55.命の時
「……ねえ、ママ」
夢の中で声がした。まだ幼い少年の声。柔らかく澄んだ声で、目の前に立っていたのは、10歳ほどの男の子だった。銀髪の髪が額にかかり、大きな漆黒の瞳で笑っている。まるでジュリアンをそのまま縮めたような愛らしさと整った顔立ちに、リシェルは夢の中でも言葉を失った。その瞳の奥には、どこか懐かしさを感じる光が宿っていた。
「ぼくね、もうすぐ行くよ。もうちょっとで、ママとパパに会える」
少年は、リシェルに手を差し伸べる。その手は、小さく、温かかった。
「……あなた、誰……? もしかして……?」
リシェルは、夢の中なのに、その存在の確かな重みに、胸を締め付けられるようだった。
「リアンだよ。もう知ってるでしょ? ママとパパが、毎日ぼくの名前を呼んでくれてるから」
そう言って、少年は微笑む。その笑顔は、あまりにも純粋で、リシェルの心を深く揺さぶった。
「ちょっとだけ怖いけど、大丈夫。だって、パパがいるから。ママがいるから。ぼくは、もうすぐそこに行くよ」
少年の言葉は、リシェルに勇気を与えると同時に、漠然とした不安を煽った。
「まって、リアン、あなた……!」
何かを言おうとした瞬間、世界がふっと薄くなり、少年の姿が霞んでいく。リシェルの手が、空を掴んだ。
「……っ、あっ」
目を開けると、薄明かりの中。夜はまだ明けきっていない。胸元にはうっすらと汗がにじみ、リシェルは浅く息を吐いた。身体は、まるで長時間走り続けたかのように疲弊していた。
(夢……だったのね。でも、まるで――現実みたいに、鮮明だった。あの声、あの顔……)
そのときだった。下腹にどくん、と何かが押し寄せてきた。鋭い痛みが、波のように押し寄せる。それは、夢の余韻をかき消すような、確かな現実の痛みだった。
「……ッ!」
咄嗟にシーツをつかみ、息を詰めた。身体が、本能的にその痛みに反応する。一度目の波が引いたあと、リシェルは確信する。これは夢じゃない。これまでの腹痛とは、全く違う種類の痛み――陣痛だった。
「エミリア……誰か……! ミルダ先生を……!」
寝台から声を上げると、すぐに部屋の外に待機していたエミリアが駆け込んできた。エミリアの顔は、緊張と、そして心配でいっぱいだった。
「奥様!? 大丈夫でございますか!? ご気分が……!」
エミリアは、リシェルのただならぬ様子に、慌てたように駆け寄った。
「お願い……ミルダ先生を……呼んで……! すぐに……!」
リシェルの声は、かすれていた。エミリアは目を見開き、状況を察すると、すぐさま飛び出していった。彼女の足音は、公爵邸の廊下に響き渡る。
それからは、時間の感覚が曖昧だった。次々に強まる痛み。時計の針のように、正確に数刻おきに訪れる波。その波が来るたびに、リシェルの呼吸は乱れ、身体が強ばった。ミルダが到着し、ジュリアンも着替えもそこそこに駆け込んでくる。彼の顔には、心配と、そして焦りが浮かんでいる。
「リシェル! 大丈夫か!? どこが痛むんだ!? ……っ、私が傍にいる! 落ち着いてくれ! 私が、君を護る!」
ジュリアンは、リシェルの傍に駆け寄ると、彼女の手を強く握りしめた。彼の声は、不安で震えていた。
「ジュリアン様……っ、あ、あああっ! 痛い……痛いです……っ!」
リシェルの声は、痛みのあまり叫び声に変わっていた。
「深呼吸だ、リシェル。私が言った通りに、深呼吸をするんだ。ミルダ、どうなのだ、彼女は……! リシェルの容態は……!」
ジュリアンは、ミルダに詰め寄るように尋ねた。
「まだ前駆陣痛です。しかし、進みは早い。奥様は、もうすぐ本陣痛に入るでしょう。覚悟なさい、公爵殿。貴方も、奥様を支える覚悟を」
冷静なミルダの声と共に、侍女たちが湯を沸かし、清潔な布を用意し、寝台の周りを整えていく。彼女たちの動きは、訓練されているかのように無駄がない。ジュリアンはその全てを見守りながら、リシェルの手をぎゅっと握りしめていた。彼の掌からは、温かい力が伝わってくる。
「私が……私が代われるものなら、代わりたい……! こんな痛みを、君に一人で負わせてしまうなんて……!」
ジュリアンの声は、苦しそうに絞り出された。
「それは無理だわ……でも、傍にいて……いてくれるだけで、いいから……! あなたがいてくれれば、私は頑張れるから……!」
リシェルの唇は真っ白だった。痛みのあまり吐きそうになりながら、ジュリアンの腕にしがみついた。彼の腕は、リシェルを支えるように強く抱きしめている。
「こわい……こわいよ、ジュリアン様……! こんな痛み、初めて……!」
リシェルは、子どものようにジュリアンにしがみついた。
「大丈夫だ、リシェル。君は強い。何より、リアンが――君を信じている。私たちは、君と一緒だ」
ジュリアンは、リシェルの髪を優しく撫でながら言った。その声は、震えていながらも、確かな響きを持っていた。
「え……? リアン……?」
リシェルが、不思議そうに顔を上げた。
「さっき……私にも夢を見たんだ。10歳くらいの男の子だった。銀髪で、漆黒の瞳で、私そっくりで……そして、彼は言ったんだ。“もうすぐ、ママとパパに会える”と」
ジュリアンの言葉に、リシェルの目が大きく見開かれた。
「やっぱり……! 私も、同じ夢を見たわ! あの子……本当に、私たちの子なのね……!」
互いに見た同じ夢。それが現実と重なったことで、リシェルは少しだけ、恐怖の波を越えられた気がした。未来の我が子が、自分たちを励ましに来てくれたのだと、そう信じられたからだ。
朝が白む頃には、陣痛の間隔がさらに短くなっていた。痛みの波は、一層強く、頻繁に押し寄せる。リシェルは、すでに汗だくになり、呼吸も荒くなっていた。
「産室へ運びます。奥様の体力消耗を防ぐためにも、早めに移動しましょう。公爵殿は……」
「行く。リシェルの傍を離れることなど、あり得ない。この苦しみを、共に乗り越える」
ミルダはジュリアンを見たが、その言葉を遮るようにジュリアンは答えた。そして、リシェルの手を離さなかった。古くから貴族の出産は男が立ち会わぬものとされていたが、彼にとってそれはどうでもよかった。ただ、彼女が苦しむこの時間に、傍にいないなどあり得なかった。彼は、リシェルを支えるために、そこにいる必要があった。
分娩用に用意された広間は、暖炉に火が入り、蒸しタオルが何枚も積まれていた。清潔な白い布が敷かれ、部屋全体が厳粛な雰囲気に包まれている。
「大丈夫……ミルダ先生がいる。ジュリアン様がいる……! 私なら、できる……!」
リシェルは、何度も深呼吸を繰り返し、陣痛に合わせて体を預ける。ミルダの合図で、侍女たちが交代で支えに入る。彼らの顔にも、緊張と、そして期待が入り混じっていた。
「奥様、あともう少しで頭が出ますよ。頑張って、はい、息んで! 赤ちゃんも、頑張っていますよ!」
ミルダの指示が、的確に飛ぶ。
「——っ、ああああああっ!」
外に響くほどの叫び。リシェルは、全身の力を振り絞る。握ったジュリアンの手が白くなるほど強くて、彼の目からも、静かに涙が落ちていた。彼の顔は、リシェルの痛みを共有するかのように、苦痛に歪んでいる。
「リシェル……君は、どれほど……どれほどの痛みに耐えているのだ……!」
ジュリアンの声は、震えていた。
「見えてきました……! もうひと押しです、奥様! しっかり、もう一度!」
ミルダの声が、リシェルを奮い立たせる。
「うぁぁぁあああっっ! うおおおおおおおっっ!」
リシェルの最後の叫びが、部屋中に響き渡る。そして――。
「おぎゃああああっ……!」
部屋に響く産声は、まるで鐘の音のように高く、澄んでいた。その声は、新しい命の誕生を告げる、希望の調べだった。部屋全体が、一瞬の静寂の後、歓喜に包まれた。侍女たちは、安堵のため息を漏らし、目頭を押さえている。
「男の子です。とても元気……少し早めの出生ですが、母子共に安定しています。奥様、本当によく頑張りましたね」
ミルダがそう告げると、部屋全体がほっとした空気に包まれた。彼女の顔にも、安堵の表情が浮かんでいた。
血と汗に濡れたリシェルは、脱力しきった腕で、我が子を胸に抱いた。その小さな身体は、温かく、そして柔らかかった。
「……あなたが、リアン……ね」
リシェルの目から、温かい涙が溢れ出した。小さく拳を握りしめ、まるで何かを話すように口を動かしている赤子は、本当に夢で見たあの子の面影を宿していた。
「ありがとう……生まれてきてくれて……私の元に、来てくれて……」
ジュリアンも、息を詰めたままその小さな命を見つめていた。彼の瞳は、感動と、そして深い愛情に満ちている。リシェルの横に腰を下ろし、震える指で、そっと赤子の額に触れる。その指先からは、親としての初めてのぬくもりが伝わった。
「君の名は、リアン・ヴァレリオ。私と、リシェルの、大切な息子だ。ようこそ、私たちの元へ」
ジュリアンの声は、優しく、そして誇らしげだった。
リシェルは頷いた。その瞳は、愛おしそうにリアンを見つめている。そしてそのとき――また小さく、ぽこん、と動いた気がした。リアンが、二人の親の言葉に、応えるかのように。命の合図。
「ようこそ、リアン。ずっと、ずっと、待ってたよ」
リシェルは、リアンの小さな手にそっと触れた。その手は、温かく、そして柔らかかった。
窓の外では、朝の光が差し込み、雪が静かに解けていた。冬の寒さの中に、春の訪れを告げるような、温かい光が満ちていく。屋敷中が、産声と歓声とで明るく満たされたその日、ヴァレリオ公爵家に、新たな命が生まれた。
リシェルとジュリアン、そして小さなリアン。三人の物語が、いま、新しく始まろうとしていた。それは、幸福と愛に満ちた、新たな章の幕開けだった。




