表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/66

32.愛される者と愛されぬ者

 陽の光が差し込むサロンで、銀器が微かに音を立てた。午後のティータイム。リシェルはジュリアンと向かい合い、優雅に紅茶を傾けていた。その空間は、いつもと変わらぬ穏やかさに満ちている。


「……あの、それでは失礼いたします」


 アデルが、使用済みになったティーカップのトレイを持って、深々と頭を下げた。その姿が扉の向こうに消えた瞬間、リシェルはそっとジュリアンの横顔に目を向けた。


「最近、アデルさん……少し変わった気がします」


 リシェルは、曖牲な表現で切り出した。具体的な理由を説明できるほど、明確な異変を感じているわけではない。ただ、漠然とした違和感が胸の内にあった。


「……ふむ?」


 ジュリアンは、リシェルの言葉に気づかないふりをするかのように、ゆっくりと紅茶を口に含み、その香りを楽しみながら返す。彼の表情は、いつも通り穏やかで、リシェルの言葉に特別関心があるようには見えない。


「いつもよく気が利くとは思っていたが、どうかしたか?  何か問題でも起こしたか?」


 ジュリアンの問いかけに、リシェルは慌てて首を横に振った。


「いえ……なんでもありません。気のせいですわ、きっと。きっと、わたくしが疲れているだけでしょう」


 そう言いながらも、リシェルの声はどこか晴れなかった。彼女の直感は、小さく警告を発し続けている。しかし、その警告の理由を、リシェルはまだ認めたくないでいた。


 一方その頃。使用人専用の裏廊下で、アデルは胸を押さえて立ち尽くしていた。トレイを抱えた腕は、微かに震えている。脳裏には、サロンで向かい合って座っていた公爵夫妻の姿が焼き付いていた。


(どうして……どうして、あの奥様が、あんなに愛されているの?)


 ジュリアンの隣で微笑むリシェル。可愛らしくて、ふわふわしていて――確かに愛らしい。その容姿は、まるで子リスのようだ。


 でも、それだけだ。アデルから見れば、リシェルはただの“見た目が可愛い令嬢”に過ぎない。別にずば抜けた美貌があるわけでも、特別な才能があるわけでもない。なぜ、あの完璧なジュリアン・ヴァレリオが、あんな平凡な女性を、あそこまで深く愛するのか。アデルには理解できなかった。


(だったら、あたしにだって……チャンスはあるはず。あたしの方が、もっと彼に相応しいはずなのに……!)


 昨日、初めてジュリアンと対面したとき、彼の漆黒の瞳に自分の姿が映った。その瞬間、確かに心が跳ねた。彼の視線が自分に止まったとき、何か特別なことが始まるのではないかと期待した。けれど、それきり。彼の視線はすぐにリシェルへと戻り、アデルは透明人間のように扱われた。


 それでもいい。一度彼に認識されれば、ここからは自分の行動次第だ。少しずつ、ゆっくりと、彼の心に入り込んでいけば――。




 そう決意したアデルは、さっそく行動を起こすことにした。その日の午後、彼女はジュリアンがよく利用する書庫へと向かった。


「……アデル?」


 書庫の入口で、ジュリアンが驚いたように声を上げた。彼は書架から一冊の本を取り出し、ページを繰っていたところだった。普段、使用人がこの書庫に立ち入ることはほとんどない。特に、まだ新人であるアデルが、こんな場所にいるのは珍しかった。


「おや?  本がお好きなのですか?」


 ジュリアンは、その意外な来訪者に、好奇心に満ちた眼差しを向けた。


「……はい。あの、公爵様の読まれる本がどんなものか知りたくて……つい、こちらに」


 アデルは、頬を染めて、はにかむように答えた。その声は、控えめながらも、どこかジュリアンにすがるような響きを含んでいた。もちろん、これはアデルの計算だ。ジュリアンが「可愛いものが好き」な性癖を持っていることを、彼女は既に使用人たちの噂話から聞き出していた。自分を「無邪気で本の好きな可憐な少女」として印象付けようとしたのだ。


「ふふ、そんなことのために?  律儀ですね。……それなら、こちらの書架を。私は主に歴史書や、稀にファンタジー小説も読む。君には少し難しいかもしれないが、興味があるなら読んでみるといい」


 ジュリアンは、アデルのいじらしい態度に気を良くしたように、微笑んだ。そして、自ら書架へと案内し、お気に入りの本を指し示す。彼は、アデルの行動に全く裏がない、ただ純粋な好奇心から来ているものだと信じきっていた。


(よし……成功)


 アデルは、にこやかな笑顔の裏で、小さな拳を強く握りしめた。ジュリアンが自分の言葉に誘われ、興味を示してくれた。たったそれだけのことなのに、アデルの胸は喜びでいっぱいになった。ほんの数分だけでもいい。彼の隣にいられるなら。彼の声を、誰より近くで聞けるなら――。


 彼の優しさに触れるたびに、アデルの心の中で、ジュリアンへの執着が肥大化していくのを感じていた。しかしその頃。


「……二人が書庫で?」

「ええ、ほんの少しでしたが、公爵様が新人メイドに本を紹介しておられたようで……」


 マルグリットからの報告を聞いたリシェルの胸は、ざわりと波立った。まさか、ジュリアンがアデルに自ら書庫を案内したとは。その光景が脳裏に浮かび、リシェルの心に漠然とした不安が募っていく。


(わたし、やっぱり……不安になってるんだ……)


 リシェルは、自分の正直な感情と向き合った。嫉妬なんて、したくない。愛する夫を疑いたくもない。だが、アデルのジュリアンへ向けられた視線は――あまりにまっすぐで、そして、どこか熱を帯びていた。それは、単なる尊敬の念だけでは説明できないもののように感じられた。


 そして、そのリシェルの背後で、パチンと手を打ったのは、侍女のエミリアだった。彼女は、リシェルの心の動揺を敏感に察知していた。


「奥様、気にしてはダメですよ。何を気になさっているのか、お見通しですから」


 エミリアは、いつもの無表情で淡々とした口調ながらも、その言葉には親友を励ますような温かさがあった。


「アデルがいくら“栗毛の子鹿”でも、奥様は“天使の子リス”です。格が違います。奥様は、公爵様にとって唯一無二の存在ですわ」

「こ、子リスとか……天使とか……そんな……」


 リシェルは、エミリアの唐突な比喩に戸惑いながらも、その言葉の意図を汲み取った。エミリアは、リシェルがジュリアンにとってどれほど大切な存在であるかを、改めて示そうとしているのだ。


「さ、この後、執務室で公務の報告を旦那様にされるのでしょう?  とびきり可愛くして、どーんと惚れ直させましょう!」


 エミリアは、リシェルのドレスを選びながら、力強く言った。


「……どーん、て……」


 リシェルは苦笑いしながらも、エミリアの勢いに押される形で、鏡の前へと導かれていった。エミリアの言葉が、リシェルの心に小さな勇気を与えたのは確かだった。




 夕刻、ジュリアンの執務室の扉が軽く叩かれた。


「失礼いたします、奥様がお見えです」


 執事長セドリックの声が響くと、ジュリアンは書類から顔を上げた。


「……リシェル?」


 その名を聞いた瞬間、ジュリアンの顔がぱっと明るくなった。公務で疲れていた表情が、一瞬にして消え去る。


 そして――。執務室に入ってきたリシェルの姿に、ジュリアンは一瞬、言葉を失った。


 花のような薄桃色のワンピース。肩をゆるくまとめた栗色の髪には、小さな真珠の飾りが繊細に揺れている。頬には淡い紅が差され、普段よりも少しだけ華やかな印象だ。そして何よりも、そのまん丸の黒い瞳が――ジュリアンだけをまっすぐに見つめていた。


 リシェルの姿は、まるで春の陽光を浴びて咲き誇る花のように可憐で、ジュリアンの心を強く捉えた。


「リシェル……今日の君は……まるで、春の妖精だ……」


 ジュリアンは、感嘆のため息とともに、その言葉を紡ぎ出した。彼の視線は、リシェルの一挙一動から離れない。


「っ、よ、妖精だなんて……そんな、大げさですわ……!」


 リシェルは、褒め言葉に慣れていないかのように、顔を真っ赤にしてどもった。彼の真剣な眼差しに、心臓が大きく跳ねる。


「いいや、大げさじゃない。私の目に映る君は、それほどに美しい。……美しすぎて、思わず抱き締めそうになる」


 ジュリアンは、リシェルに向かって手を差し伸べた。


「なっ……なっ……!?」


 言葉を呑んで真っ赤になるリシェルを、ジュリアンは微笑ましげに見つめた。そして、彼女の手を取り、優しく引き寄せた。


「誰が何と言おうと、私の目に映る君は、この世界で一番可愛い存在だよ。君が隣にいてくれるだけで、私はどんな困難も乗り越えられる」


 その声音は、あまりにも優しくて、まっすぐで、そして、リシェルへの深い愛情に満ち溢れていた。


 リシェルの心にあった微かな不安は、ジュリアンの揺るぎない言葉と、その温かい手の感触によって、音を立ててほどけていった。彼が見ているのは、誰でもない自分だ。自分だけを愛し、自分だけを大切にしてくれる。疑う余地など、どこにもなかったのだ。




 その夜。ヴァレリオ公爵邸の片隅。使用人用の部屋の一角で、アデルは部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。窓から差し込む月の光が、彼女の顔を青白く照らす。


 今日もまた、彼の視線は自分を通り抜けて、あの奥様へと向けられていた。彼の瞳に映るのは、リシェルだけ。自分は、彼の視界にすら入っていない。


(……私なんて、見られてもいない……)


 胸が、苦しい。悔しくて、切なくて――そして、全身を黒い感情が覆っていく。こんなにも完璧な男性が、自分の手からすり抜けていく。その事実が、アデルの心を深くえぐった。


「このままじゃ、ダメ……」


 ぽつりと呟いたその声は、昨日までの可憐な少女にはなかった、冷たく、そしてどこか決意に満ちた色を帯びていた。


 待っているだけじゃ、彼に届かない。可愛いだけじゃ、あの奥様には勝てない。何か……何かをしなきゃ。彼の心を、力ずくででも奪わなければ。アデルの瞳が、静かに、しかし激しく燃え上がる。その瞳には、かつての純粋さはなく、ただ一点の光だけが宿っていた。


(奪わなきゃ、手に入らない……私のものにしなければ……!)


 そして彼女の中に、ある“策”が浮かび始めた。それは、綿密に計算された、しかし冷徹な計画だった。


 それは、きっと――誰かを傷つける策。彼女がこれまで生きてきた中で、決して手を出してはいけないと教えられてきた禁忌。だが、そのときの彼女にとって、それは唯一の光だった。あのジュリアンを手に入れるための、唯一の道筋に見えたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ