが交代で赤子の顔を見に訪れた。皆、口々にリアンの誕生を祝福し、その愛らしさに感嘆の声を上げた。


「まさか公爵様にこんなに似ておられるとは……!  将来が楽しみでございますね」


 セドリックが、誇らしげに言った。


「でも、目元は奥様ですわ!  奥様の優しい瞳を受け継いでいらっしゃる!」


 マルグリットが、目を輝かせながら言った。


「将来は公爵様のようなご立派な……いや、公爵様をも超えるお方になられるでしょう!」


 ジャンが、興奮気味に語った。そんな声が飛び交う中、ひときわ誇らしげに腕を組んでいたのはジュリアンだった。彼の表情は、喜びと、そして深い愛情に満ちている。


「……リアンは、将来何になるのかしらね。ジュリアン様のように騎士になるのかしら」


 リシェルがぽつりと呟いた。


「軍務に就くもよし、学者になるもよし……芸術家でもいい。この子の望む道に進ませてやろう。君と私の子だ、きっと自由に生きられる」


 ジュリアンは、リアンの未来に思いを馳せる。彼の声には、子どもの意思を尊重する、親としての深い愛情が込められていた。


「あなたがそう言ってくれると、きっとこの子も心強いわ。自由に、そして強く生きていけるわね」


 リシェルは、ジュリアンの手を取った。


「でも……」


 ジュリアンは、そっとリアンの額に手を当てる。彼の表情は、一瞬だけ複雑なものになった。


「きっと私は、彼の初恋の相手に嫉妬することになるだろう。彼が誰かを愛する姿を見るのは、嬉しいが、少し寂しいだろうな」

「うわ、それ過保護すぎる!  まだ生後三日目よ?!」


 リシェルが大笑いし、赤子がつられてきゅうと泣き出した。その泣き声は、まるでリシェルとジュリアンの会話に加わるかのようだった。しかし、それもすぐに、ジュリアンが抱き上げると不思議と泣き止む。リアンは、ジュリアンの腕の中で、安心したように眠りについた。


「……やっぱり、あなたが好きなのね。私よりも」


 リシェルが、少し拗ねたように言った。


「ふっ、当然だ。彼は男だからな。男は、強い者に惹かれるものだ」


 ジュリアンが、満足げに笑った。


「でも私がお乳をあげてるのよ?  それは私にしかできないことなのに!」


 リシェルが、抗議するように言った。


「……それは負けた。君には敵わない」


 珍しく口ごもったジュリアンに、リシェルは思わず吹き出した。二人の間に、温かい笑い声が満ちる。




 夜が近づき、見舞いの客も落ち着くと、寝室に再び静けさが戻った。揺り籠の中で、リアンはすやすやと眠っている。その寝息は、穏やかで、部屋全体を優しい空気に包んでいた。


「ねえ、ジュリアン様。私たち、すごいことをしたのよね。本当に、信じられないわ」


 ベッドの中、互いの手を重ねて眠る前、リシェルはぽつりと呟く。


「……ああ。命を、この世に迎え入れた。これは、まさに奇跡だ。君が、私にこの奇跡を与えてくれた」


 ジュリアンは、リシェルの手を優しく握りしめた。


「まだ怖いの。ちゃんと母親になれるか、リアンを守ってあげられるか……。この小さな命を、本当に大切に育てられるか、不安になるわ」


 リシェルの声は、不安で震えていた。


「私もだ、リシェル。君と同じ気持ちだよ。親として、未熟な部分もあるだろう。けれど――」


 ジュリアンはその手を強く握り返す。


「君となら、どんな夜も越えられる。どんな困難も乗り越えられる。だからきっと、大丈夫だ。私たちは、二人で、リアンを育てていこう」


 リシェルは頷くと、赤子の眠る方へと顔を向けた。その瞳には、希望と、そして深い愛情が宿っていた。


 揺り籠の向こうには、また新しい朝が待っている。リアンが成長し、歩き、笑い、時に泣き、初めての恋をし、失敗を重ねて、それでも前に進んでいく未来。そのすべてが、いまこの瞬間から始まっている。ふと、リシェルは夢の中で聞いた声を思い出す。


 ――もうすぐ、行くよ。


「ねえ、ジュリアン様。もしかしたら、リアンはずっと私たちを見てくれてたのかもね。私たちが夫婦になって、彼を望むようになるまで、ずっと待ってくれていたのかもしれないわ」

「……そうかもしれない。だからこそ、彼は私たちの元に来てくれたのだ」


 ジュリアンの声は、優しく、そして確信に満ちていた。


「だったら、これからも見ててくれるわ。私たちが、ちゃんと親になる姿を。失敗しながらも、彼と一緒に成長していく姿を」


 リシェルは、リアンに語りかけるように呟いた。


「約束しよう。絶対に、幸せにする。君とリアンを。この命尽きるまで、二人を護り、愛し続けると誓う」


 ジュリアンのその言葉は、闇の中に灯る暖かい光のようだった。それは、彼の心の奥底から湧き上がる、揺るぎない決意の表れだった。


 そして――その光は、まだ誰も知らない、未来の物語を、ゆっくりと照らしはじめていた。

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