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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第2章 溺愛が昇華するまで

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54.産まれてくる君へ

「……よいしょ。うう、少しずつ、ね……」


 妊娠後期に入り、お腹の膨らみもかなり目立つようになったリシェルは、侍女エミリアの手を借りながら、書斎のソファにゆっくりと腰を下ろした。その動作は、まるで小さな山を越えるかのように、慎重で、そして大変そうだった。背中には、すでに汗がにじんでいる。


「ふぅ……ここまで歩くのにも一苦労になってきたわね。少し前までは、こんなことなかったのに」


 リシェルは、苦笑しながら息を整えた。身体の変化に、改めて驚きと、そして少しばかりの戸惑いを感じていた。


「ご無理は禁物ですよ、リシェル様。あまり動き回るとミルダ様に叱られますよ。旦那様も心配なさいますし」


 エミリアが、優しく、しかし確かな口調でリシェルを窘めた。彼女の目は、リシェルの体調を常に気遣っている。


「ふふ、叱られっぱなしね、私……でも、出産の準備だけは、どうしてもこの目で確かめておきたくて。この目で見て、安心しておきたかったの」


 リシェルは、そんなエミリアの言葉に微笑んだ。そして、ジュリアンの書斎の片隅にある小さなクレードル(ゆりかご)を見つめた。ほんの数日前に届いたばかりのそれは、王都の名工に依頼し、特注で作られたものだった。優しい木目と繊細な彫刻が施された美しい逸品で、まるで小さな芸術品のようだった。


「この子が……この中で、すやすや眠るのね。どんな夢を見るのかしら」


 リシェルは、クレードルに手を伸ばし、そっとその縁を撫でた。その指先には、未来への希望が込められている。いつの間にかやってきたジュリアンが声をかける。


「きっと、リシェルに似て愛らしい子だ。優しく、そして聡明な子に育つだろう」


 ジュリアンは、リシェルの隣に立ち、クレードルを見つめながら言った。彼の声は、喜びと、そして深い愛情に満ちていた。


「ううん、ジュリアン様似の整った子かもしれないわね。きっと、あなたのように凛々しくて、でも優しい子になるわ」


 リシェルが、ジュリアンを見上げて微笑んだ。


「そのどちらでも、きっととても幸せな子になるな。君と私が、全身全霊で愛し、護っていくのだから」


 ジュリアンの言葉に、リシェルは思わず笑みを浮かべた。幸せ。自分の口から、自然にその言葉がこぼれるようになった。それが、なんだか少し不思議だった。かつての自分からは、想像もできなかった境地だ。




 その日の午後。ジュリアンが公爵邸の全使用人を書斎に集めた。何が始まるのかと、皆が緊張した面持ちで立っている。リシェルも、何が始まるのか分からずにいた。


「リシェル様、ジュリアン様……生まれてくるお子様のために、皆で贈り物を用意させていただきました。どうか、お納めください」


 代表して口を開いたのは、老執事セドリックだった。彼の顔には、優しい微笑みが浮かんでいる。手には、美しく磨かれた銀の鈴が握られていた。その鈴は、セドリックが長年大切にしてきたものだということが、一目でわかる。


「……セドリック、これは一体……?」


 リシェルは驚いて言葉を失った。


「わたくしが若かりし頃に仕えていた殿方より拝領した“守りの鈴”でございます。この鈴の音色には、邪悪なものを払い、健やかな成長を促す力があると伝えられております。生まれてくるお子様が、何事もなく健やかに育つよう、願いを込めてお贈りいたします」


 セドリックは、恭しく鈴をリシェルに手渡した。その鈴は、彼の人生の重みと、未来への願いが込められた、かけがえのない贈り物だった。リシェルが感動に打ち震えるなか、次に進み出たのはメイド頭のマルグリット。彼女の顔には、自信と、そして温かい愛情が満ちている。


「こちらは、わたくしが縫いましたよ。赤ちゃんのための、おくるみです。生地は王都の最高級品を取り寄せ、一針一針、心を込めて縫い上げました」


 ふわりと広げられたそれは、淡いレモン色に小さな星の刺繍が施された優しい布だった。触れると、ふかふかと柔らかく、温かさが伝わってくる。


「うわぁ……!  マルグリット、こんなに素敵なものを……!」


 リシェルの声が、感動で震えた。


「男の子でも女の子でも似合うようにと考えました。夜空に輝く星のように、この子が希望に満ちた未来を歩めるようにと。しっかり綿を入れてあるので、冬の冷たい風もへっちゃらですよ。どうぞ、安心してお使いください」


 マルグリットは、優しい眼差しでおくるみを見つめた。


 その後も、ひとりひとりが手渡してくれる贈り物に、リシェルはすっかり圧倒されていた。公爵邸の使用人たちは皆、この新しい命の誕生を心から喜んでいることが、その贈り物と表情から伝わってきた。若手メイドからは手作りのガラガラ。カラフルな糸で編まれたそれは、温かい手作業のぬくもりを感じさせた。庭師トーマからは、彼が大切に育てたラベンダーを編み込んだ香り袋。安らかな眠りを誘う香りが、ふわりと漂う。料理長のジャンからは、赤ちゃん用のミルククッキーの試作品。まだ食べられないけれど、その気遣いが嬉しかった。


「わ、私からは、絵本を一冊……えと、昔自分が読んでたもので……あの、挿絵がすごく可愛いんです……!  きっと、赤ちゃんも気に入ってくれると思います……」


 と、いつも小声で、人見知りの新人メイドのマリーまでが、恥ずかしそうに震える手で差し出してくれた。その絵本は、使い込まれていて、マリーが大切にしていたことがわかる。


「ありがとう……ありがとう、皆……!  本当に、こんなにたくさんの贈り物を……」


 リシェルは目頭を押さえ、言葉を絞り出した。彼女の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。


「嬉しい……本当に、嬉しい……この子は、こんなにたくさんの人に、待ってもらってるのね……こんなに愛されているなんて……」


 リシェルは、感動のあまり、声を震わせた。その時、彼女の隣でジュリアンがそっと口を開いた。


「リシェル」


 その声に振り向くと、ジュリアンがそっと差し出したのは、淡いブルーのベルベットの箱だった。彼の瞳は、深く、そして真剣にリシェルを見つめている。


「これは、私から。君と、私たちの子どもへの贈り物だ」


 リボンを解いて中を開けると、そこには小さな金のペンダントが入っていた。繊細な細工が施されたそれは、光を受けてきらきらと輝いている。中には二つの刻印——一つは“R”、リシェルの頭文字。もう一つは“J”、ジュリアンの頭文字。そして、その二つの文字に寄り添うように、もう一つ、小さく“B”と刻んであった。


「これは……ジュリアン様……」


 リシェルの声が、感極まって震えた。


「君と、私の頭文字だ。そしてもう一つ、小さく“B”と刻んである。Baby、生まれてくる私たちの子どもを意味する。このペンダントは、君と、私たちの子どもの、そして私たちの家族の絆の証だ」


 ジュリアンの声は、どこまでも優しく、そして力強かった。


「この子は、君と私の愛の証だ。そして私は、二人をこの腕に、絶対に守る。どんな困難からも、君たちを護り抜くと誓う」


 リシェルの頬を涙が伝う。嬉しさと、温かさと、込み上げる想いが胸を満たして、言葉がうまく出てこなかった。ただ、手を伸ばして、彼の手をぎゅっと握る。その手は、温かく、そして力強かった。


「ありがとう、ジュリアン様。私……幸せだよ。ほんとに、ほんとに……言葉にならないくらい、幸せ……」

「君がそう言ってくれるなら、私はどんな試練でも超えてみせる。君と、この子の笑顔のためなら、私はどんなことでも乗り越えられる」


 ジュリアンは、リシェルの涙を優しく拭った。そしてそのとき。


 ぽこん。


「――っ!」


 リシェルのお腹の中で、はっきりと動いた。まるで、二人の会話に混ざるように、小さな命が合図を送ってきたようだった。その胎動は、喜びのようにも、祝福のようにも感じられた。


「今……動いたわ!  ジュリアン様!  感じた?!」


 リシェルが、興奮してジュリアンに尋ねた。


「わかる……感じた……!  私たちの声が、この子に届いたのかもしれないな」


 驚きと感動が二人を包み、使用人たちがぱっと表情を明るくする。彼らもまた、その胎動を感じ取ったかのように、顔を見合わせて微笑んだ。


「この子なりに、“ありがとう”って言ってるのかも……私たちに、感謝の気持ちを伝えてくれてるのかも」


 リシェルが、愛おしそうにお腹を撫でた。


「ええ、間違いありませんね。赤ちゃんの胎動は、お母様の感情に敏感に反応します。奥様と公爵殿の愛情が、確かにこの子に届いている証拠です」


 ミルダがいつの間にかそっと近づき、頷いた。彼女の表情は、いつもの冷静さの中に、温かい眼差しが宿っていた。


「この子はきっと、とても強く、優しい心を持った子に育ちますよ。あなた方の愛情を、誰よりも受けているのですから。それは、この子の成長にとって、何よりも大切な栄養となるでしょう」


 その夜、部屋の片隅に並べられた贈り物を見ながら、リシェルはふと思った。


(家族って、こういうものなんだな)


 それは、自分たち二人だけじゃない。セドリックも、マルグリットも、ジャンも、トーマも、そして新人メイドのマリーも。公爵邸の皆が、この小さな命の誕生を心から待ってくれている。それが、たまらなく嬉しかった。彼女の心は、温かい幸福感で満たされていた。


「おやすみ、私の赤ちゃん。皆が、君を待ってるよ。早く会いたいな……」


 リシェルは、お腹にそっと手を添え、優しく語りかけた。その声に、また小さく、ぽこんと返事があった。まるで、赤ちゃんがリシェルの言葉に応えているかのようだった。冬の夜風が窓の外をさらりと撫でていった。その風は、新しい生命の訪れを告げる、希望の風のようだった。


 ──誕生の日は、もうすぐ。そして、その日は、この公爵邸にとって、新たな歴史の始まりとなるだろう。

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