34.広まる広がる
薄曇りの朝だった。ヴァレリオ公爵邸の窓から差し込む光は、普段のきらめきを失い、どこか陰鬱な空気を部屋にもたらしていた。リシェルはいつものように中庭に出ようと廊下を歩いていたが、ふとした違和感に首を傾げた。
女中たちが、目を合わせない。普段なら顔を合わせれば笑顔で挨拶を交わすはずの彼女たちが、口元を押さえて、俯きながら通り過ぎていく。誰もが、リシェルから視線をそらし、何かを隠しているかのような態度だった。
(……妙ね。何か、変)
どこか空気が湿っている。まるで、屋敷全体が重苦しい秘密を抱えているかのようだ。いつもなら通りがかりに「おはようございます」と元気に挨拶をきちんと交わす若手メイドですら、今朝は目も合わせなかった。彼女たちの間に、明らかに動揺と不穏な空気が流れている。
中庭に向かおうとしたそのとき、リシェルの耳に、すれ違いざまのささやきが届いた。それは、二人のメイドが顔を寄せ合って話している声だった。
「……旦那様、お手付きに……」
「でも奥様がいらっしゃるのに……」
「ほら、あの子……アデルよ」
(……今、何と?)
リシェルの足が、ぴたりと止まった。まるで氷漬けにされたかのように、体が固まる。立ち止まった足が震えそうになるのを、リシェルはぐっと抑え込んだ。
まさか、とは思った。しかし、脳裏に浮かんだのは、ここ数日感じていたアデルの奇妙な視線や、ジュリアンの前での不自然な態度だ。そして、今聞いたばかりの「アデル」という名前。全てが線で繋がり、リシェルは確信する。今、屋敷に流れている噂――それは明らかに「夫」と「使用人アデル」にまつわる、根も葉もない、しかし悪意に満ちたものだった。胸がぎゅっと締めつけられる。まるで、心臓を直接掴まれたかのような痛みだ。
(アデルが、ジュリアン様と……そんな、ありえない……!)
リシェルはすぐさま、自室へと踵を返した。その足取りは、いつもの軽やかさを失い、どこか重苦しかった。
自室に戻ると、リシェルは感情のままにエミリアに問い詰めた。
「エミリア……ねぇ、これって、噂よね? 本当じゃないわよね? ジュリアン様が、そんなことをするはずがないわ!」
リシェルの問いに、エミリアは溜息をついた。彼女は、このような状況が来ることを予測していたかのように、冷静だった。
「奥様。そういった話に、いちいち動揺なさらないでください。下賤な噂話に耳を傾けるのは、奥様の品位を落とすことになります」
エミリアの言葉は、リシェルを落ち着かせるためのものだったが、その中に含まれる「下賤な噂」という言葉が、リシェルをさらに不安にさせた。
「でも……こんな話が広まっているのに……! 私がどうすればいいというの……?」
リシェルは、不安に顔を歪ませた。彼女は「淑女」として完璧であろうと努力してきたが、このような状況は初めてだった。
「どこから広まったかは知りませんが、少なくとも旦那様の耳には届いていないはずです。そして」
エミリアは目を細めて微笑んだ。その微笑みは、リシェルへの揺るぎない信頼と、ジュリアンへの絶対的な確信を表していた。
「旦那様は、奥様以外を見ておりませんよ。奥様がどれほど旦那様にとって大切な存在か、あの甘やかしようを見れば一目瞭然でしょう?」
続いて、控え室の扉が開き、メイド頭のマルグリットが入室してきた。彼女もまた、この噂のことは耳にしていたのだろう。頬に手を当てながら、はっきりと言った。
「まったく……あのアデル、思い上がりにも程がありますね。身の程知らずもいいところ。――おこがましい」
マルグリットの声には、普段のおっとりとした雰囲気からは想像できないほどの、強い憤りが込められていた。彼女は、ジュリアンとリシェルの関係を誰よりも大切に思っている。
「マルグリット……さん……?」
リシェルは、マルグリットの予想外の厳しい言葉に、呆然とした。
「奥様。このような時こそ“本妻”は堂々と構えるものです。相手の思う壺になるだけですよ」
マルグリットは、諭すように言った。その言葉には、長年この邸で女性たちの人生を見てきたベテランならではの重みがある。エミリアもまた、真剣な目をリシェルに向けた。
「奥様は、旦那様の心のすべてを握っていらっしゃる。誰よりも可愛く、賢く、美しい。……そして、なにより本物です。偽物など、足元にも及びません」
「そうですとも。お心を騒がせるだけ損です。むしろ“噂の相手”に負けたようなものです。奥様が動揺なされば、アデルの思う壺になってしまいます」
リシェルはその言葉を聞いて、胸の奥で何かが鳴るのを感じた。それは、まるで、眠っていた何かが覚醒するような、硬質な音だった。――騎士団長、出陣準備。
(そうね……私は妻。公爵家の奥方。ジュリアン様の、伴侶。この公爵邸の女主人。こんな根拠のない噂ごときに、私が怯えてどうするの)
心の奥にある“男前な内面”が、そっと顔を出す。普段は猫を被って隠しているが、この状況でこそ、その真価を発揮すべきだと直感が告げていた。
(……だったら、胸を張らなきゃ。誰が何を言おうと、私がジュリアン様を信じなくてどうするの。彼を信じられるのは、この世で私だけなのだから)
リシェルは、テーブルに置いてあった扇子を手に取り、静かに微笑んだ。その微笑みには、先ほどの不安は微塵もなく、強い決意が宿っていた。
「……ありがとう、エミリア、マルグリット。お二人のおかげで、目が覚めましたわ」
「奥様?」
二人は、リシェルの急な変化に驚き、顔を見合わせた。
「私、騎士団長になりますわ」
リシェルは、扇子を軽く叩きながら、凛とした声で宣言した。
「……えっ?」
エミリアとマルグリットは、困惑したように声を漏らす。
「いいえ、つまり……堂々と、という意味です。えぇ。公爵夫人として、毅然とした態度で臨みます、ということですわ」
少し意味不明な宣言に、エミリアとマルグリットは顔を見合わせてから、くすくすと笑った。しかし、その表情には、リシェルへの深い信頼と、心強いという感情が満ちていた。
一方その頃、厨房の裏手では、ひと組の男女が向かい合っていた。人気の少ない場所で、二人の間には重苦しい空気が流れている。
ノア・ラフィットとアデル・マルセラン――。
若く、誠実で、普段は黙々と仕事に励むノアの顔は、今日に限って固く、深刻な表情をしていた。彼は、アデルの前に立つと、口火を切った。
「……アデル」
アデルは、ノアの言葉にピクリと肩を震わせた。彼女は、ノアの視線から逃れるように、顔を伏せ、視線を逸らす。
「ノア……」
アデルの声は震えていた。彼女は、この状況をどう切り抜けるべきか、必死に考えているようだった。
「噂、聞いたよ」
ノアの声は、普段の陽気さを失い、冷たく響いた。
「……あたし、黙ってようと思った。ノアに、こんなこと知られたくなかった……でも……どうしても……」
アデルは、涙声で震える肩を小さく揺らしながら、言葉を絞り出す。それは、被害者を装うための演技だった。
「本当なのか? アデル」
ノアは、アデルの顔をまっすぐに見つめた。彼の瞳には、信じたい気持ちと、疑念が混じり合っていた。
「……っ……」
アデルは唇を噛んだ。目に涙が浮かんでいる。その涙は、計算されたものだった。
「ジュリアン様の、お手付きに……なったって?」
ノアの言葉に、アデルは大きく肩を震わせた。
「違う、ちがうの……ノア……私、そんなこと……」
アデルは必死に否定しようとするが、言葉が続かない。
「じゃあ、どうしてそんな噂が立ったんだ? 君自身が、ジュリアン様の執務室から泣きながら出てきたのを見た者もいるそうじゃないか」
ノアは、冷静に、しかし鋭く問い詰めた。彼の心は、アデルの言葉と、ジュリアンに対する信頼の間で激しく揺れ動いていた。
「……あたし、断ったの。でも、旦那様が……その……」
アデルは、嗚咽を漏らしながら、小さく肩を震わせた。
「……抵抗したの。……だけど、相手は、あのジュリアン様……公爵様には逆らえないって……」
アデルの言葉は、まるで悲劇のヒロインを演じるかのようだった。しかし、その言葉の裏に隠された計算に、ノアは気づき始めていた。
「――アデル」
ノアの声が低くなった。その声には、怒りや悲しみ、そして深い失望が混じり合っていた。
「君は……何を言っているんだ。ジュリアン様が、そんなことをするはずがない」
「ほんとうなの! あたし、嫌だったのに……公爵様には逆らえなくて……!」
アデルは、しがみつくようにノアに訴えかける。ノアは、アデルの嘘に気づいていた。彼はジュリアン・ヴァレリオという人物を誰よりもよく知っている。ジュリアンはそんな男じゃない。誰よりも潔癖で、理性と誇りに満ちている男だ。尊敬する主が、無理やり使用人に手を出す? ありえない。
(それでも……俺は……)
ノアの胸の奥には、言葉にならない複雑な想いが渦巻いていた。アデルを信じたい、けれどジュリアンを疑いたくない。だが、そのアデルの言葉に明らかに矛盾がある。彼女が必死に嘘をついていることが、ノアには痛いほど分かった。まるで罠のように、彼はアデルの言葉と現実の間で引き裂かれていた。
その夜、リシェルは夕餉の席でジュリアンの顔を静かに見つめていた。向かい合って座るジュリアンは、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。
「どうした? リシェル。何か顔についているか?」
ジュリアンが、心配そうに尋ねる。
「いえ、ただ……顔を見たくなっただけです」
リシェルは、ごく自然に、そして正直に答えた。
「嬉しいことを言ってくれる。君にそう言われると、今日の疲れも吹き飛ぶようだ」
ジュリアンは、心底嬉しそうに微笑み返す。その眼差しは、何ひとつ変わらず温かく、優しかった。リシェルへの深い愛情が、その瞳の奥で輝いている。
(……あぁ、やっぱり……私はこの人を、信じられる)
リシェルの心に宿っていた微かな疑念は、ジュリアンの揺るぎない愛情の前で、完全に溶けて消えた。騎士団長、沈黙。代わりに――恋する令嬢が前へ。彼女は、ジュリアンに愛されているという絶対的な自信を取り戻していた。
「ね、ジュリアン様。私、あなたに似合う奥様になりますわ」
リシェルは、真っ直ぐジュリアンを見つめて言った。
「もう十分似合ってる。これ以上可愛くなったら、私が他の男に嫉妬してしまいそうだ」
ジュリアンは、リシェルの言葉に嬉しそうに答える。
「そうではなくて……もっと、ちゃんとした、“公爵夫人”らしく。あなたを支えられる、立派な妻に」
リシェルは、少し照れながらも真剣な眼差しで続けた。ジュリアンは一瞬きょとんとして、それからくすりと笑った。
「……ならば、今夜から呼び方を変えようか。『愛しい我が妻よ』、と。そうすれば、君も公爵夫人らしく、私を支えてくれるだろう?」
「ちょ……っ、やめてください、食事中ですよ!? 恥ずかしいです!!」
リシェルは、顔を真っ赤にしてうつむいた。しかし、その表情には、満たされた幸福感が溢れている。
赤くなったリシェルを見て、ジュリアンはただただ幸せそうに笑った。その笑顔は、リシェルにとって何よりも大切なものだった。だからこそ、リシェルはもう――何も怯えない。根も葉もない噂など、彼女の心には届かない。ジュリアンへの信頼と、彼からの愛情が、彼女を強くする盾となっていた。
そしてその裏で。アデルは部屋の隅で、膝を抱えながら、ひとり呟いた。月の光が、彼女の顔を青白く照らす。
「……ノアは信じてくれる。ノアだけは、あたしの味方……」
その瞳に浮かぶのは、恋でも信頼でもない。ただ、自分を守るための、冷徹な“計算”だった。ノアの誠実さと純粋さを利用すれば、この状況を乗り切れると、アデルは確信していた。
心を揺らしたノアが、次にどう動くのか――。彼の行動が、また新たな波紋を生むことになるのかもしれない。




