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52.食べ過ぎ注意報

「心音、順調。力強く、規則正しいリズムを刻んでいます。胎動も問題なし。奥様の体調も、申し分ありませんね。この調子なら、ご出産も問題ないでしょう」


 医療室に設けられた診察台の上、リシェルはほんのり赤い頬のまま、小さく頷いた。ミルダの穏やかな声に、リシェルは安堵のため息をついた。


「ありがとうございます、ミルダ先生。おかげさまで、体調も安定してきましたわ」


 リシェルは、心からの感謝を込めて言った。


「ただ……」


 ミルダは、カルテに視線を落としたまま、言葉を区切った。その声には、何かを予期しているような響きがあった。


「え?  ただ、何でしょうか?  まだ何か、問題が?」


 リシェルが、不安そうに尋ねた。


「体重、三週間で約二・五キロ増加。これは“食べすぎ”の分類に入ります。もう少し加減を考えましょう、奥様」


 ミルダはきっぱりと言い放った。その言葉に、リシェルの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。


「だ、だって……おなかが空くし、赤ちゃんのぶんまでって思うとつい……つい、食べすぎてしまって……」


 リシェルは、小動物のように肩を落とし、椅子の背もたれにしゅんと背中を預けた。


「それはごもっともですが、赤ちゃんのぶんと言っても、大人の男性一人前ではありません。せいぜい二百三百キロカロリー増です。このペースでは、奥様のご負担が大きくなり、難産の可能性も否めません」


 ミルダの厳しい言葉に、リシェルはさらにしゅんとなる。


「き、厳しい……」


 リシェルが小さく呻く傍ら、ジュリアンがやや硬直していた。彼の顔には、自責の念が浮かんでいる。


「私の責任でもある、ミルダ。つい、『リシェルが食べたいというなら、食べさせてやってくれ。栄養のあるものを、好きなだけ』と、厨房に命じてしまった」


 ジュリアンが、正直に告白した。


「はい。なので、料理長も呼んでおります。公爵殿の指示は、承知しておりますゆえ」


 ミルダがさらりと答えると、間もなくノックの音が響き、厳格な面持ちの料理長のジャンが入室してきた。彼の顔には、すでに覚悟を決めたような表情が浮かんでいる。


「失礼いたします。料理長のジャンでございます」


 ジャンは深々と頭を下げた。


「ジャン、こちらへ。今後、奥様の食事について再指導を行います。今のままでは、奥様の体重が増えすぎ、難産の可能性も否めません」


 ミルダの言葉に、リシェルが青ざめる。“難産”という言葉が、彼女の心に重く響いた。


「な、なん、ざん……!」

「……出産に向けて、身体も心も整える時期です、奥様。元気な子を迎えるために、今こそ準備を始めましょう。これは、赤ちゃんのためでもあります」


 ミルダの言葉に、部屋の空気が少し引き締まった。ジュリアンも、真剣な顔でミルダの言葉に耳を傾けている。


「はっ」


 料理長ジャンは深々と頭を下げた。彼の表情は、職人としての責任感に満ちていた。


「公爵様、奥様に献立の見直しを実施させていただきます。低塩・低糖・適量の良質な蛋白と野菜を中心に、栄養バランスを考慮した献立を組み直します。味付けについても、奥様が飽きないよう、工夫を凝らします」

「構わん。リシェルが健やかであれば、それが一番だ。味は二の次で構わない。健康が最優先だ」


 ジュリアンは、迷いなく答えた。


「奥様、お食事は一日五回に分け、小分けで摂取なさるようお願いいたします。これにより、空腹感を抑えつつ、血糖値の急激な上昇を防ぎます。水分補給も、常温のお水を一日一リットル以上にて、こまめに摂取なさってください」


 ジャンはテキパキと説明した。


「うう、はい……努力します……」


 リシェルは、力なく返事をした。ジュリアンは、何かに目覚めたかのような顔で頷いた。彼の目は、真剣そのものだった。


「エミリア、今後の食事記録は日誌に残すよう徹底してくれ。一日の摂取カロリー、栄養素、食事の時間、すべて詳細に記録するのだ」

「は、はいっ!  旦那様!」


 エミリアは、びしっと背筋を伸ばして返事をした。


「水温と食事時間も書き留めておけ。もし間食をする場合は、栄養士の指示に従うこと。勝手に判断するな」


 ジュリアンの指示は、ますます細かくなっていった。


「えっ、栄養士まで……?  それは、やりすぎではないでしょうか……」


 リシェルが、驚いて声を上げた。


「呼ぶ必要があるなら、すぐ手配する。君と子の健康のためなら、どんな労力も惜しまない」


 ジュリアンの言葉に、リシェルは思わず叫んだ。


「や、やりすぎです!  ジュリアン様!  もう少し、私を信用してください!」


 リシェルの必死の叫びに、ようやくジュリアンが我に返った。彼の表情に、申し訳なさそうな色が浮かんだ。


「……すまない、リシェル。つい、また過保護に。君を心配するあまり、冷静さを失っていたようだ」

「……でもありがとう。ジュリアン様が心配してくれるの、ちゃんと伝わってるから。あなたの優しさが、私には一番嬉しいんです」


 二人が微笑み合う姿に、ミルダが咳払いを一つ。彼女の表情は、どこか満足げだった。


「さて。体重管理も大切ですが……改めて申し上げます。胎児の成長も順調です。全てにおいて、赤ちゃんは順調に育っています」


 ミルダの言葉に、リシェルは目を輝かせた。


「本当ですか?  良かった……」

「はい。胎動も、ずいぶんと活発になっていますね。元気に動き回っていますよ」

「それ、私も思ってました!  昨夜なんて、ぽこっじゃなくて、ごろん!  って感じで、本当にびっくりするくらいでしたの!」


 リシェルが丸くなったお腹を両手で包みながら笑った。


「元気すぎて、びっくりするくらいで。まるで、私の体の中で、小さな子が遊んでいるみたいです」

「とても良いことです。胎動が活発なのは、赤ちゃんが元気な証拠。そして、お母様の声に反応しているのですよ」


 ミルダの言葉に、リシェルはハッとしたように目を見開いた。


「……じゃあ、この子、私の声を覚えてるのかな?  私の声が、届いているの?」

「もちろん。きっと、毎日の公爵殿の声も、覚えていますよ。胎児は、お腹の中で、外の世界の音を敏感に感じ取っていますから」


 ジュリアンが息を呑み、リシェルの腹にそっと手を置いた。彼の指先が、お腹の膨らみに優しく触れる。


「私の……声も?  私の声が、この子に届いているのか……」

「ええ。胎児は母体を通じて周囲の音を感じていますから、毎晩語りかけていれば、きっともう覚えていますよ。特に、公爵殿の声は、低く落ち着いた声ですので、赤ちゃんも安心して聞いているはずです」


 ジュリアンはまるで宝物に触れるかのように、お腹の上で指をゆっくりと動かした。その表情には、深い感動と、そして愛情が満ちていた。


「……リシェル、夜になると毎日“話しかける時間”を設けよう。読書でも、歌でもいい。何でもいい。この子に、私たちの声を届けよう」

「うん……いいね。それ、すごく素敵。きっと、この子も喜んでくれるわ」


 お腹の中で、またごろん、と動く気配がした。


「……あっ、いま!  すごく動いた!  私達の声に、応えてくれたみたい!」


 リシェルの笑顔が弾け、ジュリアンも思わず微笑む。


「この子が……私達の声に、応えてくれたのかもしれないな。嬉しいな……」


 ジュリアンの瞳は、優しく、そして幸福に満ちていた。




 その日の午後、リシェルとジュリアンはミルダに案内されながら、産室候補となる部屋や、使用人たちの準備状況を見て回った。公爵邸の一角に設けられた産室は、すでにいくつかの準備が始まっていた。


「予定日はまだ先ですが、何事も早めに備えるのが肝心です。急な事態にも、慌てず対応できるよう、万全の準備を整えております」


 ミルダの口調はいつも通り淡々としていたが、その歩きには迷いがない。彼女のプロ意識が感じられる。


「ご出産に備えて、必要な医療器具や産着、乳児用の寝具類は王都の専門職人に発注済です。現在、納品待ちとなっております。全て、最高級の品質を選定いたしました」

「さすがミルダ先生……全てにおいて、完璧ですね」


 リシェルは思わず声を漏らす。彼女はミルダの仕事ぶりを、心から信頼していた。


「分娩用のベッドはこの部屋に設置予定です。防寒、防音、清潔性など、母体と胎児にとって最適な環境を整えるよう、万全を期しております」


 ミルダは、部屋の中央を指差した。


「ミルダ先生……ありがとうございます。私のために、こんなに細やかに準備してくださって……感謝してもしきれませんわ」


 リシェルは、ミルダに深々と頭を下げた。


「リシェル様のためであり、ヴァレリオ家の次世代のためでもあります。なにより、公爵殿が毎晩、念のためと申しまして……寝具の確認を三回ずつされているくらいですので、私も手を抜くわけにはいきません」


 ミルダは、ちらりとジュリアンに視線を向けた。


「ジュリアン様……!」


 リシェルが、呆れと、そして愛情が混じったような声でジュリアンの名を呼んだ。


「…………」


 ジュリアンは視線を逸らした。彼の頬は、わずかに赤らんでいる。


「ともあれ、準備を始めることで、心も少し落ち着きます。急な変化に戸惑うよりは、想定の上で迎えるのが一番です。奥様の心の準備も、大切ですから」


 ミルダは、改めてリシェルに向き直った。


「……うん」


 リシェルはふと、自分の胸に手を当てた。心の奥にずっとあった、“母になる”という実感が、ようやく確かなものになっていく。不安はまだあるけれど、それ以上に、新しい命を迎える喜びが大きくなっていた。


「この子のために、ちゃんと準備して、ちゃんと迎えたいの。最高の形で、この子に会いたいわ」

「その意識があれば、何も怖いことはありませんよ。奥様なら、きっと素晴らしいお母様になられます」


 ミルダが優しく頷いた。




 その夜。いつも通り寝台でリシェルがくつろいでいると、ジュリアンが一冊の本を手にしてやってきた。彼の顔は、期待に満ちている。


「リシェル。さっそくだが、“読み聞かせ”を始めたい。この童話集は、私が子供の頃に何度も読んだ、お気に入りの本だ」

「……それ、ほんとに今日からなのね?  熱心だこと」


 リシェルは、くすくす笑いながら、お腹をトントンと叩く。


「言っただろう、ミルダにも“毎日語りかける”と約束したからな。この子に、私の声を覚えさせなければ」

「じゃあ、ジュリアン様。お願い、読んで?  あなたの声なら、きっとこの子も喜ぶわ」

「任せておけ。世界で一番、この子に優しい声で読んでやろう」


 静かに読み始めたその声に、リシェルはうっとりと耳を傾ける。ジュリアンの低く、落ち着いた声は、物語の登場人物たちに命を吹き込んでいく。その声は、リシェルの心にも、そしてお腹の中の小さな命にも、優しく響いていた。


(きっと、この子にも届いてる。あたたかくて、優しいジュリアン様の声が……)


「……おやすみ、私たちの小さな命。また明日、元気な声を聞かせておくれ」


 ジュリアンがそっとリシェルの腹に口づけを落とした。その瞬間、彼の唇から温かいぬくもりが伝わってくる。そのとき、ぽこんと内側から応えるような胎動があった。


「……!  今、蹴ったわ、ジュリアン様!  私たちの声に、応えてくれたみたい!」


 リシェルの顔が、喜びで輝いた。


「……きっと、『おやすみ』って、言ってるのね。賢い子」


 リシェルが微笑むと、ジュリアンも目を細めて頷いた。彼の瞳には、深い愛情と、そして未来への確信が宿っていた。静かな夜が、幸福と希望に包まれていった。ヴァレリオ公爵邸は、新しい命の誕生を心待ちにする、温かい家族の家に変わっていた。

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