プロローグ 竜王の背中は、乗り物ではない
竜王の背中から落ちた人間は、地面に着くまでに何回くらい後悔できるのだろう。
ひとまず私は、一回目を工具鞄に使った。
「待って、そっちは落ちたら困る!」
私より少し下を、革の鞄がくるくると回りながら落ちていく。留め紐が切れ、蓋まで開きかけていた。中身が飛び出せば、手鏡も鉤も留め具も、まとめて雲の下である。
腰の輪から細い綱を抜き、先端の鉤を投げた。
一投目は外れた。春色の花びらが視界を埋めたせいだ。
二投目は弾かれた。今度は横殴りの雹が飛んできたせいだ。
三投目で、鉤が鞄の取っ手を噛んだ。
「よし!」
腕に重みがかかる。
これで工具は助かった。
代わりに、鞄の重みに引っ張られ、私の落下速度が上がった。
何か大切な計算を忘れていたらしい。
『愚か者が』
腹の底まで震わせる声が、頭上から降ってきた。
黒鉄色の巨体が雲を裂いた。鱗の隙間を赤い光が走り、竜王ヴァルドが翼を畳む。急降下してきた前脚が、私の外套と工具鞄をまとめてつかんだ。
次の瞬間、空が止まった。
正確には、首が抜けそうな勢いで、私だけが止められた。
「ぐえっ」
『人間は、空でそのように鳴くのか』
「あなたのつかみ方が悪いんです!」
『落ち方の良し悪しを棚へ上げるな』
ヴァルドは翼を大きく開き、もとの高さまで戻っていった。私は前脚から背中へ戻される。
鱗の盛り上がりに両足を押しつけ、切れた固定帯の代わりに綱を二重に回した。
工具鞄は無事だった。肩は痛い。
順番としては悪くない。
『なぜ鞄を先に拾った』
「次の患者を素手で治せと?」
『道具は作り直せる。貴様の身体は一つしかない』
「この留め具には、二度と鱗はよこさないと渋った竜王陛下の素材が使われています」
『余の鱗を人質に取るな』
「患者さんの提供品です。大切に扱っています」
喉の奥で、ごろごろと岩が転がるような音がした。
怒ったのかと思ったが、違った。
ヴァルドの羽ばたきがゆっくりになっている。さっきまで顔を上げるのも難しかった風が、頰を冷やす程度まで弱まっていた。
指摘すれば速度を戻しかねないので、黙っておく。
雲が切れた。
眼下に広がった森を見て、工具鞄の金具へ伸ばしかけていた手が止まる。
一本の川を境に、右岸では若葉が開き、左岸では木々が真っ赤に染まっている。その先には雪が積もり、さらに奥では陽炎が立っていた。
風向きが変わるたび、芽吹きと落葉と吹雪が場所を入れ替える。
春、夏、秋、冬。
四つの季節が、狭い森の中で互いを押し潰していた。
「ここまでひどいとは聞いてません」
『今朝届いた書状では、霜が降りたとしか書かれておらぬ』
「王様が風邪をひいただけ、という話でもなさそうですね」
『王が痛めば、国が痛む。それだけは余も同じだ』
ヴァルドの声から、わずかに軽さが消えた。
私も冗談を引っ込め、工具鞄の脇袋を確かめる。
厚い布で包んだ小瓶があった。
中には、三か月前にヴァルドの歯から取り出した黒い欠片が入っている。
石でも、骨でも、金属でもない。
少なくとも、私の知る材料ではなかった。
小瓶の底で、硬い音が一つした。
揺れのせいだろうか。
そう思った直後、もう一度鳴った。
「ヴァルド、急いで降りてください」
『見えている』
「じゃあ早く」
『余へ飛び方を命令するな』
「さっき墜落しかけた人間を拾ったこと、もう忘れたんですか」
返事の代わりに、ヴァルドの背中が大きく傾いた。
森の中央には、白い枝を編んだような高塔が立っている。その周囲だけ、若葉は開いたそばから凍り、氷が解けた直後には枯れ葉となって散っていた。
ヴァルドが塔前の広場へ降りる。
地面に触れる寸前、巨体が赤い熱と黒い煙に包まれた。翼も尾も縮み、煙が晴れたときには、白髪の大男が私の外套の襟をつかんで立っていた。
「自分で降りられます」
「先ほど、見事な実演を見たばかりだ」
「あれは不可抗力です」
足を地面につけてもらい、外套を引き戻す。
広場では、枝や花を衣服のようにまとった者たちが待っていた。
先頭の使者がヴァルドへ深く頭を下げる。その視線が私へ移ると、眉がわずかに寄った。
「竜王陛下。お待ちしておりました。お連れの荷物持ちは、控えの間へ」
慣れている。
工具店でも、私が作った品より先に家名を尋ねる客は多かった。
工具鞄を握り直したところで、ヴァルドが使者の前へ半歩出た。
「荷物持ちではない」
低い声だった。
「余の歯医者だ。患者のもとへ通せ」
使者の顔から、きれいに表情が消えた。
たぶん、私も似た顔をしていた。
「……歯医者?」
「二度言わせるな」
ヴァルドは私を見なかった。こちらが何か言い返すとでも思ったのだろう。
正しい判断である。
使者は戸惑いながらも、両手で一枚の薄い板を差し出した。
水を張ったように透き通った表面に、一本の歯が映し出されている。硝子のような歯の中央を、細いひびが走っていた。
その奥で、黒いものが動いた気がした。
脇袋の小瓶が、三度目の音を立てる。
「精霊王は?」
「三日前から、お目覚めになりません。今朝だけで、森の季節が七度変わりました」
使者の声が震えていた。
ひびではなく、その向こうにいる誰かを恐れているように聞こえた。
私は透明な板から顔を上げた。
「まず、本人に会わせてください」
「しかし、歯の状態ならこちらで」
「歯だけを見ても、治療は決められません」
言ってから、自分の口から出た言葉に少しだけ腹が立った。
あの人の言い方に、似ていたからだ。
ヴァルドがこちらを見る。金色の目が一度細くなったが、何も言わなかった。
「案内を」
使者が塔へ向き直る。
その背を追う前に、ヴァルドが小声で尋ねた。
「退くなら今だぞ、リタ」
「患者を見てから決めます」
「そう言うと思った」
呆れた声だった。
けれど彼は、私より先に塔の扉を開けた。
今でこそ、世界最強の竜王は私を歯医者と呼ぶ。
けれど三か月前、ヴァルドは私を工具屋の小娘としか見ていなかった。私も彼を、一本の巨大な虫歯と、失った家名を取り戻す絶好の機会としか見ていなかった。
だから、最初の治療は見事に失敗した。
始まりは、閉店間際の工具店だった。
白髪の老人が扉を開けて、死んだ母を呼び出せと言ったのである。




