53.不注意の代償
「……くしゅんっ」
くしゃみとともに、リシェルは大きなショールに包まりながらベッドの上で鼻をすすった。その顔は、ほんのり赤く、熱があることを示していた。目の周りも少し潤んでおり、体調の悪さがうかがえる。
「……ご、ごめんなさい……ジュリアン様……」
リシェルは、申し訳なさそうに呟いた。
「謝らなくていい、リシェル。ただ、もう喋らなくていい。君の喉に負担がかかるから」
ジュリアンは寝台の傍らに椅子を引き寄せ、ぴたりと張り付くように見守っていた。彼の顔には、心配と、そして自責の念が深く刻まれている。リシェルの額には湿った冷却布が置かれ、口元には湯気の立つマグカップ。湯気の立つハーブティの香りが、寝室の空気を穏やかにしていた。
「熱は微熱程度だが、妊婦にとって風邪は軽視できない。万が一、君と子に何かあっては……」
「……うん」
リシェルは申し訳なさそうに頷きながら、そっと布団の端を握りしめた。体調を崩した原因ははっきりしている。前夜、涼しい風が気持ちよくて、少しだけ窓を開けたままうたた寝をしてしまったのだ。夜中に寒気で目覚めたときにはもう、喉が少し痛かった。
(……私の不注意、なんだよね。私が、もう少し気を付けていれば……)
リシェルは、自分の不注意を悔やんだ。けれど、それをジュリアンが咎めることはなかった。むしろ、誰より自分を責めていた。
「……私の目が行き届いていなかった。君が快適に眠れるようにと、窓を開けたままにさせてしまった私の責任だ。リシェルを、こんなことで苦しませるとは……夫として、情けない限りだ」
ジュリアンの声は、自責の念にかられ、苦しそうに絞り出された。
「ジュ、ジュリアン様、そんな……! あなたのせいじゃないわ! 私が、勝手に……」
慌てて声を上げた瞬間、言葉を遮るかのように、無表情な声音が、扉の向こうから聞こえてきた。
「その件ですが、公爵殿」
次の瞬間、部屋に入ってきたのは、診療服姿のミルダだった。彼女の瞳は、鋭く、そして冷静にジュリアンとリシェルを捉えた。その手には、カルテと聴診器が握られている。
「……失礼します。奥様の状態を確認させていただきます。公爵殿は、少し下がっていてください」
「ミルダ……!」
ジュリアンが立ち上がると同時に、彼女は無言で手袋をつけ、リシェルの脈を取り、瞳孔を確認し、胸に聴診器を当てた。その動きは、無駄がなく、迅速だった。
一通りの診察を終えると、ミルダは腕を組み、静かに溜め息をついた。その溜息は、ジュリアンに向けられているようだった。
「軽症です。喉の腫れは中程度、熱は一過性で済むでしょう。数日安静にしていれば、回復するでしょう。ただし……」
そこでミルダの目がぎらりと光った気がした。その視線は、ジュリアンを真っ直ぐに射抜いた。
「妊婦が風邪をひくなど、言語道断です。なぜ、こんなことになったのか。なぜ、止められなかったのか。公爵殿――」
ミルダの声は、氷のように冷たく、ジュリアンを責め立てるようだった。
「……はい」
ジュリアンは、まるで咎められた子供のように、小さく縮こまった。彼の顔は、悔恨の念に満ちていた。
「これほど過保護にされていながら、風邪を引かせるとは。まことに理解に苦しみます。公爵殿の管理は、完璧ではなかったということになりますが?」
「…………」
ジュリアンは、沈黙した。反論の言葉が見つからないようだった。
「寝室の気温は何度に保たれていましたか? 妊婦にとって、適切な室温管理は基本中の基本です」
ミルダが、厳しい声で尋ねた。
「……昨夜は22度前後、に設定していましたが、途中から……窓が……」
ジュリアンは、言葉を選びながら答えた。
「窓? 窓がどうしたのですか?」
ミルダの眉がぴくりと動いた。
「……リシェルが、風を入れたまま眠ってしまっていて……私が、確認を怠ってしまった」
ジュリアンの声は、次第に小さくなっていった。
「なるほど。妊婦が“風を入れたい”と言ったら、そのまま寝かせると? 妊婦の要望は、すべて受け入れると?」
ミルダの言葉は、ジュリアンの過保護ぶりを皮肉るかのようだった。
「……っ、私の、確認不足です。不覚でした」
ジュリアンは、悔しそうに顔を歪めた。
「そうですね。まったくその通りです。妊婦の“したいこと”と“していいこと”は、別物なのです。公爵殿は、その区別ができていないようです」
ジュリアンはうなだれ、沈黙した。リシェルはというと、情けない気持ちでいっぱいだった。ジュリアンが、自分のせいでこんなにも責められているのを見るのは、耐えられなかった。
「ミルダ先生、私も反省してます……本当に、すみません……。私の不注意で、ジュリアン様まで……」
リシェルが、謝罪の言葉を口にした。
「ご自身を責める必要はありません、リシェル様。リシェル様は妊婦であり、判断力や体温調整も変化しているのです。責められるべきは、“護る立場”の方です。公爵殿は、もっと賢明に行動すべきでした」
またしても、ジュリアンが黙り込んだ。彼の肩は、さらに小さく縮こまっている。その姿があまりにも気の毒で、リシェルは小さく苦笑する。
「……ごめんね、ジュリアン様。私のせいで、ミルダ先生に怒られちゃって」
「いや、私の不甲斐ないせいだ。君を、もっと、もっと完璧に護るべきだった……! 私が、もっとしっかりしていれば……」
ジュリアンは、まだ自分を責め続けていた。
「完璧なんて、無理だよ、ジュリアン様。だってジュリアン様は人間だもん。機械じゃないんだから、完璧である必要なんてないの」
リシェルは、ジュリアンの手をそっと握りしめた。
「……人間……か」
ジュリアンの肩がわずかに震えた。その瞳には、少しばかりの驚きが浮かんでいる。
「そうよ。公爵様である前に、ジュリアン様は、赤ちゃんのお父さんなんだから。少しくらい、失敗してもいいんだよ。それが人間らしいってことじゃない?」
リシェルは、優しい笑顔で言った。
「……リシェル」
ジュリアンは、リシェルの言葉に、深く感動したようだった。彼の顔に、安堵の表情が浮かぶ。
「私、思うの。風邪ひいちゃったのは反省するけど、こうして二人でおろおろしたり、反省したり、ミルダ先生に怒られたり……なんか、それも含めて“家族になる”ってことじゃないかなって。私たちは、これからも色々なことを一緒に乗り越えていくんだから」
リシェルの笑顔に、ジュリアンはふっと息をついた。彼の瞳には、温かい光が宿っていた。
「……まったく。君は本当に……強い。そして、優しい」
「ううん、弱いから笑ってるの。泣いちゃいそうだから、笑ってるんだよ? ジュリアン様が、そんなにも自分を責めているのを見ていたら、私が泣いてしまうわ」
「……なら、私が代わりに泣いておこう。君が泣かなくて済むように」
「なにそれ! ジュリアン様が泣いてたら、私、もっと泣いちゃうわよ!」
二人が小さく笑い合ったそのとき、ミルダが新たな薬包を差し出してきた。彼女の表情は、わずかに和らいでいるようだった。
「では、今後の指示を。水分は常に温かく、室温は一定に保つこと。決して窓を開け放つようなことはしないように。薬はこの粉薬を一日三回、食後に服用するように。ショールは常に肩にかけ、のど飴は私の配合したものを使用するように。これらは、喉の炎症を抑え、体力を回復させるのに役立つでしょう」
「は、はいっ! ミルダ先生!」
リシェルとジュリアンは、声をそろえて返事をした。
「お粥はジャンに低塩・生姜入りで頼んであります。消化に良く、体を温める効果があります。夕餉の量は半分に。そして公爵殿、あなたも奥様に風邪をうつされないよう、マスクを着用し、手洗い・うがいを徹底するように」
「了解しました、ミルダ殿。すべて、指示通りにいたします」
ジュリアンは、真剣な顔で頷いた。
「それから」
ミルダがふと、少しだけ柔らかい声で続けた。
「これも一つの、良い経験です。身体を壊したからこそ、わかることもあります。次からは、どうか気をつけてくださいね。奥様と、お腹のお子様のために」
「……はいっ! 肝に銘じます!」
リシェルとジュリアンは、声をそろえて頷いた。彼らの間には、新たな連帯感が生まれていた。
数日後、熱が完全に下がったリシェルは、厚手の羽織を着てテラスに出た。控えめな日差しが気持ちよく、少しだけ冬の香りが混ざっていた。小鳥のさえずりが、心地よく響く。
「ふわぁ……気持ちいい……。やっぱり、外の空気は最高ね」
リシェルは、大きく伸びをした。
「……まだ油断は禁物だぞ、リシェル。体が完全に回復するまでは、無理はするな。少しでも寒気を感じたら、すぐに部屋に戻るんだ」
背後から、慎重すぎる足音と共に現れたのは、マスクに手袋に厚手のコートを着込んだジュリアンだった。まるで、重病患者の看病をしているかのような完全武装だ。
「ちょ、ちょっとジュリアン様、まるで重病患者みたいじゃないですか……! 私、もう元気ですよ?」
リシェルは、思わず笑ってしまった。
「君が風邪をひいた以上、これくらい当然だ。君を護るためには、どんなことでもする」
ジュリアンは、真顔で言った。
「それじゃあ、そっちが体調崩すわ……。そんな格好でいたら、暑苦しくて倒れてしまいます」
リシェルは笑って、そっとジュリアンの手を取った。彼の指は、手袋越しでも温かかった。
「でもね、ありがとう、ジュリアン様。私が寝込んでいるとき、あなたがずっと傍にいてくれて、本当に心強かったわ。すごく安心した」
「私も、君がいてくれてよかった。君が苦しんでいるのを見て、泣きそうだったが、君が笑ってくれたから、私は立っていられた。君がいてくれるからこそ、私は強くいられる」
風にそよぐ春の香りの中で、二人はそっと唇を重ねた。そのキスは、優しく、そして深い愛情に満ちていた。
(赤ちゃん、もうすぐだね。私たちに会いに来てくれる日が、本当に楽しみだわ)
ぽこん、とお腹の中から軽く蹴られた気がして、リシェルは小さく笑った。それは、まるで小さな命が、二人の愛に応えているかのようだった。彼らの心は、新しい生命への希望で満ちていた。




