33.それはまるで毒のように
春の終わり。ヴァレリオ公爵邸の中庭は、生命の輝きに満ちていた。色とりどりの花々が咲き誇り、甘やかな香りがそよ風に乗ってあたりに満ちる。色鮮やかなパンジーが絨毯のように広がり、薔薇の蕾が今にも開きそうだ。その中心で、リシェルはジュリアンの膝にちょこんと座っていた。栗色の髪に、咲き乱れる花々から摘んだばかりの小さな花を編み込んだ花冠を乗せている。柔らかな陽光が、彼女の笑顔を一層輝かせた。
「ねぇ、ジュリアン様。この花冠、似合いますか?」
リシェルは、純粋な好奇心と、少しの照れを含んだ声で尋ねた。
「もちろん。君に似合わぬものなど、この世に存在しないよ」
ジュリアンは、リシェルの髪を優しく撫でながら、即座に、そして迷いなく答える。その声には、一切の打算も偽りもない、純粋な愛情が込められていた。
「ふふ、またそうやって……口が甘すぎですわ」
リシェルは、頬を染めて微笑んだ。彼の甘い言葉は、もはや日常の一部となっている。それでも、毎回新鮮な喜びを感じるのだ。
「君には、それくらいがちょうどいい」
ジュリアンは、リシェルの顔を覗き込み、それはもう優しく見つめた。その瞳には、この世に彼女しか存在していないかのような、深い愛情と慈しみが宿っていた。彼の世界は、リシェルで満たされている。
その光景を、中庭のアーチの影から、アデルは息を潜めてじっと見つめていた。その瞳は、まるで獲物を狙う獣のように、一点を見据えている。
(また……だ)
アデルの心の中で、どす黒い感情が静かに、しかし確実に沸騰し始めていた。甘やかされ、慈しまれ、ひたすらに“世界で一番大切”として扱われるリシェル。彼女にはすでに、すべてが与えられていた。美貌も、称賛も、地位も、そして何より、あの完璧なジュリアン・ヴァレリオからの愛も――。アデルが渇望してやまないものが、何の苦労もなく、リシェルの手の中に収まっている。
(……ずるい)
その感情は、もはや嫉妬という生易しいものではなかった。それは、純粋な憎悪と、根深い劣等感が混じり合った、禍々しい感情だった。
可愛ければ愛されるんじゃなかったの?
頑張れば見てもらえるんじゃなかったの?
私はこんなにも努力しているのに、なぜ、報われない?
アデルは唇を噛みしめた。幼い頃から、常に「良い子」でいれば、いつか報われると信じて生きてきた。両親が病没し、全てを失ってからも、その信念だけを支えにしてきた。しかし、目の前の光景は、その信念を根底から覆すものだった。いい子のままでは、届かない。
だったら――。アデルの中で、何かが壊れる音、歯止めが外れる音がした。もう、倫理も道徳も関係ない。ただ、あの男を手に入れるためなら、どんな手段でも使う。彼女の心は、既に破滅への道を歩み始めていた。
その日、昼下がり。ジュリアンの執務室には静けさが満ちていた。窓から差し込む陽光が、机に積み上げられた書類の山を照らしている。ジュリアンはペンを走らせながら、ふと、リシェルの屈託のない笑顔が脳裏に浮かんだ。
(夕餉は一緒に取れるだろうか……あの笑顔が見たい……)
そんなことを考えた矢先、扉がノックもなく開かれた。公爵邸では、執務室への入室には必ずノックが必要という厳格なルールがある。その常識を破る行為に、ジュリアンは眉をひそめた。
「……失礼します!」
現れたのは、使用人服に身を包んだアデルだった。手にはトレイも書簡も持たず、明らかに“用事はない”訪問であることが一目でわかる。彼女の顔は真っ赤に染まり、息が上がっている。まるで、何かよからぬ決意を固めてきたかのような様子だった。
「アデル……何か急ぎの用か? ノックもしないとは、どうした?」
ジュリアンが眼鏡越しに視線を向けると、アデルは真っ赤な顔で唇を噛みしめ、拳を強く握りしめて言った。その声は、震えていたが、強い意志を秘めていた。
「――あたしだって、奥様に負けないくらい可愛いです!」
その言葉に、ジュリアンの手が止まる。ペンが、カタリ、と音を立てて机に転がった。彼は、その言葉の意味を理解しようと、静かにアデルを見つめる。
「お願いです、あたしを……あたしを、愛人にしてください!」
アデルの口から放たれた言葉は、執務室の空気を凍らせた。室内に静寂が落ちた。カチリ、と壁掛け時計の秒針が時を刻む音が、異常なほど大きく聞こえたほどだ。その音だけが、室内の緊迫感を増幅させる。
やがてジュリアンは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。その動作は、まるで氷の彫刻のように冷たく、一切の感情を読み取れない。
「……君はノアの恋人ではなかったか?」
低く、落ち着いた声が空気を震わせた。しかし、その声には、かすかな威圧感が含まれていた。
「知っているよ。厨房でも使用人の間でも、君たちが仲睦まじいと評判だ。ノアも、君を大切にしていると聞いている」
ジュリアンの言葉に、アデルの顔が引き攣った。ノアの存在を指摘され、彼女は一瞬たじろぐ。
「そ、それは……最初はそうだったかもしれません。でも、今のあたしは――」
「――聞かなかったことにしよう」
ジュリアンは、アデルの言葉を遮った。きっぱりとした言葉が、その場の空気を一変させた。彼の表情は、一瞬にして冷酷なものへと変わっていた。
「私は、そのようなことには一切興味がない。何より、君の気持ちは本物か? 私への愛などではなく、ただ、誰かの隣が羨ましくて、手に入れたくなっただけではないのか?」
ジュリアンの鋭い指摘に、アデルの瞳が潤む。図星を指されたことに、彼女は動揺した。しかし、もう後には引けない。彼女の心は、既に限界を超えていた。
「奥様より……あたしの方が、可愛いです! あたしを選んでください! 私の方が、もっと公爵様に相応しい!」
アデルは、懇願するように、しかし必死に、その言葉を絞り出した。それは、彼女の心の奥底に渦巻く、醜い感情の結晶だった。その言葉が、ジュリアンの琴線に触れた。彼の漆黒の瞳の奥が静かに、しかし確実に冷たくなる。その眼差しは、アデルにとって、今まで見たこともないほど恐ろしいものだった。
「……もう一度言ってみろ」
ジュリアンの声は、もはや感情を全く含んでいなかった。それは、氷のような、あるいは鋼のような響きを持っていた。
「……えっ……?」
アデルは、ジュリアンのあまりの変貌ぶりに、怯えながら声を絞り出した。
「君は、今……私の妻より、君が“可愛い”と、そう言ったのか?」
ジュリアンの声が、さらに低くなる。一言一言が、アデルの心臓を締め付ける。
「……あっ……その……っ」
アデルは言葉を失い、顔面から血の気が引いていく。その口から、何も発することができない。
「私が、誰よりも愛している妻を、君は“下”に見た。そして、私に、妻を裏切れと唆した」
ジュリアンは一歩、アデルへと歩み寄った。その一歩一歩が、アデルにとっては絶望へのカウントダウンのように感じられた。彼の全身から放たれる威圧感は、アデルを完全に凍りつかせた。
「私は、リシェル以外の女性を愛することはない。私の心は、リシェルただ一人に捧げられている」
ジュリアンの言葉は、アデルの心臓をナイフでえぐり取るようだった。彼の声は、一切の揺らぎもなく、絶対的な真実を語っていた。
「君は、恋人を裏切り、主の妻を貶め、自らの醜い欲だけで動いた。そして、何よりも……私の妻を侮辱した」
ジュリアンはアデルの目の前に立ち止まった。そして最後に、まるで氷のような、無慈悲な声音で言った。
「――そのような者を、私の傍に置く理由などない。今すぐこの屋敷から出て行け。二度と私の目の前に現れるな」
彼の言葉は、アデルの存在を完全に否定するものだった。
執務室の扉が、乱暴に閉まる音が、廊下に響いた。追い出されたアデルは、その場で肩を震わせながらも、歯を食いしばっていた。ジュリアンの言葉が、脳内で何度も反響する。
(……どうして……!?)
なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか。なぜ、あの女ばかりが愛され、自分はこんなにも惨めな思いをしなければならないのか。愛されていることが正義なのか。幸せに見える人は、永遠にその座を守られるのか。そんなはずはない。
(違う、違う……あたしだって、こんなはずじゃなかった……)
惨めだった。屈辱的だった。だがそれ以上に、悔しかった。ジュリアンから向けられた、あの冷酷な瞳。その瞳に映る自分が、あまりにも小さく、醜く見えた。そして――。
翌日から、ヴァレリオ公爵邸の空気が少しずつ変わり始めた。
「ねえ、聞いた? 新人メイドのアデルちゃんのこと」
「うそ、ほんとに? あんな可愛い子が、旦那様と……?」
「だって、昨日執務室に呼ばれたんでしょう? しかも出てきたとき、目、真っ赤だったって……まさか、旦那様にお手付きにでもなったんじゃないか?」
「えぇ~!? 奥様がいるのに……旦那様も男だしねぇ……ありえない話じゃないわ」
「そういえば、ノアとは最近あんまり一緒にいないみたいだけど……まさか、捨てられたとか?」
ざわ……ざわ……。
囁きと噂は、まるで毒のように、公爵邸の隅々まで広がっていった。主の目が届かぬところで、使用人たちの間に奇妙な沈黙が生まれる。疑惑と好奇心が渦巻き、屋敷の清らかな空気が、少しずつ澱んでいく。
誰が最初に流したのかは、分からない。しかし、アデルがジュリアンの執務室から出てきた時、涙で顔を真っ赤にしていた姿を見た者がいたのは事実だ。そして、ジュリアンが彼女を追い出したという具体的な事実を知る者はほとんどいなかった。
けれど確かに、その噂は“アデル本人”の口から、それとなく流されたものだった――。
(終わらせない。負けたなんて、絶対に認めない……!)
アデルの瞳には、もはや後悔も羞恥もなかった。ただ、燃え盛るような怨念だけが宿っている。その胸の奥で、黒い感情だけが膨らんでいく。純粋だった少女の心は、完全に憎悪に染まっていた。そして、その影は――確実に、リシェルの背中へと迫っていた。




